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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その11


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その11



「これで、勉強しなくちゃならん、とわかっただろう!」父のボクサーのような拳が、あたしの顔や体に何回も突き刺さる。あたしは泣き叫んだが、ついには目が晴れ上がり、開けられなくなってしまった。



「おべんきょうはしているのに、どうして、あたしのことをぶったりするの?」とあたしは思った。もちろん、そんなこと、ひと言だって口に出せるわけはなかった。


突然に怒りを爆発させた父は、おさまるのも突然だった。あたしの腕をぐっと取ると、廊下からバストイレまで引っ張って行き、あたしを語り床の上に乱暴に投げ出して去って行った。


熱い、涙にぬれた頬が、ゴツンと冷たいタイルに当たった。血が流れる脚の上に、重たい本が落ちてきた。


「ここにいろ!これを読むんだ!」
そんな声とともに、ドアがバタンと閉まった。


男の子たちが一人ずつ手洗いに入ってきた。あたしの傍らをそっと歩き、父がまたあたしを、自分を、いやみんなをぶちはしないかと恐れ、ひと言も声をかけなかった。


父はいつも、さらにひどい暴力を振るうかもしれないぞという、無言の脅迫であたしたちを支配していた。


それであたしたちは身動きもできず、間接的にしろ、父と共犯者にされていたのだ。


その夜、あたしは同じ場所に体を丸めて横になり、自分が人の目につかないほどちっぽけな、価値の無い人間のように感じていた。


母は泣き疲れて寝入ってしまったあたしを連れ出し、リービーの横に寝かせる前に、切り傷や打ち身のあとを、そっときれいにしてくれた。


きょうだいたちとあたしは、この恐怖に馴れてしまい、父の怒りの爆発には正当な“理由”があるんだ、と思うようになった。


だから、あたしは父を怒らせる何か大変悪いことをしたに違いない、と信じていた。どうしてそう信じてしまったのか、本当のところはわからなかった。

0328miclatoya.jpg


父も母も、そういった無計画な罰の与え方について、決して説明はしてくれなかったからだ。子どもとは、自分の両親の行動を通じて、初めて世の中のことを学ぶものだからだ。


だから、親があたしの父のような抑制を失ったり、母のように従順すぎて無防備のままだったりすると、子どもは物事のありのままを見るのではなく、物事とはこうあるべきだ、としか考えられなくなってしまうのだ。

バストイレの床の上で、あたしはもうこれ以上、父にあたしをなぐる理由を与えないようにしよう、と誓った。


多分、あたしは父をうまく御することはできないだろうが、自分を抑えることによって、父の心を和らげることはできるだろう。

これは、多くの虐げられた子どもたちが身に付けた、自己破壊的な“政策”である。あたしはもう二度と、父を怒らせるようなことは決してすまい、と自分の心に約束した。


以来、あたしはクラスの中ではよく発言するようにしたが、家では台所の湯わかしのうしろの片隅で、何事も静かに見守っているようになった。


みんなを喜ばせようとそればかりを懸命に願い、どんなことがあろうと、誰ひとり怒らせまいとしていた。


「ラトーヤは、本当に良く出来た子だよ」と、母はまるであたしには非の打ちどころがないような口ぶりで言ったが、実のところ、あたしはそうするより他に道はないのだ、と思っていた。


ごく限られた程度だが、あたしの計画は功を奏した。尽きることのない精神的な暴力には非力だったが、ジョーゼフは二度とあたしに手を上げることはなかった。


そんなわけで、男の子たちは今でもあたしのことを“甘やかされ”と呼んでいる。しかし、言葉の暴力は、ぶたれるのと同じくらい痛いものだ。


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いや、ぶたれるのはいつかはとまるものだから、それ以上に堪えるのかもしれない。冷静で野卑(やひ=下品で洗練された感じのないこと)な言葉は、投げつけられたあとも長く、いくどとなく脳裏によみがえるものなのだ。


母の両親は、わが家では何か問題を抱えている、と感じ取っていたようだ。なぜなら、あたしたちが“ママ”と呼んでいた祖母のマーサは、いつも特別な配慮を示してくれたからである。


