スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

マイケル呆然「グループの一員でいたくない」ラトーヤ自伝第七章よりその11

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第七章その11

ジャーメインがソロで自分のナンバーを歌った時だけはファンが静かだった、と書いた記者もいたけど、ファンはそれなりにうっとりしていたのだ。このときのショーは観ていてすごく興奮したけれど、悲しいこともあった。


兄弟がこうしていっしょに公演するのも、これが最後かもしれないと思ったからだった。


マイケルはあくまでもグループの一員として動こうと努めたけれど、どうしてもスターになってしまった。世間ではみなそう見ていたのだ。


でもマイケルに言わせると、ランディこそが本当のスターだった。いちばん下の弟であるランディは、4年前の自動車事故(ランディ自動車事故←記事はこちら)でまだ足の状態がよくなかったが、ジャッキーの代役をすると言ってどうしても聞かなかった。


ティトとジャーメインが他の3人を挟んで両側に立つ、典型的なジャクソン5スタイルにするのが大切だ、とランディは思ったのだった。


毎夜、ランディはパーカッションとキーボードを演奏し、歌いそして踊った。アンコールが終わって舞台を引っ込むと、足をひきずって歩きながら「ちくしょう、ちくしょう!死ぬほど痛いぜ」とうなっていた。


でも、足を冷やして休養をとると、いつも翌日の夜のショーに出られるようになっていた。

victory tour 34

1984年12月、ロサンゼルスのドジャー・スタジアムでビクトリー・ツアーの幕を閉じたとき、このツアーは史上最高の収益をあげていた。


このあとマイケルは、2度と兄弟たちとのツアーはやらないと発表した。けれど、さてそれがどうなるかは誰にもわからない。


ビクトリー・ツアーはジャクソンズを再結合させる上では素晴らしかったが、同時にその弱点もはっきり見せてしまった。


マイケルが恐れていた死の脅迫も決して根拠のないものではなかった。ある都市では、爆弾と最前列のチケット2枚を持った男を警察官が発見したのだ。

ジョーゼフがそういうことに無頓着なことを、マイケルが心配していたのも当然だった。

victory tour program 1984


ビクトリー・ツアーがマイケル最後のグループ出演になることは、多くの人々が知っていた。しかし、マーロンがツアー後にグループを離れようとしていることは、ファンも家族も全く知らなかった。


マイケルとは年が近かったので、マーロンはいつもマイケルと比較されていた。マーロンは他の兄弟たちと同じように才能のあるシンガーであり、ソングライターである。自分自身でその才能を証明したかったのも当然であった。


とはいえ、家族会議でマーロンがそのことを発表した時、マイケルは呆然となって言った。「なぜグループから離れるんだい?」


マーロンの返事は率直だった。「もうこれ以上グループの1人でいたくない。ぼく自身の成功を手に入れたんだ。独り立ちのエンターテイナーになりたいんだ」


マーロンの気持ちはよくわかったけど、彼を失った打撃は大きかった。初めてジャッキー、ティト、ジャーメインそれにランディと、5人に満たないジャクソンズが舞台に上がることになったのだった。


気がつかなかったけれど、別の1人がすでにグループを離れていた。
---------------
えぇ?マーロンがジャクソンズを脱退……それぞれが才能豊かであることはわかっていたけど、1人欠けたらつらいですよねぇ。それにもうひとりは一体誰だろう?
-------------

ラトーヤ自伝第七章その12へ続く

その他の海外芸能人はコチラ←最新情報はコチラ♪

マイケル最新情報はマイケル・ジャクソンの軌跡を綴るブログ

ジャネット・ジャクソンの駆け落ち事件ラトーヤ自伝第七章よりその12

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第七章その12

マーロンの気持ちはよくわかったけど、彼を失った打撃は大きかった。初めてジャッキー、ティト、ジャーメインそれにランディと、5人に満たないジャクソンズが舞台に上がることになったのだった。気がつかなかったけれど、別の1人がすでにグループを離れていた。


debarge.jpg
(ハンサムはジェームスは下左側?)

