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裏表の顔を持つ猜疑心の強いキャサリンママラトーヤ自伝第八章よりその7

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫




第八章その7


買物や食事のためにあたしが家を離れることさえ、母は好きではなかった。「もし、お前が行ったら、誰がわたしと一緒に家にいてくれるの」と訴えるように尋ねた。

あたしは母を見捨てたりしない、と安堵させるたびに母はこう言った。「いいかね、ラトーヤ、兄弟たちの中にはジョーゼフのように遊び回っている者もいるわ。でも、デートするよりは母親と一緒にいるほうが大事よ。お前は、あたしにそっくりだよ」


何年か前はこう比較されるのが好きだった。でも、今は違う。母の幸せ、そして母の人生そのものがあたしを頼りにしている、とあたしに思わせる母のやり方に、あたしは初めて反発を感じでいた。


母の頭の中では、あたしと母は同じ生き方、同じ考え方をしている、という段階にまできていた。あたし20代後半だったけれど、母はあたしがすることには何にでも熱中した。


もし、あたしが大学でフランス語のコースをとれば、母も同じクラスに入って来た。彼女は相変わらずあたしの衣服を選ぶのが何よりも好きだった。母は本当に、あたし自身になったつもりで生きていたのではないだろうか。


母がどんなに子供たちを愛しているとは言っても、19歳で妻になり、24歳で4人の子持ちになったことに対して、何か恨みみたいなものを感じていたに違いない。また、おそらく母の目にはあたしがキャサリン、つまり母がジョーゼフにめぐり合わなかったころのキャサリンとして映ったのかもしれない。


母は愛情と支配とを等しいものと考えていたに違いないのだ。だからこそ、母はあたしを愛したのだ。母の幸福のために、自分に必要なものを喜んで犠牲にした忠実な娘であるあたしを…………。


母がビクトリー・ツアーに関わったこと、そしてジョーゼフの浮気に苦しんだことは母の性格を変えさせてしまった。あたしがこれまでに知っていた愛らしくて、柔和な母は、疑い深い、意地悪な女になってしまった。


彼女が知らない人を疑うのはある程度わかるとしても、家庭の中でまで時々、意地悪精神を発揮するのはどうしてだろうか。


marlon jackson


彼女は自分の子どもも含めて、人々について陰で悪く言うようになった。たとえば、マーロンが最初のソロ・アルバム、〈ベイビー・トゥナイト〉を完成させ、束ねた見本テープを持ってあたしたちを訪ねてきた時のことである。


弟のマーロンはアーティストとして独立するために奮闘し、このソロのレコードに対して当然のごとく誇りを持っていた。あたしはマーロンのことで興奮し、マーロンが帰ったあとで、このアルバムのテープをかけてみた。


「すごくいい曲だわ」とあたしはタップを踏みながら批評した。しかし、母はフンと言って軽蔑した。「マーロンなんか歌えないよ。なぜおとなしくやめないんだろう。あの子には才能なんかありゃしない」そう言うなり、彼女はカセットデッキの所に行って歌の中ばでとめてしまった。


ところが、別の機会にマーロンに会った時、母はそのレコードをさも気に入ったようなふりをした。何度か母のこの二つの顔を見たあと、あたしは皮肉を言ってやった。

「お母さんって、本当にすごい女優じゃないの」

母の最近のこのような振る舞いに当惑したあたしは、ジョーゼフとの間にいっそう緊張を高めることになった。ジョーゼフはやはり死ぬほど怖かったけれど、あたしは前よりも彼に立ち向かっていくようになった。

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本当のラトーヤが少しずつ少しずつ…。
彼女は父ジョーゼフにどう立ち向かっていくんでしょうか。

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ラトーヤ自伝第八章その8へ続く


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虐待はもう隠せないラトーヤ自伝第八章よりその6

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫




第八章その6

それに、家族がまともな状態でないことを当時はあまりによく知らなかったので、父の振る舞いがあたしや兄弟たちにも原因がなかったかどうか、あたしにはまだ確信がなかったのである。


まもなく父は、あたしの仕事に関してはジャックに、より多くの責任を持たせるようになった。1985年、ジャックはあたしの映画出演の可能性について、強力なウィリアム・モリス・エージェンシーのサム・ワイズボードと話し合うべく、あたしのために自主的に手筈を整えてくれた。


この会合は、スムースに運んだが、あたしはこのエージェントを訪ねたこと自体、気がそわそわと落ち着かなかった。というのは、もしジョーゼフがこのことを見つけたら激昂し、ジャックがこっそりと立ち回っているのを非難することを知っていたからである。


ロレッた・ヤングなどのスターを手がけたワイズボード氏は、あたしが気に入った様子だった。「当社は、あそこにいる女性たちをすべて仕込んだんだ」と彼は壁にかかったいくつかのポートレイトを指しながら言った。
(※ロレッタ・ヤングは、クラーク・ゲーブルとの女児の隠し子での件は自伝で有名になった。2000年没)

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(ロレッタ・ヤング)

そしてジャックのほうに向きながら、こう話した。「彼女のお父さんとは、ジャクソン5との関係で、だいぶ前にいっしょに仕事をした。そこで注意しておくが、父親が口を出してこないならばラトーヤと仕事をすることにしよう」芸能界ではジョーゼフをこう思っていることは薄々感じていたが、実際に直接このようなことを聞いたのは初めてであった。


男性たちは2人だけで相談したいからあたしに席を外すように、と求めた。ジャックが事務所から出てきた時、彼は動揺しているようであった。


「何を話したの?」エンシノに車で帰る途中、話の模様が知りたくなって尋ねた。ワイズボード氏はジャックにこう言ったそうだ。「彼女はどうみても被虐待児だ。わたしにはわかっている」


「ラトーヤ」ジャックは真剣な顔で聞いてきた。「正直に話して下さい。乱暴に扱われたり、虐待されたりしたことはありませんか」


「いいえ」
「お父さんに叩かれたりしたことは?」
「もちろんないわ、ジャック。なぜそんなことを聞くの?」
「いや、叩かれたでしょう、ラトーヤ。あなたは嘘をついているのです」


この秘密の会合のことをジョーゼフが知ったら、とびくびくしていたが、その怖れは現実のものとなった。ジョーゼフは、サム・ワイズボードを電話で呼び出し、人種や民族に関する侮辱的な言葉をひとしきりぶちまけ、受話器をガチャンと置いた。


ワイズボードの代理人からジャックに早速電話が入った。「このような状態ではラトーヤを引き受けるわけにはまいりません」再び父のかんしゃくにより、絶好の機会を失うことになった。