例えば、みんなに通学服を買ってくれたり、リービーのために、素晴らしいパーディドレスを見つけてきてくれたり、である。


ジョーゼフが「今度の週末は、おじいちゃんとおばあちゃんの家にいくぞ」と発表すると、あたしたちはいつも跳び上がって喜んだ。


二人は今もイースト・シカゴに住んでいるが、当時のあたしたちにすれば、どこかほかの世界に出かけるような気分だった。


“ママ”はケーキやパイやショートブレッドなどを焼いてくれたし、祖母の二度目の夫である“パパ”は、自分の経営する店からクッキーやポテトチップスを持ってきて、もてなしてくれた。


“ママ”の家は清らかで愛に満ちあふれ、まるで魔法の国にでも来たみたいだった。

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその12へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その12

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その12


“ママ”の家は清らかで愛に満ちあふれ、まるで魔法の国にでも来たみたいだった。“ママ” と“パパ”は厳格だったが、わが家で味わっていたような、侮辱と残忍さを伴った厳しさではなかった。


テーブルの一つには、祖母が世界中から集めた、金属や木や陶器などでつくられた小さな人形が大事に飾られていた。


とても美しかった。あたしは手をうしろに組み、用心しいしい眺めていたが、マイケルはつい手に取ったり、投げ上げて空で受けたりせずにはおれず、たまに取り落してはお尻を叩かれていた。


ほかに“ママ”は、本物の占い用の水晶球を持っていた。マイケルとあたしは、この家に来る度にいつも覗き込んでは、いつかは世界中を旅行できますようにと願を掛けたものだった。


母が、“エホバの証人のものみの塔“に入ってからは、あたしたちは家でクリスマスを祝ったことがなかった。そこで、祖父と祖母はかわいそうに思い、あたしたちをクリスマスパーティに連れて行ったり、プレゼントやお小遣いをくれたりした。


これは母の宗教上の信仰に反することだったが、母はあたしたちの喜びようを見て許してくれた。


クリスマスのことは別として、“ジョーゼフ以外はみな”エホバの証人“の教えに従い、週に何回か王国会館の集会に参加した。そこで覚えたのは、バイブルは唯一神エホバの福音であり、エホバは唯一の宇宙の主権者であることだった。


ほかの福音伝道のプロテスタント運動に比べて、再臨説と呼ばれるこの教えは非常に厳しいものだ。


信奉者は神の福音を届けるために、“パンフレット”を携えて(たずさえて)家から家へと訪問しなければならない。


“ものみの塔”の信者は、現世は悪魔が支配しているが、最終的には黙示録に示された神と悪魔の戦いで、悪魔どもは亡ぼされる、と信じている。


そのときこそ、“残されし者”と呼ばれる真の信者、選ばれた14万4千人のエホバの証人たちだけが、イエス・キリストとともに神の王国に入るのである。


この信者は煙草を吸わず、誕生日や祝日(ユダヤ人の過ぎ越しの祝いにあたる、年1度の主の御食日(ロード・ミール)は除く)を祝わず、国旗敬礼や投票、軍隊や官公庁への勤務もなかった。


ホモ、人工中絶、博打、その他冒涜的(ぼうとくてき)な言動は罪と考えられ、酒はいいが酔ってはだめ、映画はいいが成人向けはだめ、ダンスはいいがパートナーに触れてはだめ、デートはいいが結婚前提でなければだめ、といった具合だった。


また、交際も同じ“エホバの証人”以外はだめで、こういった孤立主義的な信仰のあり方は、あたしたちを外の世界から隔離させておこうというジョーゼフの思惑と、実にうまい具合に合致したのだった。


母はこの“エホバの証人”への入信を、あたしたち自身で決心させるべきだと信じ、誰にも押しつけたりはしなかった。


あたしとマイケルのほか何人かが、あとで洗礼を受け、人生の大半を深くその教えに委ねてきた。結局はジャクソン家の人間は信仰を棄てたが、その道徳的な教訓はその後も影響を及ぼした。

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(ジョー&キャサリン)


8人の子どもでは、しだいに家計を保つのが苦しくなり、母はデパートのシアーズ・ローバックにレジとしてパートに出た。家族全員が、ジャッキー、ティト―、ジャーメイン、マーロン、そしてマイケルの才能を伸ばすことに懸命で、必要な楽器が手に入るのなら、ぜいたくなんかできなくても、だれも気にする者はいなかった。


