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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その14自称暗殺者からの脅威

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第三章 その14


「きみたちはすごいよ。ちっちゃなころから始めて、本当に大したものだ」彼はやさしく声をかけてくれた。


エルヴィスは明らかに兄弟たちのレコードを聴いて、よく知っているような口ぶりだった。


彼が強調したのは「知っているだろうが、ロックンロールはすべてこれ黒人音楽が始まりなんだからね」ということだった。


エルヴィスは人種差別主義者だといううわさを聞いていたが、そうじゃないとわかってあたしたちはうれしかった。


しかし、みんなでさよならの握手をして楽屋口を出たときは、お互いに顔を見つめあった。


「ああ、神様、エルヴィスは伝説的な人で、みんな大好きだけど、薬ですっかりやられているなあ」とジャーメインがしみじみ感想を述べたものだった。


2年ほどたって、エルヴィスは亡くなった。もちろんみんな悲しんだけど、ショックは受けなかった。不幸なことに、これに似た楽屋風景はほかの芸能人にも何回となく演じられていた。


偉大なマーヴィン・ゲイもその一人だった。なぜその才能をむざむざと薬で台無しにしてしまうのか、あたしたちにはさっぱりわからなかった。


ジャクソン家の子どもたちにとっては、事前に防げという教えが、一番効果があった。


あたしたちファミリー一座は、長女のリビーが加わって全員が揃った。ほっそりしてきれいな彼女は才能もあって、たった4歳のときにダンスコンテストで一等になったことがある。

family55.jpg


何年間もリビーは、ファミリー・ビジネスには入りたくないと言っていた。その心境が急に変わったので、マイケルとあたしはびっくりしたが、同時ににんまりしてしまった。


それは、あたしが、“歌うジャクソン”になったとき、信心深いこの姉を「どうしてこんなことができるの」と言って叱り、少し自分勝手だが「ステージに立ってはいけないことになっていること、あなたは知っているでしょ?“エホバの証人”の教義で禁じられているのよ」とあたしを問い詰めたことがあったからだ。


でも、あたしたちに加わったリビーは、そのままショービジネスの世界にとどまった。


ラスベガスの公演中、警備係からマイケルの命をねらう匿名の脅迫が来ているという報告があった。


以前に何度もこんなことはあったけれど、今回はこれまでと違ってヒヤリとさせられるものがあった。


自称暗殺者は襲撃予定の夜を指定し、警備係ではこれを非常に真剣に受けとった。損得や危険率をいろいろ検討した結果、ショーは続けることになった。


というより、そう決められていたと言うべきだろう。芸能人は契約上公演を行う義務がある。プロモーターやホテル主は、たとえ暗殺の可能性があったとしても歌手の問題には耳を貸したがらないものだ。


あたしたちには、最優秀のガードマンを雇い、あとは祈ることしかできることはなかった。


会場はガードマンでびっしり固められたが、みんなマイケルの身の安全ばかりを心配していた。


その夜、マイケルが歌っているとき、突然リビーが楽屋であたしに断言した。「あたし、舞台に出ないわ。だって撃たれるかもしれないんでしょう?」


あたしはめったに兄弟姉妹たちに腹を立てることはないけど、この時ばかりはかっとなった。「リビー、どうしてそう自分勝手なの?マイケルは2時間ぶっ続けで出ていて、しかもいつ殺されるかわからないのよ。姉さんなんか、舞台に出るの長くて4分でしょ?なのにそのあなたは心配なの?さあ急いで」


「だけど、あたしがすぐ隣にいるときマイケルを殺すって、あいつらが決めたらどうなるの?」姉はパニック状態で言いかえした。


“恐らくリビーは、自分で思っているほどショービジネスの世界で生きる覚悟ができてないんだわ”あたしはそう思った。


リビー以外のあたしたちにとって、こんな恐ろしい脅迫はまるで日常生活の一部のようになっていた。

Jackie-Jackson-with-Enid.jpg
(ジャッキーとイーニド・スパンJET誌表紙に)
※イーニドは97年死去している)


Marlon-Jackson-Family-Photo-Wife-Children.jpg
(マーロンと家族)


1974年最後のラスベガス公演を行っていた11月に、ジャッキーはイーニド・スパンと結婚した。その時はわからなかったけれど、彼はジャクソン家の中で、3番目ではなく4番目に結婚した息子だった。兄弟の中でも独立心の強いマーロンが、恋人のキャロル・アン・パーカーとひそかに結婚していたからだ。