さらに、ジャックは父が荒れ狂ってどなる様子を目撃してショックを受け、信じられないことだ、とあたしに話した。


「忘れてちょうだい、ジャック。父はそういう人なんだから。聞いてほしいんだけどこんなこと、2度と繰り返したくないの。両親は、あたしが家から離れて住むことを許してくれないわ。たとえ、あなたがあたしのキャリアを向上させようとしても、ただあなたの面子を失うことになるだけよ。母とジョーゼフはあたしに成功してもらいたいようなふりをするけれど、本当はそうではないの。特に母はね」あたしはジャックにわかってもらおうと、一心に話した。


あたしの年齢が増すにつれ、母はあたしを小さな女の子のように扱い、手綱をしめた。彼女は、大人になってからの生活のすべてを、1人の母として過ごしてきた。


彼女にとって、母としての役割よりも重要なものはなかった。子供たちでは、マイケルとあたしだけがヘイブンハーストに残っていたため、巣が空っぽになることは母にとって苦痛であったに違いない。


買物や食事のためにあたしが家を離れることさえ、母は好きではなかった。「もし、お前が行ったら、誰がわたしと一緒に家にいてくれるの」と訴えるように尋ねた。

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縛られて苦しんでいたラトーヤ。でも世間ではいい子ちゃんで通っていたから、羽ばたけなかったのでしょうかねぇ~。
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ラトーヤ自伝第八章その7へ続く


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“ジャクソン家の秘密”ラトーヤ自伝第八章よりその5

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



マイケル・ジャクソンの思い出


第八章その5

7月のある日の午後遅く、セイエグとジャックはレイドの事務所で彼に会ったあと、ジャックは別室に行って札束の入った封筒を持って戻ってきた。


そのとたん、ジャックとセイエグは逮捕され、手錠をかけられた。
レイドは、自分を買収できると考えた者に怒りを覚えた結果(と彼はのちに述べている)、ジャックに突っかかり、FBIの捜査官に引き離されるまで、ジャックの首を締めつけたのである。


ジャックはFBIのおとり捜査にひっかかったと思われる。翌年の裁判で、検察側は、会話の内容がどちらともとれる不明瞭な電話の録音テープを証拠にした。


結局この裁判は、陪審員が誰を信用するかにかかっていた。レイドはおとり捜査の一部として賄賂を要求したのだろうか。それとも、これまで法律に違反したことのなかったジャックとセイエグが、わなにかけられてしまったのだろうか。


ジャックがどういう人間かを知り、また裁判所の文書を検討した結果、あたしは、この事件にはもっと何かがありそうだ、と思っている。


たとえば、セイエグの罪状認否の手続きから3カ月内に、セイエグの末っ子である6歳のケリー少年が誘拐され、2度と発見されなかったことである。誘拐から13年も経って、依然として未解決の事件である。この悲劇が起こったことで、セイエグに対する起訴は却下された。


しかし、ジャックは贈賄の3つの訴因の1つによって有罪とされ、1979年に最少逃走防止施設での6カ月の刑を宣告された。1981年、裁判に疲れ果てたジャックは1月から刑に服することになった。


裁判官は、拘置は夜だけで家族との面会も許される社会復帰訓練所への収容を勧告したが、ジャックは連邦の最大逃走防止施設を次から次へ転々と移されていった。


4か月半余りの服役中、ジャックは、独房監禁、並びに食事及び医療を含む基本的な権利を説明なしに取り消される大量殺人犯や常習暴力犯並みの取り扱いを受けたのだった。


この裁判には、その他多くの不法行為やミステリーが付きまとい、書けば一冊の本にもなるほどである。でも、ジャックは今も無実を主張していると言えば、他につけ加えることは何もないだろう。


ジャックが上訴した同じ時に、マフィアの大物と繋がりがあるとされていたラスベガスのジョン・ゴードンという男が大量殺人事件に巻き込まれて撃たれた。何年か後、あたしの家族やマスコミでは、ジャック・ゴードンを中傷するために、厚かましくも、そして都合よく、この2人のゴードンを取り違えて、ジャックがケリー・セイエグの息子の誘拐事件と関係があるように匂わせたのである。


しかし、その関連性はない。犯罪記録では、ラスベガスの当局は誘拐事件との関連でジャックの名前を挙げたことは一度もなかった。ラスベガスの主要な日刊紙にジャックに関する資料を求めたジャーナリストたちが、同時にジョン・ゴードンの切り抜きも欲しがったので、混乱が大きくなっただけである。


元に戻るが、あたしの全家族はジャックの刑務所の記録を知っていた。でも、ジャックの事件について詳しいことを知らされ、彼は濡れ衣を着せられたのだ、とあたしたちは信じていたから、その当時は誰もそんなことは気に掛けなかった。そして何よりも重要なのは、彼があたしたちの友人であったことである。


jackson family


ジョーゼフのところで働きながら、ジャックは、あたしたち子どもが父に無関心であることに気づいた。ジャックはちょっとびっくりして、「なぜあなたはお父さんにそんな態度をとるのですか。お父さんはあなたを助けようとしているだけですよ」とよくあたしに尋ねた。


ジョーゼフの虐待は家族の恥ずべき秘密だったから、他人に打ち明けるわけにはいかなかった。それであたしはいつも話題を変えた。


それに、家族がまともな状態でないことを当時はあまりによく知らなかったので、父の振る舞いがあたしや兄弟たちにも原因がなかったかどうか、あたしにはまだ確信がなかったのである。


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自分の家庭の状態がおかしいかとか、違っているかとかって、社会に出ていろんな人と接していかないとなかなかわからないものでしょうね。
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ラトーヤ自伝第八章その6へ続く


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身辺警備ビル・ブレイの発見ラトーヤ自伝第八章よりその4

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫




第八章その4

大変楽しいひとときだったが、あたしたちの警備主任、ビル・ブレイがジャックを疑い深そうにじっと見ているのに気づいた。あたしたちのファミリー・ビジネスでは高額の金銭を扱うため、ジャクソン家のビジネスに関わるようになった新参者については、その経歴などを調査するのが決まったやり方だった。


そこでビルは次のことを発見した。1981年、ネバダ州で、ジャックは贈賄の有罪宣告を受け、4ヶ月半服役したと言うのである。


ビルからこの事実を聞かされた時、いちばん驚いたのはジョーゼフだったが、一通り話しを聞いたあと、ジャックは辞めさせないことにした。父があげた理由はこうであった。


1つには、ジャックが暴力的犯罪で有罪になったわけではないこと、すでに社会に償いをしていること、そして、彼の逮捕及び有罪宣告には酌量すべき情状があったことなどであるが、これについては後述することにしよう。


頭に入れておいてほしいのは、あたしたちが生きている業界は、道徳的にはあまり褒められない要素が多く、それだけに法律に反するような行為など大して珍しくないということである。