最初のころ、近所の子どもたちは、いつも音楽のレッスンのため家に閉じこもっている5人をからかっていたが、やがてその同じ子どもたちが、あたしたちの家の前の芝生に座りこみ、5人の歌や演奏を聴くようになっていた。


父はまるでフットボールのコーチにでもなったように熱心に、兄弟たちの歌や、振りや、表現の仕方について、これ以上はないというところまで、磨きをかけようと練習させた。


また、刺激や励ましを与えようとして、R&Bのスターたち、オーチス・レディング、ジャッキー・ウィルソン、テンプテーションズ、スモーキー・ロビンソン、ミラクルズ、それにマイケルがすぐ覚えてしまったジェームズ・ブラウンのレコードを聞かせたりもした。



1965年頃、家から角を曲がったすぐ近くのローズベルト高校でタレント・コンテストがあり、兄弟たちは、“ジャクソン5”の名で出場、見事第一位を獲得した。


甘く美しいハーモニー、体を揺すりながらテンプテーションズ最新のヒット曲“マイ・ガール”を歌ったそのときのことを、あたしははっきりと覚えている。


家族全員が、その優勝に大喜びしながらもびっくりしていた。だって、他の出場者はほとんど年上の子ばっかりだったのだもの。


ジョーゼフにとって、まさにこれは転機というものだった。



インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその13へ続く

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Going to Go-Go / Away We Go-Go



The Temptations Sing Smokey


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その13

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その13


ジョーゼフにとって、まさにこれは転機というものだった。時を移さず、近くの店のオープニングセレモニーや小さなナイトクラブのために、ジャクソン5の週末の日程を組み始めたのだ。


ミュージシャンとして働いていた数年間の経験から、父は出演交渉のやり方やナイトクラブのオーナーたちの扱い方、そしてこれが最も重要なことだが、ギャラを手に入れる方法を良く知っていた。


でも兄弟たちが出演していた場所のいくつか、例えば男たちが踊り子のバタフライに1ドル紙幣を詰め込む、あのストリップショーつきの安酒場などについて、父は母にどの程度知らせているのか、あたしはいつもあやしいものだと思っていた。


あの子たちがジョー・テックスの〈スキニー・レックス・アンド・オール〉の真似を始めると、おませなマイケルが沸かし役で、客の中の女性に抱きついたり、低いテーブルの下に潜り込んでスカートをめくったりしていたが、そんなことを母が知ったらどうなっていたことか!

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(ジョー・テックス)

次の日、マイケルがどんなものを見たか、母には内緒で息をはずませながら話すのを、あたしはただショックを受けながら聞いていたものだった。


兄弟たちの芸を認めた客が金を投げると、みんなはそれをポケットに詰め込んでは、あとでジョーゼフに渡した。


その晩の上がりから、父は息子たちに小遣い銭を少しばかり分けてやった。


ジャッキー、ティト―、ジャーメイン、マーロンはすぐ使ってしまったり、預金に回したりしていたが、マイケルはいつもキャンディをどっさり買い込み、近所の子どもたちに売りさばいていた。


母も認めてよくつぶやいていたが、マイケルはいっぱしの大人のようなやり方で、いかにも子どもらしいことをやっていた。


その“キャンディ屋”にしても、子どもたちはそれで大喜びし、しかも、自分はそれで金儲けをしていたのだ。

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(サム・アンド・デイヴ)

それから3年間というもの、5人は毎週末、クラブで一晩5つのショーをこなすようになっていた。


そして、〈フーズ・ラヴィング・ユー〉とか〈タバコ・ロード〉のような、トップ40に入るポップスやソウルのヒット曲を歌ったりしていた。


ほとんどは地元での出演だったが、たまにフェニックスやカンザスシティ、ワシントン、フィラデルフィアぐらいまで出かけていった。


母はいつもたっぷり詰めた弁当を作って持たせていたが、その母とあたし、それにランディとジャネットの4人は、運転手役の父と遠くに出かける5人に、家の前の芝生から手を振ってさよならを言うのだった。