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ジャクソン・ファミリー一座の仕事は多忙を極めていたと言うのに、ジャクソン家の男子たちは伴侶もちゃんと見つけていましたね。
そして、私たちが思うよりももっと、アーティストは危険と隣り合わせの状態でそのショーをこなしているんですね~~

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その15へ続く
 
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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その13プレスリーの悲しい光景

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


Mind Is the Magic: Anthem for the Las Vegas Show


第三章 その13


ランディとジャネット、二人は家にいるとき何かにつけて言い合いをしていたが、巡業中も全く変わらなかった。


ショーの前後、そして歌の合間でさえ、観客に背を向けてお互いの衣装をぐっと引っ張りながら、つまらないことで言い争いをしていた。


観客はいつも演技の一部だと思い、いっそう大声をあげて笑うのだった。


あたしたちの最大のファンである母は、ショーを一度だって見逃したことがなく、観客に交じって座りあたしたちを批評した。今でもそうで、ツアーではマイケルや兄弟たちに同行している。


ショーが終わると、あたしたちは母のところに駆け寄り、「お母さん、ショーはどうだった?」と尋ねた。


「そうね、この歌は出だしがちょっとゆっくりすぎたわ。マイク、今度やるときはゆっくりじゃだめよ。ティト、あなたのギターのソロは素晴らしかったけど、顔の表情をもっとリラックスさせるようにね」などと、母はよく言ってくれたものだった。


しかし、母はどういうわけか、あたしたちに対しては誰にも決してお世辞は言わなかった。一度だけ、これはマイケルとあたしの二人が目にした光景だが、母が下のランディと楽屋にいて、何でもいいからやってごらん、と幼い息子をそそのかし、それからみんなに「ステキでしょ?素晴らしいでしょ?」念を押したことがあった。


あたしたちはうなずいてにっこりした。「お母さん、あたしたちには絶対あんなこと言わないのに」と、あたしは感じたことを口にした。


「わかってるわ。でも、親ってたいていそうなんだよ」母はそう答えたが、そのころは父や母の態度が周囲とは違って異常だということがわからずにいた。


母は「お前たちはいつも自分に才能があると知っていたから、あたしがわざわざ言う必要はなかったのよ」と、自分の哲学を説明したことがあった。


世間からどんなに褒め言葉を浴びても、子どもには両親の「愛してるよとか「誇りにしてるよ」のひと言に勝るものはないということが、父母にはまったくわからなかったのだろう。


だから今あたしたち兄弟姉妹は、自分の子どもたちや姪や甥はできるだけ褒めるようにしているのだ。


ラスベガスにいたころ、ランディがチック病にかかって顔にけいれんが起き、母は医者に診てもらいたいと思った。話を聞いた人々はみなエルヴィス・プレスリーの主治医の一人を勧めた。


(※チック病=精神的な緊張により、目を激しく動かしたり、頭を小刻みに振り続けるなどの素早い動きとなって表れる症状)

elvis.jpg


あたしたちはその医者が必要以上の薬を処方するといううわさは知らなかったが、警備主任のビル・ブレイは知りすぎるくらい知っていた。


医者がランディの診察に来たとき、ビルは「いいですか、必要以上のものをこの子にあげないでくださいよ」ときっぱり言った。


ジャクソン家の人間はそれまで誰も薬というものを飲んだことがなく、ビルが何を申し入れたのかわからなかった。


あたしたちが厳しくしつけられて育ち、自分にも節制的な生活をしてきたのは、偉大なアーティストの多くが薬の乱用で身を滅ぼすのを見てきたことと大いに関係があるのだろう。


確かに、薬がプレスリーに及ぼした影響を見て、あたしたちは強い印象を受けた。


ある夜、あたしたちは全員でタホー湖近くのサハラで行われたプレスリーのショーを見に行った。ショーを見てすぐ、彼はどこか悪いのでは、と思った。


動きがのろのろしてぎこちなく、言葉もはっきりしなかった。最後のアンコールが終わり、楽屋を訪れて目にしたのは信じられないほど悲しい光景だった。

elvis2.jpg


あの偉大な歌手が、まるでどうしようもない力に全身を突き動かされていたように、何かにとりつかれた顔で行ったり来たりして歩いているのだ。


しかし、彼はあたしたちを見るとすぐ立ちどまり、ぱっと明るい顔になった。


「きみたちはすごいよ。ちっちゃなころから始めて、本当に大したものだ」彼はやさしく声をかけてくれた。

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マイケルもこの「子どもの愛される権利、無条件に…」という部分をまずまっさきに挙げているんですよね。ラトーヤとマイケルは考え方が良く似ていて、小さなときからとても仲が良かったことがわかるくだりですよね~~