Multi-platinum rock
(マルチ・プラチナム・ロック)

たとえば、マルチ・プラチナ・ロック・グループのマネージャーは、有罪宣告を受けたことのある元麻薬取引業者であり、また芸能界の主だった経営者には、脱税やホワイトカラー族にみられる様々な犯罪で有罪になった者が多い。


それは巨額の金の飛び交う、ペテン師のビジネスとも言える。この業界の人がどんなに身ぎれいなビジネス・スーツを着ていようと、その舞台裏やテーブルの下では、時折何か汚ないことが行われているのである。


長年、エンタテイメント・ビジネスに関わってきたあたしの家族は、これらのペテン師の何人かに騙されたことがあり、言えばその名前を知っている方もおられるかもしれない。


あたしはジャックの置かれた状況を軽く見ようとするわけではなく、事件の内容を正しくつかみたいだけである。あたしたちは聖職者ではなく、そんな業界に生きているのだ。


1978年、ジャックは自分の会社をもち、ラスベガスのカジノに、新しいスロット・マシーンタイプのゲーム機を2台導入しようとした。しかし、ジャックの会社は、3人で構成されたネバダ州賭博委員の承認を得られなかった。そこで州の裁定委員にその問題を持ち込んだ。


5人の裁定委員が全員賛成票を投じたら、ジャックの会社は賭博のラインセンスを取得できるけれど、1人でも反対があれば、翌年までゲーム機購入の承認を求めることはできないのである。


ジャックの親しい友人の1人に、ソル・セイエグという地方の実業家がいた。ジャックが州の賭博裁定委員会に提訴していることを聴いたセイエグは、自分自身は、このゲーム機に関心がなかったけれど、単に友人として、ジャックの代わりに同委員会の委員長ハリー・レイドに話してあげようと申し出た。


現在、民主党の上院議員であるレイドは、長い間、ラスベガス界では政治における有力者で合った。ジャックとセイエグは、社交的には、何年か前からレイドを知っていた。一時期、レイドはジャックの個人的な弁護士だったこともある。


ジャックはレイドと会合を終えたのち、賄賂を要求されたような印象を受けた。どう対処していいか分からなくなったセイエグとジャックは、レイドとの次の会合のために、12000ドルを用意した。


もし、レイドが実際に賄賂を受け取った場合、ジャックはレイドのことを当局に通報しようともくろんでいた。このため、セイエグのアシスタントの1人に100ドル紙幣、120枚の通し番号を書き留めてもらった。


7月のある日の午後遅く、セイエグとジャックはレイドの事務所で彼に会ったあと、ジャックは別室に行って札束の入った封筒を持って戻ってきた。


そのとたん、ジャックとセイエグは逮捕され、手錠をかけられた。

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この時点ではジャックはラトーヤや家族を大切にしていたんでしょうね。ラトーヤもジャックには並々ならぬ信頼をよせていましたね。
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ラトーヤ自伝第八章その5へ続く


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ジャック・ゴードン登場ラトーヤ自伝第八章よりその3

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


いよいよ問題の?ジャック・ゴードンが登場しました。
このあたりジャックに関する記述は少しばかり怪しい内容も有る気がします、がまずは読者の方々にお任せするとしましょう。



マイケル・ジャクソンの思い出


第八章その3

マルチ・ミリオン・セラーの商売を差し引いてしまったら、わざわざジョーゼフと面倒な関わり合いになってまで、彼とビジネスをする値打ちはなかった。このことは、あたしを含むジョーゼフの数少ない歌手やタレントたちの仕事までつまずかせるものになった。

dress latoya


1984年、テレビの音楽番組、〈ソリッド・ゴールド〉で、あたしは2回ほど、共同ホスト役を務めた。ジャック・ゴードンという実業家がこの番組であたしを見て、別のテレビのミュージック・ショーのためにパイロット・テープを作らないか、とジョーゼフに持ちかけてきた。


この話はうまく実現しなかったものの、ジャックは父と仕事をするようになり、父の個人的な資金面や雑多なショービジネス・プロジェクトを取り仕切るようになった。


あたしの家族の最近の主張とはうらはらに、家族はたちまちジャックが気に入ってしまった。彼はよくあたしたちの家の客となり、ジョーゼフとの打ち合わせがすんだあともまだ家にとどまって、母、マイケル、ジャネット、ジャッキーそれにあたしとおしゃべりをし、トンクやスクランブルなどのゲームをしたり、テレビを観たりした。


ジャックと父は変わらぬ友人となった。何より驚いたことに、あたしも彼が好きになった。彼は温厚で、面倒見がよかった。エンタテイメントの世界で出会う多くの人々は、自分のことばかりに夢中になっているが、ジャックは違っていた。


クリスマスのときには、ロサンゼルスの貧しい地区の子どもたちにおもちゃを与えたりした。ジャックに出会うまでは、あたしの兄弟のような目立った例外を除いて、すべての男性は父同様、生来的に邪悪な生き物だ、とあたしは決めてかかっていた。でも、あたしがどんなに間違っていたか、しだいにわかって来た。


ここまできて、今これを読んでおられる方は、あたしが本当に彼を好きになったと思われるかもしれない。マスコミは繰り返し、あたしたち2人のロマンスを憶測したが、そんなことはどうぞ忘れてください。


ジャックとあたしは単なる友人であり、現在は、そのうえマネージャーとアーティストの関係であって、それ以上のことは全くない。彼があたしに求婚した、と家族はあとで話しているが、完全な誤りである。・


その夏、ビクトリー・ツアーがニューヨークにきたとき、あたしはマディソン・スクエア・ガーデンで兄弟たちが公演するのを見るためにニューヨークへ飛んだ。ジャックもちょうどニューヨークに来合わせており、あたしと家族といっしょにヘルムズリー・パレスで夜、食事をした。


大変楽しいひとときだったが、あたしたちの警備主任、ビル・ブレイがジャックを疑い深そうにじっと見ているのに気づいた。あたしたちのファミリー・ビジネスでは高額の金銭を扱うため、ジャクソン家のビジネスに関わるようになった新参者については、その経歴などを調査するのが決まったやり方だった。
(ビル・ブレイの記事はこちら)


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元警官であるボディガードのビル・ブレイの判断に狂いがなかったとしたら、確かにジャック・ゴードンは不透明な感じがしたのかもしれない…
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ラトーヤ自伝第八章その4へ続く


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“ジョー・ジャクソン恐怖物語”ラトーヤ自伝第八章よりその2

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第八章その2

その夜、ホテルに帰るとすぐ母に言った。「あたしたち、朝の第一便で発つわ」
「でも、なぜ?」「発つと言ったら、発つのよ」この日、あたしは舞台裏で、父の主要なアシスタントの1人と口論していた。