ビクトリー・ツアーが半分ほど進行していた9月のことだが、ジャネットが長年のボーイフレンドだったジェームス・デバージと駆け落ちしたのだ。
(2005年に隠し子騒動がありましたね、その時の子どもが本当はいて女の子だとかどうだとか…barksニュース←記事はこちら)


ジェームスは有名なモータウン・ファミリー一座の一員で、デバージの名で売り出していた。


ジェームス、マーティ、エル、ランディそれに妹のドニーがデバージを結成する前に、兄のボビイとトミーがスイッチというファンク・グループに入っていた。

janet and debarge



そのスイッチは、ジャーメインがマネージメントとプロデュースを引き受けていたグループだった。兄のジャーメインは、1981年にデバージとモータウンが契約するとき、その橋渡しをしている。


デバージ・ファミリーは、ジャクソンズと共通点が多かった。同じ中西部(ミシガン州グランドラピッズ)の出身で、10人の子どもたちは厳しく育てられた。


ジャネットとジェームスは何年か交際していたが、彼らの駆け落ちは家族全員にショックを与えた。何しろ、マスコミに報道されて初めて知ったのだから!


janet  latoya2


ジャネットとあたしは、当時かなり仲が良かった。彼女が連絡してくるのは、家族の中ではあたし1人だった。ジャネットが自宅から電話をしてきた時、あたしは兄たちとツアーに出ていた。


その夜、彼女はグランドラピッズに飛行機で行くと言い、そのわけを話してくれた。


「ジャン、そんなことしちゃダメよ」
「ラトーヤ、そうしなきゃならないの。でも誰にも話さないでね」
「とにかく話し合いましょうよ。本当に、こんなことしたいと思ってるの?」
「そう、どうしても実行するの」
「仕方ないわ。誰にも言わないからね」あたしはその約束を守った。


この秘密の結婚を知った兄弟たちは多いに動揺した。
「ジェームスのやつ、とんでもないことをやってくれたな、してやられたよ」と、誰かがぶつぶつ言っていた。


ジャネットは18歳、ジェームスは21歳だった。いろんな意味で典型的なジャクソンスタイルの結婚だった。


ただ違っていたのは、この新しいカップルがまもなくヘイブンハーストに住み始めたことだった。


ジェームスは優しくて気前も良かったけれど、ちょっと落ち着かないところがあった。彼も兄弟たちも、ミュージシャンの世界にはびこっていた悪い影響から、あたしたちほどには保護されていなかったのだ。

---------------
ジャネットの駆け落ち(でも住まいはヘイブンハースト??)結婚はジェームスのある行動によりすぐに終わりを迎えてしまうんでしたよね。
-------------

ラトーヤ自伝第七章その13へ続く

その他の海外芸能人はコチラ←最新情報はコチラ♪

マイケル最新情報はマイケル・ジャクソンの軌跡を綴るブログ

ジャネット夫の麻薬中毒ラトーヤ自伝第七章よりその13

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第七章その13

ジェームスは優しくて気前も良かったけれど、ちょっと落ち着かないところがあった。彼も兄弟たちも、ミュージシャンの世界にはびこっていた悪い影響から、あたしたちほどには保護されていなかったのだ。


あたしは最初から、彼には麻薬のにおいを感じていた。ジャネットは2人の間に何も問題はないように見せていたけれど、ジェームスの奇妙な行動にはみんなが気づいていた。


ジャネットは彼を探しに時々ロサンゼルスの危険地帯を歩き回らなければならないほどだった。


ある夜、ジャネットが夫を探しに行って帰ってきた時、マイケルは詳しく話すように迫った。「どうだった?午前4時に夫を探しに出かけたりして、怖くなかったかい?」


あたしたちはジェームスには心から魅力を感じでいた。というのは、ジェームスがあたしたちといっしょに住むようになってから、あたしたちは人生の厳しい現実からどれほど解放されてのびのびできたか、実際に感じることができたからである。


「いろんな人が、いろんなことをやっているのよ」ジャネットはいつも、こう答えるだけだった。


ジャネットはしなくてもいい苦労を噛みしめながら、“現実の人生”を学んでいた。妻となれば誰でもそうだろうが、彼女はジェームスに問題があってもそれを打ち消して、夫をかばおうとしていた。