エルヴィス若かりし頃の「ブルー・ハワイ」が日曜洋画劇場(1977年に放送)で放送された数日後、彼が亡くなったのは悲しかった、「わぁステキ~~♪」とすぐに大ファンになったものでした。

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その14へ続く
 
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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その12お茶目たっぷりマーロン



インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第三章 その12


ここのショーに出るには、一番人気のある歌だけを少し歌い、踊りを多くし、極端でなくまあまあの線で行き、歌の合間にお喋りを入れるといった、ラスベガス風の演出にしなければならないからだった。


昔スタイルの古臭いショーといってもよかったが、あたしたちは家族一座だったし、結局は、一家でショーをやったのだった。


あたしは音楽が大好きで、学校の合唱団で歌ったこともあったが、ショービジネスというものには全然興味がなかった。ひとつには、ショーの興行と聞けばすぐ、すごく辛いもの、大変なものと思い込んでいたからだった。


だから、ジョーゼフの言葉を聞いてすごくびっくりした。でも、歌って踊るんだと言われたとき、そのきびしい口調からそうするほかないと覚悟したのだった。


そのうちに、兄弟や妹のジャネットといっしょにザ・ジャクソンズとして出演することがとても面白くなり、あたしの人生ですごく幸福な時期と思えるようになった。


ほんとうに、家族が一つになって働くほど幸せなものはない。ミュージカルなどの出演者がしばらく共演していると、たいていが家族同様の気持ちになるものだが、実際に血を分けた家族となると特別だ。


観客はあたしたちのショーを大変喜んでくれたけど、正直言って舞台裏のほうががもっと面白かった。ジャネットとあたしはすっかり用意をすませ舞台の袖で出番を待っていたけれど、兄弟たちはオープニングセットのうしろから急いで降りてきて、胸のところにくっきりと“J5”と書かれたシークイン飾りの白いサテンの衣装に着替えしなくてはならなかった。夜の公演のとき、いつも聞こえてくるセリフはこうだった。


ジャーメイン「オレのサポーターを寄こせ!」
ランディ「オレのパンツはどこだ!」
ジャッキー「誰かオレの靴知らないか!」


そしてそのうちに、ジャーメインがどきっとしたように気づいて「わーっ大変だ!マーロンがもう出てるぞ、みんな急げ!」と叫ぶのだった。


舞台の端に立ち、やけにうれしそうにニヤニヤしているのがマーロンだった。この弟はいつも一足先に舞台に出て、あたしたちの用意ができていようといまいとバンドにスタートの合図を送り、みんなを並ばせることに無上の喜びを感じていた。


ある夜など、あたしは衣装を後ろ向きに着たまま、もう少しで舞台に駆け込むところだった。


ステージでは音楽がガンガン鳴っているので、マイクから離れていれば互いに話し合っても観客には聞こえない。


タップダンスのメンバーとして踊っている最中でも「そうだ、いいぞ!」「すごい!」と、兄弟たちは手をたたいて大声で励ましていた。


冗談好きなジャーメインとマーロンなどは、踊りながら批評みたいなことをやっていた。


「ティトを見ろよ。動きがなってないなあ!」
「ヘーイ!どうかしてるぞ、この間抜け!こっちから離れて踊ってろ、自分のタップ、よく見ろってんだ」


ステージで笑顔を見せるものと思われているけど、あたしたちの場合はそんなわけでたいてい今にも吹き出しそうになっていた。


ある晩、マイケルとあたしが笑顔でトントコトントコ、タップを踏んでいると、突然ジャーメインが叫び始めた。


「そうだ、マイク!いいぞマイク!いいぞ、いいぞ、マイク!そうだ!いいぞ、ラトーヤ!ファスナー、大きく、開いてるぞ!」ジャーメインの声はタップのビートにも、音調の変化にもぴったり合っていたので、その掛け声はよけいにおかしかった。


あたしはタップの途中でちらっと下を見、踊り続けながら大急ぎでステージを離れた。何が起きたかわからないマイケルを、ひとり残したままで……


ランディとジャネットは、ネルソン・エディとジャネット・マクドナルド、サニーとシェア、ミッキーとシルビアといった有名なデュエット歌手の物まねをやっていた。


二人は家にいるとき何かにつけて言い合いをしていたが、巡業中も全く変わらなかった。


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マーロンの意外なお茶目ぶりは兄弟たちを困らせていたんでしょけど、楽しい瞬間でもあったんでしょうね。ラトーヤの描写がステキ!