「ジュディや父と鉢合わせになるようなスケジュールは、もう二度と組まないでちょうだい!嫌だわ。あたしや母に失礼じゃないの。母がジュディを嫌っていることは知っているでしょう。それなのに、彼女はここに来ているじゃないの。今晩の便ででも発ちたいところだわ」


「でも、ラトーヤ、今晩の便はもうありませんよ。それにジョー・ジャクソン・ダンサーズはどうするんですか?」アシスタントは訴えるような調子で言った。


「ジョー・ジャクソン・ダンサーズなんかどうでもいいわ。ジョー・ジャクソンであろうと、誰であろうと母以外、あたしは気にかけてはいないの。とにかく、母とあたしはここから出たいのよ」


アシスタントはぐったりした様子で答えた。「わかりました。明日の朝一番に、電話でフライト・ナンバーをお知らせします」


「もうひとつつけ加えておくけど、ジュディがここにいることを母に見つからないようにしてちょうだいね。ジュディの命がないかもしれないから」


何が起きたのか、みんなが知っていた。それなのに何も目に映らなかったようなふりをしていた。家にでもいるようだった。ジョーゼフの部下は、あたしや兄弟たちと同じような反応を父に示していたのだ。


つまり、恐ろしくて、父の行いを恥ずかしいものと認められなかったのである。メキシコで起きたこの出来事で、あたしは前にも増して父を憎むようになり、母に同情した。母はこれまで父からあたしを守ってくれなかったけれど、父が母を虐待したことで、あたしはどうしても母を保護しなければならない立場に追い込まれた。



あたしはジョーゼフから逃げ出したくてたまらなかったけれど、方法がなかった。彼はあたしの父であるだけでなく、合法的なマネージャーでもあった。

1216-latoya.jpg
(かわいいラトーヤ姉さん)

マイケルは何度も警告した。「ラトーヤ、もし姉さんが彼のそばから離れなければ、結局は何も手に入らないことになってしまうよ。生涯、訴訟関係の費用を払っていかなければならないだろうね」―――――この予言は的中した。


ジャクソン5に関しては、ジョーゼフの初期の功績は誰も否定することはできまい。でも、1980年代半ばでは、ジャクソン5やマイケルのマネジメント業務がなかったら、ジョーゼフは大して成功しなかっただろう。


音楽の業界は驚くほど狭いものだ。今ではもうほとんどのプロデューサーやレコード会社の役員がジョーゼフと衝突したことがあるか、うわさを通じて、“ジョー・ジャクソン恐怖物語”を聞いているのである。


マルチ・ミリオン・セラーの商売を差し引いてしまったら、わざわざジョーゼフと面倒な関わり合いになってまで、彼とビジネスをする値打ちはなかった。このことは、あたしを含むジョーゼフの数少ない歌手やタレントたちの仕事までつまずかせるものになった。

buruno2.jpg
(ブルーノの時の画像です)

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ジョーゼフのやり方って、もう古臭くなってたんかな…時代の流れに取り残されちゃってたのかも?
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ラトーヤ自伝第八章その3へ続く


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父ジョーの愛人の面の皮ラトーヤ自伝第八章よりその1

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫




MICHAEL



第八章その1

〈ウィ・アー・ザ・ワールド〉は、マイケルの心の中でいつも特別の位置を占めるものだと思う。それは、世界の利益のために役立つ音楽の力を、鮮やかに証明したものと言えるだろう。


あたしは母に、いっしょに階下へ降りてくれるように頼んだ。あたしたちはメキシコのアカプルコにあるホテルのスイートにいた。いくつかの有名なロックやラテン・グループとともに、アカプルコの音楽祭に出演していたのだ。


母はどこへでもついて来た。あたしは近くの野外劇場で行われるショーに出るために、出かけるところだった。


「いやよ、行きたくないわ。あの人が来るなんて知らなかったもの」と母はご機嫌ななめだった。ジョーゼフがやってくるとは誰も知らなかった。父はあたしのマネージャーだったけれど、あたしのコンサートになど顔を見せたこともなかった。

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ところがそのジョーゼフが、何の前触れもなくアカプルコにやって来た。あたしを見るためではなく、父がマネージしているジョー・ジャクソン・ダンサーズの舞台を見にきたことは明らかだった。


母はひどく気落ちしていた。「あたしは、お前とスイートにいて、そこへあの人がやって来て、自分は自分でスイートをとる。みっともないったらありやしない。あたしたちは夫婦だしね、ラトーヤ。なんともきまりが悪いわ。でも劇場には行かないよ。また笑いものにされてしまうからね」と言い張った。


母は、夫の公然の浮気をほのめかしているのだ。ほんとにジョーゼフ!こんなとき、あたしは母にすっかり同情した。母はこれ以上説得してもムダだったので、キスをして、あたしの幸運を祈ってくれるようお願いした。

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ショーの出演者の送迎バスに乗ったとたん、母が残ってくれたことに感謝した。
「オーケー、あなたはここに座って、そしてあなたはあそこね」この聞き覚えのあるかん高い声の主は、ジョーゼフのガールフレンドのジュディだった。


母が離婚を取り止めて以来、父がつき合っている愛人の1人である。あたしはバスの座席に座り、ジュディがはねるような足取りで通路を進みながら、ダンサー、ミュージシャン。それに技術関係者たちに次々と席を指定していくのをじっと見守っていた。


彼女はわざとあたしに気づかないふりをしていた。父が乗りこんで来ると、ジュディは、あたしの目の前でいちゃつき始めた。彼らの情事を見せつけたのである。むかむかしたあたしは発射寸前にドアを押しあけ、どんどんホテルに向かって歩き出した。胸の中に怒りが渦巻いていた。


「どうしたんだ、おい、どうしたんだ」とジョーゼフが叫びながら、まるで何も知らないような顔して追って来た。「何でもないわ」とあたしは厳しい声で言い、父の顔を見ずにそのまま歩き続けた。


その夜、ホテルに帰るとすぐ母に言った。「あたしたち、朝の第一便で発つわ」
「でも、なぜ?」


「発つと言ったら、発つのよ」この日、あたしは舞台裏で、父の主要なアシスタントの1人と口論していた。

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ここにも父ジョーゼフの愛人が…本当どうしてこう愛人って強いんでしょう。やったもん勝ち??
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ラトーヤ自伝第八章その2へ続く


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世界へ発信ウィ・アー・ザ・ワールドラトーヤ自伝第七章よりその17