あたしが本当のことを知っていると思うと、もう何も打ち明けなくなった。でも、あたしはそんな彼女のことが気になっていた。

janet latoya 1978


夜になると向かいの部屋から「どうにかしてくれ!どうにかしてくれ!どうしてもアレがいるんだ!」というジェームスの絶叫が聞こえ、目を覚ますことがあった。


「だめよ!だめよ!」とジャネットが怒鳴り返す。すると、ジェームスが家具につまづいて倒れ、起き上がろうとしてもがく鈍い音がし、時には平手打ちの音が聞こえた。胸の痛む思いだった。


「ジャン、ジェームスが治療を受けられるように、あたしたちがお金を出すわ。彼には助けが必要よ」あたしは何度もジャネットに訴えた。


「あの人は麻薬中毒なんかじゃないわ!2度とそんなこと言わないで!」
「中毒じゃないって?ジャン、でも、家中でつまづいては転んでるじゃない。それに一日中寝てるし…」


「彼の足にマッチの火を近づけても、何も感じないんだからな」とジャーメインも漏らしたことがあった。

janet latoya 1


強情なジャネットは、依然としてジェームスの麻薬のことを認めなかった。そのくせ、夫のことを知られたくないのでボディガードなしで旅行したりして、バツの悪い思いもしていた。


ともかく、スタッフはいつもジェームスから目を離さないようにし、あたしたちが町を離れているときなど、ジェームスがいつもよからぬ連中を歓待していると報告してきた。


両親はこのひどく微妙で気がかりな状況に、知っている限りの最善策を講じた。

---------------
こんな状況はどのくらい続いたんでしょうね。若い二人の日々は大変なことばかり…ビクトリー・ツアーのさ中、ジャクソンズはいろいろなことに直面してたのね~。
-------------

ラトーヤ自伝第七章その14へ続く

その他の海外芸能人はコチラ←最新情報はコチラ♪

マイケル最新情報はマイケル・ジャクソンの軌跡を綴るブログ


ジャネットの離婚ジャッキーの離婚ラトーヤ自伝第七章よりその14

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第七章その14

ともかく、スタッフはいつもジェームスから目を離さないようにし、あたしたちが町を離れているときなど、ジェームスがいつもよからぬ連中を歓待していると報告してきた。


両親はこのひどく微妙で気がかりな状況に、知っている限りの最善策を講じた。ジョーゼフはジェームスを嫌っており、いつも家から追い出すと脅していたけれど、そのたびに母が口を出した。


「ジョー、だめよ。構わずに放っておいたほうがいいわ。ジェームスに何か言ったら、ジャネットまで出て行ってしまう。そうなったら、ジャンがどこにいるか、何をしているかもわからなくなるのよ。もしあの子が出て行って、麻薬の売人につけられでもしたら……。そんなことになるよりも、ここにいてくれたほうがいいわ」と、母はすごく心配していた。


父は母の言うとおりにしたけれど、父がこんなふうに母の言葉を認めて譲歩したのは、これまでめったにないことだった。


あたしたちはみなジェームスに援助と愛の手を差しのべたが、彼は治療を受けるのを拒んだ。


ジャネットは妻だけではなく、父親と母親、そしてベビーシッターの役までもつとめた。こんな緊張はやがて2人の結婚生活にひび割れを生み、1年足らずのうちに2人は離婚届を出した。


