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マイケル呆然「グループの一員でいたくない」ラトーヤ自伝第七章よりその11

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第七章その11

ジャーメインがソロで自分のナンバーを歌った時だけはファンが静かだった、と書いた記者もいたけど、ファンはそれなりにうっとりしていたのだ。このときのショーは観ていてすごく興奮したけれど、悲しいこともあった。


兄弟がこうしていっしょに公演するのも、これが最後かもしれないと思ったからだった。


マイケルはあくまでもグループの一員として動こうと努めたけれど、どうしてもスターになってしまった。世間ではみなそう見ていたのだ。


でもマイケルに言わせると、ランディこそが本当のスターだった。いちばん下の弟であるランディは、4年前の自動車事故(ランディ自動車事故←記事はこちら)でまだ足の状態がよくなかったが、ジャッキーの代役をすると言ってどうしても聞かなかった。


ティトとジャーメインが他の3人を挟んで両側に立つ、典型的なジャクソン5スタイルにするのが大切だ、とランディは思ったのだった。


毎夜、ランディはパーカッションとキーボードを演奏し、歌いそして踊った。アンコールが終わって舞台を引っ込むと、足をひきずって歩きながら「ちくしょう、ちくしょう!死ぬほど痛いぜ」とうなっていた。


でも、足を冷やして休養をとると、いつも翌日の夜のショーに出られるようになっていた。

victory tour 34

1984年12月、ロサンゼルスのドジャー・スタジアムでビクトリー・ツアーの幕を閉じたとき、このツアーは史上最高の収益をあげていた。


このあとマイケルは、2度と兄弟たちとのツアーはやらないと発表した。けれど、さてそれがどうなるかは誰にもわからない。


ビクトリー・ツアーはジャクソンズを再結合させる上では素晴らしかったが、同時にその弱点もはっきり見せてしまった。


マイケルが恐れていた死の脅迫も決して根拠のないものではなかった。ある都市では、爆弾と最前列のチケット2枚を持った男を警察官が発見したのだ。

ジョーゼフがそういうことに無頓着なことを、マイケルが心配していたのも当然だった。

victory tour program 1984


ビクトリー・ツアーがマイケル最後のグループ出演になることは、多くの人々が知っていた。しかし、マーロンがツアー後にグループを離れようとしていることは、ファンも家族も全く知らなかった。


マイケルとは年が近かったので、マーロンはいつもマイケルと比較されていた。マーロンは他の兄弟たちと同じように才能のあるシンガーであり、ソングライターである。自分自身でその才能を証明したかったのも当然であった。


とはいえ、家族会議でマーロンがそのことを発表した時、マイケルは呆然となって言った。「なぜグループから離れるんだい?」


マーロンの返事は率直だった。「もうこれ以上グループの1人でいたくない。ぼく自身の成功を手に入れたんだ。独り立ちのエンターテイナーになりたいんだ」


マーロンの気持ちはよくわかったけど、彼を失った打撃は大きかった。初めてジャッキー、ティト、ジャーメインそれにランディと、5人に満たないジャクソンズが舞台に上がることになったのだった。


気がつかなかったけれど、別の1人がすでにグループを離れていた。
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えぇ?マーロンがジャクソンズを脱退……それぞれが才能豊かであることはわかっていたけど、1人欠けたらつらいですよねぇ。それにもうひとりは一体誰だろう?
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ラトーヤ自伝第七章その12へ続く

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