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第七章その17

あたしは、少なくとも自分では質素と思えるマスタード色のブレザーと黒いパンツをはいていた。ところがベットは、何度かあたしのほうを振り向いて冗談を言った。「どうしてそんなにおめかししているの?あたしが普段着を着ているみたいじゃないの」彼女はシンプルなジャンパー姿で、ほとんど化粧っ気もなく、自然のままでいるほうが居心地よさそうに見えた。


大スターが集まった時によく見られる光景とは違って、酒も麻薬もなかった。ただ、人々は互いに助け合い、相手の肩をマッサージしてあげたり(夜遅くなったので)、思いやりある態度で「大丈夫ですか?何か持ってきてあげましょうか」と尋ねたりしていた。


スタジオにはみな真剣な目的で集まってきていたけれど、レコーディングの合間に参加者たちはみな大変楽しく過ごした。スティービー・ワンダーが情熱をこめてリフ(反復楽節)を歌い始めたので、みな手を叩いて「ゴー・スティービー!その調子だ!」などと応援した。


また、全員でハリー・ベラフォンテのヒット曲〈バナナ・ボート・ソング(デーオー)〉を歌ったりした。誰も計画したわけではないが、みんながバナナ・ボートを歌い始め、手拍子が入り、調子に乗ったのだった。


ほとんどの人たちは、午前3時ごろにレコーディングを終えたが、マイケルと他のソリストたちは明け方まで続けた。各シンガーにそのパートをどのように歌ってほしいか、マイケルがしつこく注文したので、時間がかかったのである。


レコードは3月初めに発売され、以来、世界の飢餓と戦うための膨大な基金が寄せられた。このような活動のために集まったアーティストとともに仕事ができたのは、実に光栄だった。


〈ウィ・アー・ザ・ワールド〉は、マイケルの心の中でいつも特別の位置を占めるものだと思う。それは、世界の利益のために役立つ音楽の力を、鮮やかに証明したものと言えるだろう。

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シャーラ♪と歌うマイケルの秘話やもっと詳しいウィ・アー・ザ・ワールド の記述はコチラ→ウィ・アー・ザ・ワールドその1クインシー・ジョーンズ自叙伝へ
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ラトーヤ自伝第八章その1へ続く


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エゴは抑えろ!ラトーヤ自伝第七章よりその16

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第七章その16

レコーディング・セッションの段階に入ると、誰もが歌いたがったが、クインシーは特定のパートについて歌手を割り当てた。アメリカ音楽賞の授賞式の直後である1985年1月28日、あたしたちは全員クインシーとマイケルが持っているノースラブレア大通りのA&Mレコーディング・スタジオに向かった。


考えられないかもしれないけど、スタジオにはスーパースターとアイドルたち、レイ・チャールズ、ボブ・ディラン、ハリ・バラフォンテ、ボブ・ゲルドフ、スティービー・ワンダー、ウィリー・ネルソン、ビリー・ジョエル、シンディ・ローパー、ダイアナ・ロス、ティナ・ターナー、ポインター・シスターズ、スモーキー・ロビンソン、ブルース・スプリングスティーン、ディオンヌ・ワーウィック、ホール・アンド・オーツほか、30人に近い歌手が集まっていた。

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音楽はもうレコーディングされていたので、あとは46人の参加者に各自のパートを教え、リハーサルを行い、レコーディングする作業がある。


クインシーは歌手のみんなにエゴを抑えるよう、入口のところで指示していた。歌手全員がそれを実行した。スタジオ内には気迫がこもり、活気にあふれていたので、例外の1人が下品な振る舞いをしても威勢が消えることはなかった。


リハーサルの前にクインシーは、あたしたちがなぜこのスタジオにいるか注意を喚起するとともに、アフリカの危機の重大性について雄弁に語った。リハーサルの日の夜遅くなってから、スティービー・ワンダーのエチオピア人の友人二人が、個人的な感謝状を持ってスタジオを訪れた。


ひとりの女性は母国語のアムハラ語で、もうひとりは英語でスピーチをした。合唱団の前の列に立っていたあたしは(ランディはあたしの右に、マーロン、ティト、ジャッキーはあたしのうしろ)、深く感動した。


レコーディングに入る前に、マイケルの要請でクインシーはこう言った。「このプロジェクトに参加できなくて、感情を害される方々が大勢いらっしゃるかもしれません。でもわれわれはごくわずかな人々しかお願いできなかったのです」

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「わたしがどの人々もおろそかにしているわけではないことを、知っていただきたいと思います。もし、ソロのパートを歌っていなくても、無視されたとは思わないでください。みなさんの誰もが上手に歌っていますが、各パートについて少数の人しか選ばれなかったのは、そのスタイルが歌に合っていると考えたからです」


レコーディングは延々と続いたけれど、実にすばらしかった。通りすがりにしか話したことのない人、たとえばボブ・ディラン、ポインター・シスターズなどとも、じっくり話すことができた。


あたしは偶然にベット・ミドラーの隣りに立つことになった。最初、彼女はとても静かで、どう接してよいのかわからなかった。しかし、じきに彼女は爆笑を誘う、ぴりっと気の利いた冗談を飛ばすようになり、2人ですごく楽しい時を過ごすことができた。


あたしは、少なくとも自分では質素と思えるマスタード色のブレザーと黒いパンツをはいていた。ところがベットは、何度かあたしのほうを振り向いて冗談を言った。「どうしてそんなにおめかししているの?あたしが普段着を着ているみたいじゃないの」彼女はシンプルなジャンパー姿で、ほとんど化粧っ気もなく、自然のままでいるほうが居心地よさそうに見えた。

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ベット・ミドラーとラトーヤの服装、そう確かに激しくかけ離れていますもんね。あのラトーヤのジャケットが質素?…わからん…
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ラトーヤ自伝第七章その17世界へ発信へ続く

クインシー・ジョーンズによる記述はこちら→ウィ・アー・ザ・ワールドその1クインシー・ジョーンズ自叙伝へ

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マイケルそしてウィ・アー・ザー・ワールドラトーヤ自伝第七章よりその15

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第七章その15

また、バンド・エイドの名で発表された〈ドウ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス〉は、食料、医薬品のために900万ドル以上の基金を集めることができた。


最初にケンがライオネルに話を持ちかけ、ライオネルがマイケルに呼びかけたのである。あたしたちは、70年代の初めからライオネルを知っていた。というのは、ライオネルの以前のグループであるコモドーズが、ジャクソン5のために前座をつとめていたからである。


彼らはあたしたちとの巡業で、いつも笑ったりジョークを言い合ったりした素晴らしい連中であった。

we are the world3


マイケルは興奮しながら、あたしにアフリカのためのU・S・Aプロジェクトを説明した。『この歌レコーディングに、クインシー・ジョーンズがアーティストを集めているんだ』問題は、このレコーディングのための歌ができていないことだよ、とマイケルは言った。