ひどく悲しいことだった。妹はジェームスを心から愛していたからである。2人の別離にあたしたち家族が手を貸した、とマスコミは憶測したが、それは違う。


ジョーゼフはジャネットがジェームスを選んだことに不満に思っていたけれど、意外なことに父は何の干渉もしなかった。


ジェームスとジャネットの所属するレコード会社の一部の人たちは、彼女が独身でいるほうが歌手としては有利だと考えていたことは確かである。


でもジャネットの離婚は、結局は仕事とは無関係だった。ただ、2人の結婚生活がうまくいかなかっただけだった。


ちょうど同じころ、ジャッキーとイーニドも離婚寸前の状態だった。イーニドがひどいことばかり言って、ジャッキーを非難していたのだ。


ジャッキーの苦悩を目の当たりにして、あたしたちも心を痛めた。ジャネットと同じように2人は別れたけれど、あたしたちはたいして驚きもしなかった。


ビクトリー・ツアーのお祭り騒ぎが終わって、1985年に入った。誰もが平常の生活に戻ってほっとし、兄弟たちもしばらくは骨休めすることになった。

lionel richie


だが、マイケルには休む間もなかった。彼はハリー・ベラフォンテが始めたアフリカのためのU・S・A(アーティスト援助連合)の仕事に、早速関わることになったのである。


慈善のために生涯を捧げていることで知られるハリーは、アフリカの飢餓問題に深く心を動かされ、基金を募集したいと望んだ。


当初マイケルは、スターでちりばめられたコンサートを計画した。でも、ライオネル・リッチーとかケニー・ロジャースなどのマネージャーであるケン・クラーゲンは、特別のシングル盤のレコーディングをマイケルに勧めた。

ken kragen
(ken kragen)

同じ目的のために、ブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフは、最近、イギリスのロックンロールのアイドルグループを招請(頼んで来てもらうこと)した。


また、バンドエイドの名で発表された〈ドウ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス〉は、食料、医薬品のために900万ドル以上の基金を集めることができた。

---------------
いよいよウィ・アー・ザー・ワールドへ…
-------------

ラトーヤ自伝第七章その15へ続く

その他の海外芸能人はコチラ←最新情報はコチラ♪

マイケル最新情報はマイケル・ジャクソンの軌跡を綴るブログ

マイケルそしてウィ・アー・ザー・ワールドラトーヤ自伝第七章よりその15

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第七章その15

また、バンド・エイドの名で発表された〈ドウ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス〉は、食料、医薬品のために900万ドル以上の基金を集めることができた。


最初にケンがライオネルに話を持ちかけ、ライオネルがマイケルに呼びかけたのである。あたしたちは、70年代の初めからライオネルを知っていた。というのは、ライオネルの以前のグループであるコモドーズが、ジャクソン5のために前座をつとめていたからである。


彼らはあたしたちとの巡業で、いつも笑ったりジョークを言い合ったりした素晴らしい連中であった。

we are the world3


マイケルは興奮しながら、あたしにアフリカのためのU・S・Aプロジェクトを説明した。『この歌レコーディングに、クインシー・ジョーンズがアーティストを集めているんだ』問題は、このレコーディングのための歌ができていないことだよ、とマイケルは言った。


ライオネルがあたしたちの家にきて夕食をとったあと、彼とマイケルはマイケルの部屋に引きこもって作曲した。真夜中を過ぎた5時間後、あたしは部屋を覗いてみた。


「まだ作曲で起きてるの?きっと素晴らしいんでしょうね」
「まだ何も書いてないんだよ」ライオネルが決まり悪そうに言った。


「何も?」
「そう、何も」とマイク。
翌日も同様だった。


「いいこと?みなさんはこの歌を早く仕上げて、間に合わさなくちゃいけないのよ!」

「ラトーヤ、ご心配なく。調子がいいんで、今晩は仕上げるつもりだから」ライオネルはうわべだけは熱心そうに言った。ライオネルは突然大声で笑い始めた。うまくいってないとき、マイケルはいつもこんな笑い方をするのだ。


ライオネルはたくさん素晴らしい歌を作ってきたが、突然、理由もなくスランプに陥ったのである。ライオネルが帰って行ったあと、マイケルはほとんど1人で歌を作った。翌日に間に合わせなくてはならなかったのだ。


マイケルとライオネルは、そのデモテープをクインシーに渡した。クインシーは大喜びで、「こいつは素晴らしい!まさにこれだ!この歌だよ!」と叫んだ。

we are the world2

レコードのキャストを決定するのはプロデューサーの仕事である。バンド・エイドと同じく、このレコードはオールスター・イベントになる予定だった。ランディ、ティト、マーロン、ジャッキー、マイケルの5人と一緒に、あたしも〈ウィ・アー・ザ・ワールド〉のパートを歌ってほしいとのクインシーの要望をマイケルから聞かされた時、あたしは驚くとともに光栄に思い大喜びした。(ジャネットとジャーメインには誘いがなかった)

we are the world1


クインシーはときどきあたしをいろいろなプロジェクトに加えてくれた。フランク・シナトラの歌う〈L・Aイズ・マイ・レディ〉のでビデオに登場し、ディーン・マーチンとプールサイドで乾杯もさせてもらった。