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その13へ続く 
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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その11異父姉妹との会話




インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第三章 その11


「でも、あの子にはどうしようもなかったのよ。産んでほしいと頼んだわけじゃないのよ。いつか会って話してみたいものだわ。仲良くするつもりはないの、ただ、こんなふうにあの子を憎むのは間違っているんじゃないかしら?まだ」ほんの小さい女の子なのよ」そうあたしは言った。


母がむっつりして顔をそむけたとき、マイケルはあきらめたような目であたしを見た。誰もが子どもに対して生まれながらに持っているやさしい心と、母に対する愛情の間にはさまれて、あたしたちの心はひどく揺れ動くのだった。


その後、ジョーゼフの愛人とはかつてジャッキーに熱を上げて、報われずに終わったファンの女の子だったことがわかった。


娘のアンナとしばらくは数キロ離れた所に住んでいたけれど、ジョーゼフは“通う”のが面倒になったらしく、ヘイブンハーストからたった数分のところに家を用意して住まわせた。


兄弟たちが子どもといっしょに地元の商店街で買い物をしていると、愛人と娘と手をつないでいるジョーゼフの姿を見かけることがあった。


「おじいちゃん、あの女の人とちっちゃい女の子と何しているの?」という無邪気な質問を避けるのと、それに恥ずかしさで、子どもの注意をそらしては急いで店内に逃げ込むのだった。


兄弟たちのほとんどはアンナといっさい関わりを持とうとしなかったが、マイケルとあたしはしきりに彼女のことを知りたいと思った。


「誰に似てると思う?どんな性格だと思う?」などと、お互いに大声で聞きあったりもしていた。


あたしたちに対するジョーゼフのやり方をよく考えてみると、はっきり言って彼女が気の毒になった。


ところがあとでわかったのだが、父はアンナには全く違った面を見せ、いろいろと喜ばせては女王様のように扱っていたのだ。


はっきりとは言わなかったけれど、父は“もう一人の”娘のことをあたしたちに知ってほしかったのでは?とあたしはいつも思っていた。


何年か経ってから、ジョーゼフはあたしたちにこう言った。「お前の写真を全部持っていて、お前にとても憧れている小さな女の子がいるんだ。お前と話したがっている。ハーイとだけでも言ってくれるかな?」


ファンのことを言っているんだと思い、「名前はなんて言うの?」とあたしは尋ねた。


あのアンナなの?と聞いたが父は何も答えず、電話のダイヤルを回し受話器をあたしに渡しただけだった。


簡単な会話だったけど、楽しかった。ほとんどアンナが興奮して、少女らしい黄色い声をあげていた。「ああ、わたしあなたが大好き!あなたみたいになりたい!」


「まあ、ありがとう」
「わたしとお話するために、電話をかけてくれたなんて、とてもうれしいわ」


「どういたしまして、お安いご用よ」あたしは電話の間、ずっと“今話しているのは異母姉妹では?と思っていた。何かが、これはアンナよと教えていた。


ジョーゼフがアンナとその母を“本当の”家族と考えていることが、しだいにはっきりしてきた。


ある日の午後、父のアシスタントがローロスロイスをヘイブンハーストの家に届けてきたのだ。妙なことに、1時間ほどたつとまた戻り、車に乗り込んで行ってしまった。


後でわかったのだが、アシスタントは“家”に車を持って行ってくれと言われ、当然ヘイブンハーストの家と思った。


ところが、悲しいかなそうではなかった。“家”とは、もう一人の女性と子どもがいる何キロか先の家のことだったのだ。

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(仮名アンナ=ジョー・ボニー)


