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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その5




インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン訳高橋伯夫


第一章  その5


母は実に見事な声の持ち主で、いちどは芸能界を目指したこともあったが、脚が悪いことを気にして思いあきらめたらしい。


母は、自分の父がカントリー・アンド・ウェスタンが好きだったせいで、ラジオ番組<ザ・グランド・オウル・オプリ>(※下部参照)を聴きながら大きくなった。


だから、母は今でもカントリー・スターのフロイド・クレイマーが大好きである。


そんなことからか、あたしたちは小さいころからハモって歌うのがとても上手だった。それは自然に身についた才能で、父がぶらっと工場から帰ってくるたびに、母は興奮しながらよくいったものだった。


「ジョーゼフ、この子たちったら、信じられないほどすてきなハーモニーで歌えるのよ。それが完璧なの、ほんとにびっくりしちゃう」


たいていの父親だったら、せめて喜んだふりをし、よし、じゃ聞いてみるか、ぐらいは言ってくれたかもしれない。


ところが、父はまるで興味を示さなかった。父はもともと物静かな口数の少ない男で、叱ったりからかったりするとき以外は、まるで子どもなどいないように振る舞っていた。


あたしの記憶では、母はあたしをいつも特別扱いにしてくれていたようだ。お金こそあまりなかったが、母はあたしに美しいドレスを着せ、レースの飾りのついた靴下やピカピカのエナメル靴をはかせたりして、いかにも女の子らしく飾り立てては喜んでいた。


いつだったか、あたしはすごく悲しい気分で学校から帰ってきたことがある。


何人か子どもたちが、あたしのことを“ゴージャス”と呼んだからだった。そんな言葉はそれまで聞いたこともなかったので、からかわれたとばかり思っていた。


辞書で調べてみて意味がわかってから、すっかり気分が良くなったけど……。(luxurious 豪華、快適の意。アメリカでは豪華、ぜいたくをネガティブに意味しない、良い意味)


そんなふうに誰かにからかわれたりしたとき、母はいつも
「気にすることはないのよ。ママもいつも、あなたぐらいの時は同じだったんだから」と言ってはなぐさめてくれた。


母とあたしはいろんな点でよく似ている。感じやすく、潔癖で(もっとも、9人も子どもを生んで少しは母も変わったけど)、学校ではオール5の優等生だった。


母と同じように、あたしも大人になったら看護婦さんになるんだ、と思っていたし、祖父も、「ラトーヤ、お前はほんとにケイトに似ているね」とよく言っていた。


あたしは母を尊敬し、母が大好きだったので、そう言われるととてもうれしかった。あたしの目には、母のすることは間違いなんてないように映っていたのだ。


男兄弟に関して言えば、あたしは世界一ラッキーな女の子だと言っていいだろう。あたしはみんなの友だちであり、何でも打ち明けられるほど信頼されてもいた。


リービーは何歳も年上だったし、ジャネットはうんと年下だった。男兄弟にしたら、あたしが家の中でただ一人の女の子だったのだ。


昔も今も、みな言うことのないジェントルマンで、心やさしく思いやりがあり、あたしのことをまるでプリンセスみたいに扱ってくれた。


最年長のジャッキーは無口で、思慮深く、まじめな性格だった。運動神経は抜群で、十代のころ、家の裏の野球場で、シカゴ・ホワイトソックスにスカウトされたほどである。


チャンスが与えられていたら、間違いなくプロになっていただろうが、高校を卒業するころにはすでに音楽が最上のものになっていた。


それに、家族を見捨てて自分だけ別な道に進むなど、とても考えられなかったのだ。


ティト―は父ゆずりの釣り上った眉毛と、がっしりした体の持ち主で、ジャッキーと同じく物静かで、頭が切れて、機械いじりに夢中になっていた。


まだ小さいころ母のミシンの使い方を覚え、あとになって、母を手伝って、“ジャクソン5”のステージ衣装を縫ったりしていた。


可愛い手づくりのプレゼントをもらい、あたしはいつもびっくりした。「ほら、ラトーヤ、これはきみのだよ」と言いながら、バービー人形の新しい着せ換え衣装を手渡したりしてくれたものだった。


ティト―はまもなく模型飛行機や車のプラモデルづくりから卒業し、どんなふうに動くか調べようと、テレビやラジオ、はては洗濯機までバラバラに分解することに熱中しはじめた。


もちろん、父のジョーゼフが家に帰ってくるまでには、それぞれ元通りにしてはあったが。


ジャーメインは4番目の子だったが、どちらかというと家族のリーダー的な存在だった。


人をからかうことが大好きで、食事の最中、あたしのデザートが欲しくなると、いつもその上から「ハーッ」と息を吹きかけるのだった。


あたしが必ず悲鳴を上げ、皿を押しやるとわかっていたからだ。また、よく口いっぱいに食べ物をつめこみ、クチャクチャやりながら「ラトーヤ」と叫び、あたしのほうに口を大きく開けて見せたりするのだった。


ジャーメインは、ただ楽しみたいだけに、いつも何かやらかそうとしていた。他の家の子どもたちに比べると、あたしたちは大人しくて礼儀正しい方だったが、ジャーメインはハキハキと言いたいことを言い、自説を曲げない性格だった。


頑固なところがあり、学校にも行きたくなくて、一日中クローゼットの中に隠れていたこともあった。


3年半の間に生まれたジャーメイン、ティト―、ジャッキーの3人は、そのころいちばん仲が良く、寝室の窓をこっそり抜け出して、バスケットボールをやったり、クローゼットにしまってあるジョーゼフのギターを、そっとのぞき見したりしていた。


これだけは触ったり弾いたりしてはいけないと、厳しく言いつけられていたギターだった。


でも母は、あたしたちがいつも閉じ込められてばかりいるのを可哀相に思い、「わかっているわね、大切に扱うのよ」と注意しながら、時にはそのギターをクローゼットから取り出すことを許してくれた。


3人の中では、ティト―がレコードやラジオで聴く歌によく通じていた、特に上手にギターを弾くことができた。


ある日、起こるべきことが起きた。ティト―が弦を切ってしまったのである。

その6へ続く


(グランド・オール・オプリは、ナッシュヴィルのダウンタウンの、National Life & Accident Insurance Companyという保険会社に新しく作られた第5スタジオでスタートした。[1] 最初のショウの演奏者は当時77歳のフィドル演奏者、アンクル・ジミー・トンプソンだった。アナウンサーは番組のディレクターでもあったジョージ・D・ヘイ、別名「The Solemn Old Judge(ソロモンの老判事)」。彼はこの時30歳でしかも判事ではなかったが、シカゴの通信会社シアーズ・ローバックが所有するラジオ局WLS [2] で1924年4月に開始されたフィドルとスクエアダンスの番組、「National Barn Dance(全米バーン・ダンス)」ですでに人気を博しており、この分野のパイオニアだった。

初期にレギュラー出演していたバンドには、ポッサム・ハンターズ、フルート・ジャー・ドリンカーズ、クルーク・ブラザース&グリー・ジャンパーズなどがいた。彼らは順番に演奏したが、しかしヘイ判事はフルート・ジャー・ドリンカーズがお気に入りで、いつも毎回番組の最後を締める「red hot fiddle playing」のコーナーにもう一度登場させた。ヘイ判事は、開始当初から出演者を田舎風の愛称で呼び、女性にはあごひものついた帽子にエプロン、男性にはオーバーオールにチェック柄のシャツを着せて、農場にいるかのような演出をつけた。Wikipedia

family latoya


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