ライオネルがあたしたちの家にきて夕食をとったあと、彼とマイケルはマイケルの部屋に引きこもって作曲した。真夜中を過ぎた5時間後、あたしは部屋を覗いてみた。


「まだ作曲で起きてるの?きっと素晴らしいんでしょうね」
「まだ何も書いてないんだよ」ライオネルが決まり悪そうに言った。


「何も?」
「そう、何も」とマイク。
翌日も同様だった。


「いいこと?みなさんはこの歌を早く仕上げて、間に合わさなくちゃいけないのよ!」

「ラトーヤ、ご心配なく。調子がいいんで、今晩は仕上げるつもりだから」ライオネルはうわべだけは熱心そうに言った。ライオネルは突然大声で笑い始めた。うまくいってないとき、マイケルはいつもこんな笑い方をするのだ。


ライオネルはたくさん素晴らしい歌を作ってきたが、突然、理由もなくスランプに陥ったのである。ライオネルが帰って行ったあと、マイケルはほとんど1人で歌を作った。翌日に間に合わせなくてはならなかったのだ。


マイケルとライオネルは、そのデモテープをクインシーに渡した。クインシーは大喜びで、「こいつは素晴らしい!まさにこれだ!この歌だよ!」と叫んだ。

we are the world2

レコードのキャストを決定するのはプロデューサーの仕事である。バンド・エイドと同じく、このレコードはオールスター・イベントになる予定だった。ランディ、ティト、マーロン、ジャッキー、マイケルの5人と一緒に、あたしも〈ウィ・アー・ザ・ワールド〉のパートを歌ってほしいとのクインシーの要望をマイケルから聞かされた時、あたしは驚くとともに光栄に思い大喜びした。(ジャネットとジャーメインには誘いがなかった)

we are the world1


クインシーはときどきあたしをいろいろなプロジェクトに加えてくれた。フランク・シナトラの歌う〈L・Aイズ・マイ・レディ〉のでビデオに登場し、ディーン・マーチンとプールサイドで乾杯もさせてもらった。


レコーディング・セッションの段階に入ると、誰もが歌いたがったが、クインシーは特定のパートについて歌手を割り当てた。アメリカ音楽賞の授賞式の直後である1985年1月28日、あたしたちは全員クインシーとマイケルが持っているノースラブレア大通りのA&Mレコーディング・スタジオに向かった。
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世界的なレコーディングへとラトーヤも参加するんですね。
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ラトーヤ自伝第七章その16へ続く

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ジャネットの離婚ジャッキーの離婚ラトーヤ自伝第七章よりその14

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第七章その14

ともかく、スタッフはいつもジェームスから目を離さないようにし、あたしたちが町を離れているときなど、ジェームスがいつもよからぬ連中を歓待していると報告してきた。


両親はこのひどく微妙で気がかりな状況に、知っている限りの最善策を講じた。ジョーゼフはジェームスを嫌っており、いつも家から追い出すと脅していたけれど、そのたびに母が口を出した。


「ジョー、だめよ。構わずに放っておいたほうがいいわ。ジェームスに何か言ったら、ジャネットまで出て行ってしまう。そうなったら、ジャンがどこにいるか、何をしているかもわからなくなるのよ。もしあの子が出て行って、麻薬の売人につけられでもしたら……。そんなことになるよりも、ここにいてくれたほうがいいわ」と、母はすごく心配していた。


父は母の言うとおりにしたけれど、父がこんなふうに母の言葉を認めて譲歩したのは、これまでめったにないことだった。


あたしたちはみなジェームスに援助と愛の手を差しのべたが、彼は治療を受けるのを拒んだ。


ジャネットは妻だけではなく、父親と母親、そしてベビーシッターの役までもつとめた。こんな緊張はやがて2人の結婚生活にひび割れを生み、1年足らずのうちに2人は離婚届を出した。


ひどく悲しいことだった。妹はジェームスを心から愛していたからである。2人の別離にあたしたち家族が手を貸した、とマスコミは憶測したが、それは違う。


ジョーゼフはジャネットがジェームスを選んだことに不満に思っていたけれど、意外なことに父は何の干渉もしなかった。


ジェームスとジャネットの所属するレコード会社の一部の人たちは、彼女が独身でいるほうが歌手としては有利だと考えていたことは確かである。


でもジャネットの離婚は、結局は仕事とは無関係だった。ただ、2人の結婚生活がうまくいかなかっただけだった。


ちょうど同じころ、ジャッキーとイーニドも離婚寸前の状態だった。イーニドがひどいことばかり言って、ジャッキーを非難していたのだ。


ジャッキーの苦悩を目の当たりにして、あたしたちも心を痛めた。ジャネットと同じように2人は別れたけれど、あたしたちはたいして驚きもしなかった。


ビクトリー・ツアーのお祭り騒ぎが終わって、1985年に入った。誰もが平常の生活に戻ってほっとし、兄弟たちもしばらくは骨休めすることになった。

lionel richie


だが、マイケルには休む間もなかった。彼はハリー・ベラフォンテが始めたアフリカのためのU・S・A(アーティスト援助連合)の仕事に、早速関わることになったのである。


慈善のために生涯を捧げていることで知られるハリーは、アフリカの飢餓問題に深く心を動かされ、基金を募集したいと望んだ。


当初マイケルは、スターでちりばめられたコンサートを計画した。でも、ライオネル・リッチーとかケニー・ロジャースなどのマネージャーであるケン・クラーゲンは、特別のシングル盤のレコーディングをマイケルに勧めた。

ken kragen
(ken kragen)

同じ目的のために、ブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフは、最近、イギリスのロックンロールのアイドルグループを招請(頼んで来てもらうこと)した。


また、バンドエイドの名で発表された〈ドウ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス〉は、食料、医薬品のために900万ドル以上の基金を集めることができた。

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いよいよウィ・アー・ザー・ワールドへ…
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ラトーヤ自伝第七章その15へ続く

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ジャネット夫の麻薬中毒ラトーヤ自伝第七章よりその13

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第七章その13

ジェームスは優しくて気前も良かったけれど、ちょっと落ち着かないところがあった。彼も兄弟たちも、ミュージシャンの世界にはびこっていた悪い影響から、あたしたちほどには保護されていなかったのだ。


あたしは最初から、彼には麻薬のにおいを感じていた。ジャネットは2人の間に何も問題はないように見せていたけれど、ジェームスの奇妙な行動にはみんなが気づいていた。


ジャネットは彼を探しに時々ロサンゼルスの危険地帯を歩き回らなければならないほどだった。


ある夜、ジャネットが夫を探しに行って帰ってきた時、マイケルは詳しく話すように迫った。「どうだった?午前4時に夫を探しに出かけたりして、怖くなかったかい?」


あたしたちはジェームスには心から魅力を感じでいた。というのは、ジェームスがあたしたちといっしょに住むようになってから、あたしたちは人生の厳しい現実からどれほど解放されてのびのびできたか、実際に感じることができたからである。