レコーディング・セッションの段階に入ると、誰もが歌いたがったが、クインシーは特定のパートについて歌手を割り当てた。アメリカ音楽賞の授賞式の直後である1985年1月28日、あたしたちは全員クインシーとマイケルが持っているノースラブレア大通りのA&Mレコーディング・スタジオに向かった。
---------------
世界的なレコーディングへとラトーヤも参加するんですね。
-------------

ラトーヤ自伝第七章その16へ続く

クインシー・ジョーンズによる記述はこちら→ウィ・アー・ザ・ワールドその1クインシー・ジョーンズ自叙伝へ

その他の海外芸能人はコチラ←最新情報はコチラ♪

マイケル最新情報はマイケル・ジャクソンの軌跡を綴るブログ

エゴは抑えろ!ラトーヤ自伝第七章よりその16

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第七章その16

レコーディング・セッションの段階に入ると、誰もが歌いたがったが、クインシーは特定のパートについて歌手を割り当てた。アメリカ音楽賞の授賞式の直後である1985年1月28日、あたしたちは全員クインシーとマイケルが持っているノースラブレア大通りのA&Mレコーディング・スタジオに向かった。


考えられないかもしれないけど、スタジオにはスーパースターとアイドルたち、レイ・チャールズ、ボブ・ディラン、ハリ・バラフォンテ、ボブ・ゲルドフ、スティービー・ワンダー、ウィリー・ネルソン、ビリー・ジョエル、シンディ・ローパー、ダイアナ・ロス、ティナ・ターナー、ポインター・シスターズ、スモーキー・ロビンソン、ブルース・スプリングスティーン、ディオンヌ・ワーウィック、ホール・アンド・オーツほか、30人に近い歌手が集まっていた。

We_Are_The_World_sff_embedded_prod_affiliate_56.jpg


音楽はもうレコーディングされていたので、あとは46人の参加者に各自のパートを教え、リハーサルを行い、レコーディングする作業がある。


クインシーは歌手のみんなにエゴを抑えるよう、入口のところで指示していた。歌手全員がそれを実行した。スタジオ内には気迫がこもり、活気にあふれていたので、例外の1人が下品な振る舞いをしても威勢が消えることはなかった。


リハーサルの前にクインシーは、あたしたちがなぜこのスタジオにいるか注意を喚起するとともに、アフリカの危機の重大性について雄弁に語った。リハーサルの日の夜遅くなってから、スティービー・ワンダーのエチオピア人の友人二人が、個人的な感謝状を持ってスタジオを訪れた。


ひとりの女性は母国語のアムハラ語で、もうひとりは英語でスピーチをした。合唱団の前の列に立っていたあたしは(ランディはあたしの右に、マーロン、ティト、ジャッキーはあたしのうしろ)、深く感動した。


レコーディングに入る前に、マイケルの要請でクインシーはこう言った。「このプロジェクトに参加できなくて、感情を害される方々が大勢いらっしゃるかもしれません。でもわれわれはごくわずかな人々しかお願いできなかったのです」

We_Are_the_World_alternative_cover.jpg


「わたしがどの人々もおろそかにしているわけではないことを、知っていただきたいと思います。もし、ソロのパートを歌っていなくても、無視されたとは思わないでください。みなさんの誰もが上手に歌っていますが、各パートについて少数の人しか選ばれなかったのは、そのスタイルが歌に合っていると考えたからです」


レコーディングは延々と続いたけれど、実にすばらしかった。通りすがりにしか話したことのない人、たとえばボブ・ディラン、ポインター・シスターズなどとも、じっくり話すことができた。