父は第二の家庭生活を始めたと同じころ、6人の兄弟にジャネットとあたしを加えて新しいジャクソン・ファミリー一座を結成した。


以前のように必ずヒットするというわけにはいかず、父はラスベガスのショー劇場にも手を広げるべきだと考えた。この考えに胸をわくわくさせた者は一人もいなかった。


ここのショーに出るには、一番人気のある歌だけを少し歌い、踊りを多くし、極端でなくまあまあの線で行き、歌の合間にお喋りを入れるといった、ラスベガス風の演出にしなければならないからだった。

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父ジョーゼフは、ラトーヤのこときっと、アンナに自慢していたんですよね、だからアンナはラトーヤに憧れを持つようになっていたんだと思うんです。彼女に上手に愛情表現はできなかったけど、婚外子のアンナには良い父であったらしいということは、本当はわが子たちも愛していたに違いない…それが早くにラトーヤとマイケルに伝わっていたら良かったのにと、残念に思えてなりません…

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その12へ続く
 
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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その10父ジョーの隠し子告白




インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第三章 その10


「お前たちに話したいことがある。実は新しい妹ができたんだ」!



「何を言ってるの?」
「お母さんは新しい赤ん坊なんか産んじゃいないよ」


「そうだ。だけどこのわたしに新しい娘がいるんだ」
ぽかんとしている兄弟たちに父は続けた。


「ティトと同じ頃に産まれたんだ。名前はアンナ(本名ではない)、産まれて半年ぐらいになる」


なんと、父に別な家庭があった!


母を騙して浮気をしているんじゃないか…なんの言い訳もなくあんなに夜遅くまで外出していたし、とあたしたちはいつも疑ってはいた…でも、まさかこんなことが!


兄弟たちは真相がわかって気分が悪くなってきた。子供が産まれると父親がタバコを配る習慣があるが、もしそこにタバコがあったらそんなことでもしかねない様子だった。


兄弟たちは家に帰ってくるとすぐ、父が恥ずかしい告白をしたことをあたしに話した。「あの人はね、誰か知らない女性と別な家庭を持っていたんだよ、ラトーヤ」


「あいつなんてきらいだ!」と一人が叫び、「お母さんに言うべきだろうか」とジャーメインが聞くと、「バカじゃないか、こんなこと言えるわけないじゃないか。絶対に知らせちゃだめだよ」とマイクが言い聞かせるように答えた。


「そんなこと知ったら、母さん死んでしまうわ」あたしは大声でつけ加えたが、「どうして父さんはこういうことをするのかしら」と不思議でならなかった。


「わからないなあ。でもラトーヤ、ぼくたち気づくべきだったよ、ぼくたちを幸せにしてるのは自分だと自慢している人間のことをね!ああ、もううんざりだ!」マイケルはさもいやでいやでたまらないような声を上げた。


歯を食いしばっていたジャーメインは、「そうだ、ぼくたちのことを自慢して……」と怒りを吐き出すように言った。


「そのくせ、ぼくたちのことを誇りに思ったことなんか一度もないんだ」あとを受けたマイケルの目に涙があふれた。

half sister
(愛人シェリル・テレルの産んだジョー・ボニーと)

あたしたちは、母にはジョーゼフの秘密を何カ月も隠していた。父が母を騙し、“別の家庭”と夜を過ごしていたことを知り、あたしたちはひどく心を痛めた。


父は図々しくおおっぴらだったので、ついには事務所の人やモータウンの人にも事情がわかってしまった。


兄弟の一人がもうこれ以上黙っていることに耐えられなくなり、つい母に口をすべらせた。もし夫の本当のことを知ったら母は離婚するだろうと、あたしたちは自分でも気づかずに潜在意識でそう信じ、ひょっとしたらそれを望んでさえいたかもしれない。


もちろん母は完全に自尊心を傷つけられ、ジョーゼフが情事を終わりにすることを断ったときは顔色を変えて怒った。


でも別れると言って脅したり、離婚を申し入れたりはいっさいしなかった。父の浮気に対する母の処理の仕方は、家の中には何の間違ったことも起こらなかったと断定することで、うそのように以前どおりの生活が続いた。