「いろんな人が、いろんなことをやっているのよ」ジャネットはいつも、こう答えるだけだった。


ジャネットはしなくてもいい苦労を噛みしめながら、“現実の人生”を学んでいた。妻となれば誰でもそうだろうが、彼女はジェームスに問題があってもそれを打ち消して、夫をかばおうとしていた。


あたしが本当のことを知っていると思うと、もう何も打ち明けなくなった。でも、あたしはそんな彼女のことが気になっていた。

janet latoya 1978


夜になると向かいの部屋から「どうにかしてくれ!どうにかしてくれ!どうしてもアレがいるんだ!」というジェームスの絶叫が聞こえ、目を覚ますことがあった。


「だめよ!だめよ!」とジャネットが怒鳴り返す。すると、ジェームスが家具につまづいて倒れ、起き上がろうとしてもがく鈍い音がし、時には平手打ちの音が聞こえた。胸の痛む思いだった。


「ジャン、ジェームスが治療を受けられるように、あたしたちがお金を出すわ。彼には助けが必要よ」あたしは何度もジャネットに訴えた。


「あの人は麻薬中毒なんかじゃないわ!2度とそんなこと言わないで!」
「中毒じゃないって?ジャン、でも、家中でつまづいては転んでるじゃない。それに一日中寝てるし…」


「彼の足にマッチの火を近づけても、何も感じないんだからな」とジャーメインも漏らしたことがあった。

janet latoya 1


強情なジャネットは、依然としてジェームスの麻薬のことを認めなかった。そのくせ、夫のことを知られたくないのでボディガードなしで旅行したりして、バツの悪い思いもしていた。


ともかく、スタッフはいつもジェームスから目を離さないようにし、あたしたちが町を離れているときなど、ジェームスがいつもよからぬ連中を歓待していると報告してきた。


両親はこのひどく微妙で気がかりな状況に、知っている限りの最善策を講じた。

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こんな状況はどのくらい続いたんでしょうね。若い二人の日々は大変なことばかり…ビクトリー・ツアーのさ中、ジャクソンズはいろいろなことに直面してたのね~。
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ラトーヤ自伝第七章その14へ続く

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ジャネット・ジャクソンの駆け落ち事件ラトーヤ自伝第七章よりその12

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第七章その12

マーロンの気持ちはよくわかったけど、彼を失った打撃は大きかった。初めてジャッキー、ティト、ジャーメインそれにランディと、5人に満たないジャクソンズが舞台に上がることになったのだった。気がつかなかったけれど、別の1人がすでにグループを離れていた。


debarge.jpg
(ハンサムはジェームスは下左側?)

ビクトリー・ツアーが半分ほど進行していた9月のことだが、ジャネットが長年のボーイフレンドだったジェームス・デバージと駆け落ちしたのだ。
(2005年に隠し子騒動がありましたね、その時の子どもが本当はいて女の子だとかどうだとか…barksニュース←記事はこちら)


ジェームスは有名なモータウン・ファミリー一座の一員で、デバージの名で売り出していた。


ジェームス、マーティ、エル、ランディそれに妹のドニーがデバージを結成する前に、兄のボビイとトミーがスイッチというファンク・グループに入っていた。

janet and debarge



そのスイッチは、ジャーメインがマネージメントとプロデュースを引き受けていたグループだった。兄のジャーメインは、1981年にデバージとモータウンが契約するとき、その橋渡しをしている。


デバージ・ファミリーは、ジャクソンズと共通点が多かった。同じ中西部(ミシガン州グランドラピッズ)の出身で、10人の子どもたちは厳しく育てられた。


ジャネットとジェームスは何年か交際していたが、彼らの駆け落ちは家族全員にショックを与えた。何しろ、マスコミに報道されて初めて知ったのだから!


janet  latoya2


ジャネットとあたしは、当時かなり仲が良かった。彼女が連絡してくるのは、家族の中ではあたし1人だった。ジャネットが自宅から電話をしてきた時、あたしは兄たちとツアーに出ていた。


その夜、彼女はグランドラピッズに飛行機で行くと言い、そのわけを話してくれた。


「ジャン、そんなことしちゃダメよ」
「ラトーヤ、そうしなきゃならないの。でも誰にも話さないでね」
「とにかく話し合いましょうよ。本当に、こんなことしたいと思ってるの?」
「そう、どうしても実行するの」
「仕方ないわ。誰にも言わないからね」あたしはその約束を守った。


この秘密の結婚を知った兄弟たちは多いに動揺した。
「ジェームスのやつ、とんでもないことをやってくれたな、してやられたよ」と、誰かがぶつぶつ言っていた。


ジャネットは18歳、ジェームスは21歳だった。いろんな意味で典型的なジャクソンスタイルの結婚だった。


ただ違っていたのは、この新しいカップルがまもなくヘイブンハーストに住み始めたことだった。


ジェームスは優しくて気前も良かったけれど、ちょっと落ち着かないところがあった。彼も兄弟たちも、ミュージシャンの世界にはびこっていた悪い影響から、あたしたちほどには保護されていなかったのだ。

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ジャネットの駆け落ち(でも住まいはヘイブンハースト??)結婚はジェームスのある行動によりすぐに終わりを迎えてしまうんでしたよね。
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ラトーヤ自伝第七章その13へ続く

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マイケル呆然「グループの一員でいたくない」ラトーヤ自伝第七章よりその11

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第七章その11

ジャーメインがソロで自分のナンバーを歌った時だけはファンが静かだった、と書いた記者もいたけど、ファンはそれなりにうっとりしていたのだ。このときのショーは観ていてすごく興奮したけれど、悲しいこともあった。


兄弟がこうしていっしょに公演するのも、これが最後かもしれないと思ったからだった。


マイケルはあくまでもグループの一員として動こうと努めたけれど、どうしてもスターになってしまった。世間ではみなそう見ていたのだ。


でもマイケルに言わせると、ランディこそが本当のスターだった。いちばん下の弟であるランディは、4年前の自動車事故(ランディ自動車事故←記事はこちら)でまだ足の状態がよくなかったが、ジャッキーの代役をすると言ってどうしても聞かなかった。


ティトとジャーメインが他の3人を挟んで両側に立つ、典型的なジャクソン5スタイルにするのが大切だ、とランディは思ったのだった。


毎夜、ランディはパーカッションとキーボードを演奏し、歌いそして踊った。アンコールが終わって舞台を引っ込むと、足をひきずって歩きながら「ちくしょう、ちくしょう!死ぬほど痛いぜ」とうなっていた。