あたしは偶然にベット・ミドラーの隣りに立つことになった。最初、彼女はとても静かで、どう接してよいのかわからなかった。しかし、じきに彼女は爆笑を誘う、ぴりっと気の利いた冗談を飛ばすようになり、2人ですごく楽しい時を過ごすことができた。


あたしは、少なくとも自分では質素と思えるマスタード色のブレザーと黒いパンツをはいていた。ところがベットは、何度かあたしのほうを振り向いて冗談を言った。「どうしてそんなにおめかししているの?あたしが普段着を着ているみたいじゃないの」彼女はシンプルなジャンパー姿で、ほとんど化粧っ気もなく、自然のままでいるほうが居心地よさそうに見えた。

---------------
ベット・ミドラーとラトーヤの服装、そう確かに激しくかけ離れていますもんね。あのラトーヤのジャケットが質素?…わからん…
-------------

ラトーヤ自伝第七章その17世界へ発信へ続く

クインシー・ジョーンズによる記述はこちら→ウィ・アー・ザ・ワールドその1クインシー・ジョーンズ自叙伝へ

その他の海外芸能人はコチラ←最新情報はコチラ♪

マイケル最新情報はマイケル・ジャクソンの軌跡を綴るブログ

世界へ発信ウィ・アー・ザ・ワールドラトーヤ自伝第七章よりその17

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第七章その17

あたしは、少なくとも自分では質素と思えるマスタード色のブレザーと黒いパンツをはいていた。ところがベットは、何度かあたしのほうを振り向いて冗談を言った。「どうしてそんなにおめかししているの?あたしが普段着を着ているみたいじゃないの」彼女はシンプルなジャンパー姿で、ほとんど化粧っ気もなく、自然のままでいるほうが居心地よさそうに見えた。


大スターが集まった時によく見られる光景とは違って、酒も麻薬もなかった。ただ、人々は互いに助け合い、相手の肩をマッサージしてあげたり(夜遅くなったので)、思いやりある態度で「大丈夫ですか?何か持ってきてあげましょうか」と尋ねたりしていた。


スタジオにはみな真剣な目的で集まってきていたけれど、レコーディングの合間に参加者たちはみな大変楽しく過ごした。スティービー・ワンダーが情熱をこめてリフ(反復楽節)を歌い始めたので、みな手を叩いて「ゴー・スティービー!その調子だ!」などと応援した。


また、全員でハリー・ベラフォンテのヒット曲〈バナナ・ボート・ソング(デーオー)〉を歌ったりした。誰も計画したわけではないが、みんながバナナ・ボートを歌い始め、手拍子が入り、調子に乗ったのだった。


ほとんどの人たちは、午前3時ごろにレコーディングを終えたが、マイケルと他のソリストたちは明け方まで続けた。各シンガーにそのパートをどのように歌ってほしいか、マイケルがしつこく注文したので、時間がかかったのである。


レコードは3月初めに発売され、以来、世界の飢餓と戦うための膨大な基金が寄せられた。このような活動のために集まったアーティストとともに仕事ができたのは、実に光栄だった。


〈ウィ・アー・ザ・ワールド〉は、マイケルの心の中でいつも特別の位置を占めるものだと思う。それは、世界の利益のために役立つ音楽の力を、鮮やかに証明したものと言えるだろう。

---------------
シャーラ♪と歌うマイケルの秘話やもっと詳しいウィ・アー・ザ・ワールド の記述はコチラ→ウィ・アー・ザ・ワールドその1クインシー・ジョーンズ自叙伝へ
-------------

ラトーヤ自伝第八章その1へ続く


その他の海外芸能人はコチラ←最新情報はコチラ♪

マイケル最新情報はマイケル・ジャクソンの軌跡を綴るブログ

最新記事
カテゴリ
最新コメント
プロフィール
マイケルとフレディ・マーキュリーを こよなく愛すオバさんです(^-^)
そしてタケウチのパンが大好きな私、 そんなワタシの最強の愛読書がこれ
ブランジュリ タケウチレシピレビュー

ラトーヤファン

Author:ラトーヤファン
FC2ブログへようこそ!

リンク
ぶろぐ村
フリーエリア
  • SEOブログパーツ
アクセスランキング
カテゴリ
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ダイナミックアド楽天
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。