まだ若い頃、あたしはそんな母のやり方を母の強さだと解釈していたけれど、実際は母の弱さであり、事実と対決し自分の責任を果たすことを避けたのだと今ではわかっている。


正当な怒りの原因である父に直接ぶつけず、妻以外の女が産んだ娘にいつもこだわり、母らしくない下品な言葉で悪口ばかり言っていた。


「あの私生児め!」と、母が思わずつぶやいたことがあったが、その声は怒りで震えていた。「絶対彼女に話しかけてはだめよ、わかった?絶対だめよ!」


「お母さん、あの子は私生児じゃないよ」マイケルはやさしく言った。
「辞書で調べてみなさい!そうなんだから」


「でも、あの子にはどうしようもなかったのよ。産んでほしいと頼んだわけじゃないのよ。いつか会って話してみたいものだわ。仲良くするつもりはないの、ただ、こんなふうにあの子を憎むのは間違っているんじゃないかしら?まだ」ほんの小さい女の子なのよ」そうあたしは言った。


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父の裏切りを受け入れるしかなかった母キャサリンと、兄弟たちの苦悩は彼らの団結力をさらに深めたのかもしれない。

この理不尽な父は、こうして血族から疎んじられていくのである…


ジョーボニーの告白は←コチラ

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ジャーメイン、ゴーディ娘と結婚ラトーヤ自伝第三章よりその9


MICHAEL



インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第三章 その9


両親は、息子たちが金目当ての女の子と結婚するのでは、といつも心配していた。ベリー・ゴーディも、女に養われたり、女を食いものにしたりする悪い男が、大事な一人娘を追いかけ回したりはしないかと、きっと同じ心配をしていただろう。


ジャーメインとヘイゼルの仲がまた深くなると、ベリーは積極的に二人の結婚を推し進めていった。


1973年12月15日、ベリーはヘイゼルとジャーメインに、ハリウッドの歴史に残るようなけたはずれに贅沢な結婚式をあげさせた。


外は爽やかだったけれど、会場は冬がテーマになっていて、作り物の雪や白いカメリアの花、生きたハトなどでいっぱいに飾られ、八段重ねのウェディングケーキが高くそびえていた。


ヘイゼルはミンクと真珠の飾りがついた白いサテンのガウンを着てぼうっと上気しているようだったし、ジャーメインはシークイン(丸い装飾用の金属板)のついた白いタキシード姿ですましていた。


結婚指輪の使者になったのはマーヴィンとアンナ・ゲイの息子マーヴィン・ジュニアで、マーロンは新郎の、あたしは新婦の付き添い人をつとめ、ほかの兄弟たちは参列者の案内役となった。


jermaine wedding2

スモーキー・ロビンソンは、二人のために特別に作曲した〈フロム・ディズ・タイム・アンド・プレイス〉を歌った。


スモーキーが歌うユーチューブ動画



600人の招待客の中には、ロサンゼルス市長トム・ブラッドリー夫妻、ダイアナ・ロスと夫のボブ・シルバースタイン、ビリー・ディー・ウィリアムズ、ダイアハン・キャロル、コレッタ・スコット・キング、ニコラス・アッシュフォード、ヴァレリー・シンプソンなど知名士の姿が多かった。


”黒人ショービジネス界の名門の結合“とマスコミをにぎわせた夢のような結婚式であった。

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(ティトとディー・ディー)

ティトがディー・ディーと結婚したとき反対して騒いだファンがいたけど、ジャーメインが独身生活にさよならしたときに浴びた非難の声に比べれば、何でもなかった。



ジャーメインは母の優しい目と魅惑的な唇を受けつぎ、兄弟の中で一番美しかった。


モータウンは最初から彼のセックスアピールを利用し、宣伝写真用にシャツなしでポーズをとらせたり、ロマンティックなバラードを歌わせたり、またそれだからこそヘイゼルとのロマンスを秘密にしたりしていた。


ジャーメインが自分たちの愛情を“ふみにじった”ことを知って、何千という少女が打ちひしがれ、手紙に怒りをぶちまけてきた。その多くが恨みに満ちた内容だった。



「今あなたに会えたら、ほっぺたをひっぱたいてやるわ…わたしたちをだましたのね、うそつき…どうしてこんなことをあたしにしなくてはならなかったの?…わたしがどんなに悲しんでいるか、知らせてやりたい…いつかはいっしょになれると思っていたのに…」


こういうファンは、ジャーメインがすっかり自分のものと心の底から信じていたのだ!ファンの手紙を読んで兄はうろたえ、「結婚したからもうサインはいらない」と断るファンもいて傷ついていた。




1974年、ジャクソン5は〈ダンシング・マシーン〉を発売したが、この曲では円熟味を増した新しい路線を予想させるとともに、マイケルの声が少し太く低くなって、いかにもソウルっぽいテナーに変わっていることがわかった。


ファンキーなキーボードに引っ張られ、ベースとパーカッションが沸き立つように低音部を流れるこの曲は、ジャクソン5最後のシングルとして3年近く“トップ10”入りを果たした。


レコード発売後すぐ、兄弟たちは特別公演のためにセネガルに飛んだ。アフリカに行くのはこれが初めてで、現地の人々や光景に感動したが、この旅はもう一つの理由からも忘れられないものとなった。
(動画はこちらへ




ジョーゼフが6人を部屋に集め、晴れやかな笑顔でこう言いだしたのである。


「お前たちに話したいことがある。実は新しい妹ができたんだ」!