でも、足を冷やして休養をとると、いつも翌日の夜のショーに出られるようになっていた。

victory tour 34

1984年12月、ロサンゼルスのドジャー・スタジアムでビクトリー・ツアーの幕を閉じたとき、このツアーは史上最高の収益をあげていた。


このあとマイケルは、2度と兄弟たちとのツアーはやらないと発表した。けれど、さてそれがどうなるかは誰にもわからない。


ビクトリー・ツアーはジャクソンズを再結合させる上では素晴らしかったが、同時にその弱点もはっきり見せてしまった。


マイケルが恐れていた死の脅迫も決して根拠のないものではなかった。ある都市では、爆弾と最前列のチケット2枚を持った男を警察官が発見したのだ。

ジョーゼフがそういうことに無頓着なことを、マイケルが心配していたのも当然だった。

victory tour program 1984


ビクトリー・ツアーがマイケル最後のグループ出演になることは、多くの人々が知っていた。しかし、マーロンがツアー後にグループを離れようとしていることは、ファンも家族も全く知らなかった。


マイケルとは年が近かったので、マーロンはいつもマイケルと比較されていた。マーロンは他の兄弟たちと同じように才能のあるシンガーであり、ソングライターである。自分自身でその才能を証明したかったのも当然であった。


とはいえ、家族会議でマーロンがそのことを発表した時、マイケルは呆然となって言った。「なぜグループから離れるんだい?」


マーロンの返事は率直だった。「もうこれ以上グループの1人でいたくない。ぼく自身の成功を手に入れたんだ。独り立ちのエンターテイナーになりたいんだ」


マーロンの気持ちはよくわかったけど、彼を失った打撃は大きかった。初めてジャッキー、ティト、ジャーメインそれにランディと、5人に満たないジャクソンズが舞台に上がることになったのだった。


気がつかなかったけれど、別の1人がすでにグループを離れていた。
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えぇ?マーロンがジャクソンズを脱退……それぞれが才能豊かであることはわかっていたけど、1人欠けたらつらいですよねぇ。それにもうひとりは一体誰だろう?
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ラトーヤ自伝第七章その12へ続く

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ジャッキーの事故の真相ラトーヤ自伝第七章よりその10

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第七章その10

1984年の1年間を通じ、マスコミがビクトリー・ツアーに関して膨大な量の情報を流したことを考えると、ツアーはジャーメインにとってはいい気分転換になった。


続いてジャッキーが足にけがをした。「スポーツ中の事故」とされたが、そうではなかった。

victory tour 35


イーニドの車でフェンスに押さえつけられ、足を骨折するという思いがけない事故だった。ジャッキーは入院し、5ヶ月は松葉杖に頼ることになった。


公演はできなくなったけれど、ツアーの最終日までグループに同行し、不自由な足で舞台に上がって観衆に手を振った。


そして世界で最も誇り高き兄は、あたしといっしょに舞台の袖に立ってステージを観ていた。「いいなあ、あいつら本当にイカすよ、な?ラトーヤ!本当にすごいな」とジャッキーはしきりに感激していた。


7月6日、カンザスシティのアローヘッド・スタジアムでビクトリー・ツアーの幕が上がった。これまで起こっていた問題のことなど、もう考えていられなかった。


マイケルはこれまでになくいいステージを見せた。ライトが落ちてレーザー光線がめまぐるしく走ると、スモークや雷鳴がステージをすっぽりと包みこんだ。


終曲の〈シェーク・ユア・ボディ(ダウン・トゥ・ザ・グランド)〉が高まったあと、次第に夜空の果てに消えていくまで、観衆はまるで催眠術にかかったみたいだった。


ショーはランディの登場から始まった。「さあ、起きるのだ、世界よ!そしてこの王国を見るのだ!」と言う朗々とした歌声の中で、アーサー王に扮したランディががっしりとした石から剣を取り出すと、やがて巨大な階段の上に5人が姿を現す。


その背後は煌々たる白色のライトだ。恐れるものなく、歩調を揃えて階段を下りてくる彼らは、まるで神々のようだ。

victory tour 33



その足音はスタジアムいっぱいに響き渡る。彼らがステージの正面に向かってくると、観衆は興奮してヒュウヒュウと声をあげた。と、熱狂的な〈ワナ・ビー・スターティング・サムシング〉が歌いだされるのだった。


兄弟たちの公演を見るたびに、あたしはいつも驚嘆の声を挙げたけれど、ビクトリー・ツアーもその例外ではなかった。


覚えていてほしいけど、あの人たちはあたしの兄弟なんですよ。


彼らのステージを袖から見ていると、本当に素晴らしくて、他に比べるものがないほどの才能が伝わってくる。


ときどきあたしは、みんながすぐ身近に彼らのショーを見ることができればいいな、と思うことがある。


そんなすごく近いところからだと、歌や走るように早い目の動きやアクションにばかり気を取られていた“目”に、彼らの持つ本当の迫力がはっきり映ってくるのだ。


彼らがくるっとスピンするたびにしゅーっと音がするのがわかり、流れ落ちる汗が彼らのまわりに渦巻いているのがはっきりと見えるだろう。


ステージの上の彼らは、もう単なるエンターテイナーという存在ではない。彼らには生まれついた迫力があり、そのパワーと美しさはとても筆や口では表現できない。


ショーはファンとステージがひとつに溶け合って進んでいった。ファンはマイケルがムーン・ウォークをするたびに絶叫し、レーザー光線が交錯しスモークが焚かれると息をのんだ。


兄弟たちが何か語りかけるたびにキャーキャー叫んだ。まさに熱狂的といってよかった。でも、なんといっても音楽が素晴らしかった。


〈アイ・ウォント・ユー・バック〉や〈ビリー・ジーン〉、〈ラブリー・ワン〉、〈ハートブレイク・ホテル〉、〈スリラー〉、〈ワーキング・デイ・アンド・ナイト〉、それに無伴奏での〈アイル・ビー・ゼア〉、〈ヒューマン・ネイチャー〉、〈シーズ・アウト・オブ・マイ・ライフ〉と、1時間半に及ぶ歌と演奏の間、ファンの叫び声が会場いっぱいに轟いたのだ。


ジャーメインがソロで自分のナンバーを歌った時だけはファンが静かだった、と書いた記者もいたけど、ファンはそれなりにうっとりしていたのだ。


このときのショーは観ていてすごく興奮したけれど、悲しいこともあった。
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ビクトリー・ツアーの壮大さはすべての人をとりこにしましたね。思い出しても管理人はしびれてしまいます。
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