すぐ寂しくなって、時には泣いたりするあたしだった。


今やセミプロのエンターテイナーになった兄弟たちだったが、それでも毎日果たすべき義務と仕事はあった。


日曜日の夜までにとか、いつまでにとかいった宿題があって、外出先にも教科書は持っていかなくてはならなかった。


2,3日経つと5人は疲れ切って帰ってきたが、自分たちはどんなところへ行ってきたのか、どんな大スターの、例えばサム・アンド・デイヴ、グラディス・ナイトとピップス、テンプテーションズ、アイレイ・ブラザーズ、オージェイズ、ジェームズ、ブラウンなどの全座をつとめたかなど、まるで夢のような、ステキな話もしてくれた。

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(テンプテーションズ)

当時のマイケルに最も大きな影響を与えたのは、ショービジネス界きってのがんばり屋といわれたジェームズ・ブラウンで、その大竜巻スピン(トルネードライク)、アクロバットのような大股開き(スプリット)、舞台の上をすべっていくような流動ステップ(リクイッド・スライド)、そしてもちろん、そのソウルミュージックが、マイケルの大のお気に入りであった。

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(James Brown)

ジェームズは、シカゴの近くで公演するときには必ずわが家を訪ねてくれた。そのガラガラ声と一際(ひときわ)けばけばしい服装、重そうな派手なアクセサリーなどが、はっきりと印象に残っている。


あたしはそれまで、そんな恰好をした男性など見たことがなかった。ジェームズはジョーゼフや兄弟たちに、音楽業界に住む連長が陥りやすい落とし穴のことなどを言い聞かせながら、わが家の居間に何時間もいた。


それは希望に満ちた若者への、ベテランから年季が入った忠告助言なのだが、若者たちはだいたいにおいてあまり耳を傾けないものだ。


しかし、ソウル界のゴッドファーザーと呼ばれたアイドルのジェームズ・ブラウンの言葉には、みんな熱心に聴き入ったのだった。

ジェームズ・ブラウンの最近の記事はこちらジェームズ・ブラウン遺体はどこへ


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその14へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その14

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その14


ソウル界のゴッドファーザーと呼ばれたアイドルのジェームズ・ブラウンの言葉には、みんな熱心に聴き入ったのだった。


あたしは一度、兄弟たちがシカゴのリーガル劇場で歌っているのを見たことがある。ウェディングケーキを思わせるような、華やかな天井のある大きくて古い劇場だった。


どっしりとした幕が上がると、なんと!大舞台の上には兄弟たちがカラフルなスポットライトを浴びて立ち、見も知らぬ何百という人々が起ちあがって、「もっと歌って!」と、ジャクソン5に向かって大歓声をあげているのだった。


そんな早いころから、兄弟たちはすごく上手で、洗練され、人を興奮させる才能を持っていたので、人々はつい、彼らがまだうんと若いことを忘れてしまっていた。


忘れてならないのは、1967年の当時、最年長のジャッキーが16歳、すでにスターだったマイケルにいたっては、わずか6歳だったことである。


ステージの上では、5人は何年間も同じポジションを決めていた。ステージ右手にはティト―がギターの上に身をかがめ、真ん中には一番背の高いジャッキーが、傍らにマーロンとマイケルを従え、左手にはベースのジャーメイン、といった具合である。


キーボードはロニー・ランシファー、ドラムにはジェニイ・ジャクソン(血の繋がりはない)が、当時から1980年代まで加わっていた。

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ジャクソン5の才能にとっての本当の試練は、その次の年、かの有名なアポロ劇場での〈水曜の夜のアマチュアコンテスト〉で、第一位を獲得した時にやってきた。