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兄弟の結婚、出産、はその後のラトーヤにどんな影響を与えたのでしょうか…ジャーメインの結婚式で、マーヴィン・ゲイとアンナが指輪を渡したなんて、今考えると凄いことでした
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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その8ティト長男タジ誕生

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第三章 その8

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(1973年ジャーメインとヘイゼルの結婚式)


しかし、その後の兄弟たちのレコードは、ソロとしてもグループとしても売り上げが落ち始めた。


〈ハレルヤ・デイ〉は、現在までのジャクソン5のシングルの中ではヒットチャートの最低だった。


この曲とそのあとの〈ゲット・イット・トゥギャザー〉はやっと“トップ100”に入った程度だったし、マイケルがその年に出したたった一枚のレコード〈ウィズ・ア・チャイルズ・ハート〉は50位にとどまってしまった。


ジャーメインの〈ユア・イン・グッド・ハンズ〉は79位、有望だったジャッキーのデビューアルバムに至っては、あとかたもなく消えてしまった。


ジャクソン5は(このころは11歳で童顔のランディがステージに加わり、コンガドラムを叩いていたので実際は6人だが)に、いったい何が起きていたのだろうか?


モータウンはちゃんとした曲をくれない、兄弟たちはそう感じ、ジョーゼフも同じ意見だった。


そして自作の歌をレコードにしたいと思い、ヘイブンハーストのスタジオで2年間磨きをかけていたけれど、レコード会社は専属の作曲家がこねくり回した曲を無理やりに歌わせた。


レコード界のヘンリー・フォード(フォード社を創立した自動車王)と呼ばれるベリー・ゴーディは、作曲家と歌手の分業による流れ作業生産で自分の王国を築いた。


例外として最近スティーヴィー・ワンダーやマーヴィン・ゲイが成功しているけれど、ベリーは、ジャクソン5には同じシンガーソングライターとなる機会は与えようとしなかった。


以前なら思いもよらなかったことだけど、父と兄弟たちはグラディス・ナイト・アンド・ピップスやフォリー・トップスの例に従って、他のレコード会社へ移ることを考えた。


モータウンの黄金時代は明らかに終わりを告げようとしていた。


理由はたくさんあるが、業界への影響力がしだいに弱くなってきたこと、“レディ・シングス・ザ・ブルース”の成功を受けて、ベリーが映画作りに夢中になり始めたことが主な原因だった。


ジャクソン5がモータウンと契約した1969年には、シングル盤の12曲が“トップ10”入りしたのに対し、1972年には4曲に減ってしまった。


契約期間がまだ2年残っていたので、欲求不満になりながらも時機を待たなくてはならなかった。


レコード売り上げこそがた落ちだったものの、世界各地のコンサートではトップの人気を保ち、1973年は1年を通じてアメリカ、日本、オーストラリアでツアー公演をおこなった。


ティトの初めての赤ん坊がツアーの終わりごろ生まれる予定だったけれど、ジョーゼフは彼を家に帰らせようとせず、妻と一緒にはいられなかった。


そのためラマーズ法(自然無痛分娩法)の出産準備教室には、ティトの代わりにあたしが出た。

ディー・ディーの陣痛が始まったとき、兄弟たちはヨーロッパにいた。分娩中、あたしはディー・ディーのコーチ役を務め、愛らしいトリアノ・アダリル2世の誕生を手伝った。


あたしは姪や甥はみんな大好きだけど「タジ」のニックネームで呼ばれているこの子には、また特別な思いがある。


タジが生まれた翌日、ジャーメインとヘイゼルの結婚式への招待状が出された。二人は1969年、ほとんど一目ぼれで恋に落ちた。


それ以後、ヘイゼルはひたすらラブレターを書いた。週に2回ほどインディアナに戻っていたジョーゼフは、よく郵便物をえり分けては一本調子な声で「おーい、ジャーメイン!あのゴーディの娘からまた手紙が来てるようだぞ」と2階に向かって大声を上げるのだった。