そのころまでには、彼らはデトロイトのフォックスやフィラデルフィアのアップタウンといった、伝統のある黒人劇場に出演してかなり名を知られるようになっていた。


だが、黒人アーチストにとってアポロ劇場とは、自分がアマチュアではなくてプロであることを証明する、最高峰の関門であった。


ニューヨーク市のハーレム街西125番地にあるこの劇場は、世界でも最も目の肥えた厳しい聴衆を誇りとし、下手な出演者は再起不能になるほど野次り倒されてしまう。


このアポロ劇場でのアマチュアコンテストの夜に優勝を勝ち取れば、すでにプロの道は開けた、と言えるだろう。


それを、わが兄弟たちは成し遂げたのだ、そして、プロの道を歩み始めたのだ。


やがてジョーゼフは、自分の時間をすべて息子たちの将来のために捧げようと、製鉄工場の仕事を辞めてしまった。


あなたがたは、あたしの両親が典型的なステージママやパパだと思われるかもしれないが、それは違っている。


その後ハリウッドに引っ越し、ほかの若いエンターテイナーやその家族に出会ってから、あたしたちは初めて実際のステージママやパパらしき人々を見た。


それらの多くの人々が、ただ自己満足のために子どもを無理やり芸能界に押し込み、その子どもの成功に乗じて、のうのうと暮らしていることもわかった。


ジョーゼフはプロのミュージシャンになる夢を棄てたが、息子たちのためだけではなく自分自身のためにも、息子たちを勇気づけ励ましていた。


忘れてならないのは、当時父が仕事を辞めたことは、経済的に大きなリスクを負ったということである。


そうすることが、息子たちに愛情を表現するジョーゼフの方法、おそらくは唯一の方法だったのだろう。


子どものころに5人が過ごした歳月は、ほかの子らのようにのんびりしたものではなかったが、歌や演奏は大好きだった。


両親も彼らの成長の各段階で、いつも応援を惜しまなかったし、彼らもそれには感謝している。


彼らがこんなにも広く世に知られるようになったことを考えると、現在では、ジョーゼフの精力的な厳しいマネージャーぶりも、彼らはきっと少しも恨んだりはしていないだろう。


ただみんなが思うのは、ほかにもう少し違ったやり方もあったのでは、ということだけである。


父が決めていた次のステップはレコードだったが、その年、ジャクソン5は最初のシングルレコードを出した。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその15へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その15

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その15





父が決めていた次のステップはレコードだったが、その年、ジャクソン5は最初のシングルレコードを出した。


バラードふうの〈ビッグ・ボーイ〉という曲で、B面は〈ユーヴ・チェンジド〉、出したのは地元の独立会社スチールタウン・レコードだった。


〈ビッグ・ボーイ〉がメジャーのアトコラベルで発売されて州内でのヒット曲になると、ジョーゼフは全米対象の契約を狙って動き始めた。


目指したのは、黒人が経営するレコード会社のなかでも、全米で最も大きく、最も成功しているモータウン・レコードだった。


1968年4月、彼らは、アメリカでもまだ数人しかいなかった黒人市長の一人、ゲイリー市のリチャード・ハッチャーのため、選挙基金キャンペーンに出演した。


モータウン・レコードの創設者ベリー・ゴーディ・ジュニアは、当時、良く民主党や黒人運動のために所属のスターたちを出演させていたが、兄弟たちはたまたま、ベリーが抱えていた大物スターのダイアナ・ロス、シュープリームスと共演するという幸運に恵まれた。


これは伝説みたいになっているが、それによると、ダイアナがジャクソン5を“発見”し、ベリーに彼らの才能を教えたと言われている。


伝説はドラマチックでないと面白くないが、必ずしも真実を伝えているとは限らない。


ダイアナは確かに彼らの才能に感心していたが、同じモータウングループのボビー・テイラーやバンクーバーズ、サム&デイヴのサム・ムーア、グラディスナイトたちも、ジャクソン5の才能を認めていた。

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(Bobby Taylor)

われこそはジャクソン5の発見者、と言い張る人が大勢いて、誰が本当なのかを知るのはとても難しい。ひょっとしたらグラディスだったのかもしれない。


以前、ジャクソン5はシカゴのクラブで彼女とザ・ピップスの前座をつとめたことがあるが、グラディスは興奮しながら、「モータウン・レコードにあたってみなさいよ」とジョーゼフにしきりに言っていた。


とにもかくにも、グラディスやダイアナ・ロス、ボビー・テイラーたちがみんなでジャクソン5を誉めるので、ベリー・ゴーディが大いに好奇心をそそられた、ということだったのだろう。


(グラディス・ナイト)

ある日、父はみんなを呼び集め、残念そうに、全国ネットのテレビデビューになるはずの〈デイヴィッド・フロスト・ショー〉の出演が、キャンセルになった、と言い始めた。


みんなががっくりしていると、父はいたずらっぽい表情で、


「………だって、モータウン・レコードからお呼びがかかったんだよ」


と付け加えるのだった。



(デイヴィド・フロスト・ショーのようなTVショー)


父、ジャッキー、ティト―、ジャーメイン、マーロン、そしてマイケルの6人は、バンに勢いよく乗り込み、デトロイトまで500キロ近く走ってその夜はホテルに泊まり、翌朝、ウェスト・グランド大通りのヒッツヴィルにあるモータウン本社を訪れた。


オーディションの模様はフィルムに収められ、ベリーはあとからそれを見ることになっていた。


なにしろ身近な兄弟のことなので、どんなに彼らが素晴らしいのか、あたしには十分にその真価が分かっていたかったと思う。


でも、そのモノクロのオーディションテープのシーンを見るたびに、彼らの成熟したテクニックに驚嘆(きょうたん)するのである。


ジャクソン5は、単にソウルミュージックを子どもが歌っているといったものではなく、努力と訓練を重ねた真のソウルが、たまたま子どもの姿をかりて現れたものなのだ。


その当時でさえ、マイケルには堂々とした存在感があり、中には、彼は体こそ小さいが大人ではないかと、本気で疑う人さえあった。


オーディションの時、彼らは神経を高ぶらせてそわそわしていたが、父は「いつものとおりにやればいいんだ」と、小声で力づけていた。


カメラを前にして歌ったり踊ったりしたあと、マイケルが自慢そうに「どうだった?」と言うと、ジョーメインは父から何も言うなと命じられていたことを思い出して「しーっ」と口に指をあててマイケルを黙らせた。


オーディションに来た苦労をねぎらわれたあと、取引が成功したかどうかの不安を胸に、6人はゲイリーへの長い道のりを帰路についた。


オーディションテープを見たとたん、ベリーがすぐにでも契約書にサインしたがったことなど、6人には知る由もなかった。


オーディションの様子の動画はこれ「I Got the Feelin」



インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその16へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その16

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その16

オーディションに来た苦労をねぎらわれたあと、取引が成功したかどうかの不安を胸に、6人はゲイリーへの長い道のりを帰路についた。


オーディションテープを見たとたん、ベリーがすぐにでも契約書にサインしたがったことなど、6人には知る由もなかった。


こんな時こそ、外で働いている父や息子たちと、家でその帰りを待っている者たちとの繋がりが心から感じられるものだ。


ジョーゼフと兄弟たちが出かけるたび、母、ランディ、ジャネット、そしてあたしの4人は、元気にやってるかな?ショーはうまくいったかな? といつも心配していた。


このオーディションのときも、その帰りを待っているうちに、あたしたちは不安と期待で本当に体が震えはじめていた。


だからその姿を見た瞬間に、あたしたちは彼らを質問攻めにしたのだった。

「ね、誰に会った?」
「どんな感じだった?」
「テンプテーションには会ったの?シュープリームスはどうだった?」


そして、最後になってやっと、恐る恐る「それで?オーディションはどうだった?」と尋ねたのだった。


もし、モータウンがレコードの契約を求めなかったら、以後わが家では、うまくいかなったことはすべて、いい人生勉強だと思うことにしよう、ジャクソン5が断られたとしても、みんなでこれまで以上に頑張って働こう------------


そう思っていたのだが、そんなにいつまでも考えている時間はないことがわかった。


というのも、間もなくモータウンから再びお呼びがかかったのである。そう、今回は契約の申し出の電話だった。


その後、兄弟たちは(のちにはその妹も姉も)、ショービジネスの世界でいろいろと大変な経験を重ねていくことになった。


でも、モータウンとの契約が成立したあの時以上の出来事は、もう起こらないだろう。モータウンは、兄弟たちが何年間もずっとあきることなく努力して、やっとたどり着いた人生一度きりの機会を与えてくれた。


ここで彼らは一つの旅の終点に立ち、そして再び新しい旅のスタートラインに着いたのだ。


あたしたち全員が感じていた希望、喜び、誇らしい気持ちは、とても口や筆では表現できない。


これから何があたしたち家族を待ち構えているのか、どんなにドラマティックに人生が変化していくのか、そのときのあたしたちの誰にも想像はできなかった。


(デイヴィッド・フロスト・ショーみたいなTVショー)


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その1へ続く

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