ヘイゼルが住むカリフォルニアにあたしたちが引っ越してから、二人はロマンスを復活させた。


ヘイゼルがりっぱな家庭に育った娘なので、あたしの両親はジャーメインが彼女と結婚することで安心したと思う。


両親は、息子たちが金目当ての女の子と結婚するのでは、といつも心配していた。

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まるでハイスクールに通う子どもたちのようにわが子たちを心配し過ぎてていたキャサリンとジョーゼフ…

ティトの息子タジをラトーヤが特別に可愛がっていたようですね…一番最初に生まれた甥や姪は特別なものでしょうか。

この頃からモータウンとさよならする準備を着々と整えていく父と兄弟たちの、水面下での動きがあったようですね。

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その7マイケルが内向的になり始める

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第三章 その7


思春期は、マイケルにとっても恥ずかしいものだとわかってきた。150センチほどだった身長も急に180センチ近くまで伸び、かわいい坊やがまるで一晩のうちにひょろひょろのティーンエイジャーになったようだった。


体の一部分が並より大きくなったことで思いやりのないからかいの対象とされ、特に父からしきりにからかわれることになった。


「お前の顔についているその大きな鼻を見ろ」とジョーゼフはよくあざけって笑った。


「どこからそんな鼻をもらってきたんだ…え?大鼻(ビッグノーズ)クン!」ほかの兄弟たちはやっとマイケルに仕返しできるチャンスがきたのに、お互いのことを言い合うばかりで、ジョーゼフほどの卑劣でひどいからかい方をする者はいなかった。


いつも人をからかっていたマイケルはひどく勝手が違い、今度はからかうのをとめるのにやっきになっていた。



さて、そのころ、前に母が口にしていた予言があった。マイケルのにきびがひどくなったのである。


当然のことながら、にきびに悩んでいるティーンエイジャーは、たいてい神経質になっているものだ。まして、顔が雑誌の表紙やTシャツ、弁当箱の飾りとなっているスターの場合をちょっと想像してみてほしい。


弟は荒んだ(すさんだ)気持ちになった。スザンヌ・デ・パッセとやはりモータウンの社員でスザンヌのいとこのトニー・ジョーンズが、診察料の高い皮膚科医のところにあちこち連れて行ったけれど、新しい治療をしてもいっそうひどくなるばかりだった。


それから2年半の間、マイケルは効きもしない食餌療法を、がまんしながら次から次へと続けていった。


マイケルの性格は変わってしまった。以前は社交的で知らない人とも気楽に話せたのに、自分の中に引きこもってしまった。


よその人に話しかけることがなくなり、話しかけられたとしても下を向いたり横を向いたりして、自分の顔が見えないようにしてしまうのだった。


写真を撮られることも嫌がった。外に出かけ、女の子と会っているはずの年頃なのに、家に閉じこもっていた。


弟のことを思うと、あたしの心は痛んだ。


「マイク、こんなことそんなに気にしちゃだめよ。にきびなんて消えるわよ」とあたしは言い聞かせた。


「たまらないんだよ、ラトーヤ。本当にたまらないんだよ」弟は完全に絶望していた。「どうしてもなくさなくちゃいけないんだよ」


マイケルは食事を思い切って変え、本物の自然食品しか食べなくなった。16歳の誕生日のころにはやっと皮膚の状態はよくなったけれど、にきびのあとまでは消えなかった。


以前は兄弟の中で一番社交的で生き生きしていたのに、もう元には戻らないのではと思えるほどひどい引っ込み思案になってしまった。


ベスト・オブ・ジャクソン・ファイヴ


1972年、マイケルはジャクソン5メンバーとして4曲〈シュガー・ダディ〉〈リトル・ベティ・プリティ・ワン〉〈ルッキン・スルー・ザ・ウィンドーズ〉(窓辺のデート)〈コーナー・オブ・ザ・スカイ〉、ソロシンガーとして3曲〈ボビー・デイの1958年の大ヒットを元気いっぱいに歌っているリメイク〈ロッキン・ロビン〉、〈アイ・ウォナ・ビー・ホェア・ユー・アー〉、


それに心にしみ入るバラードで第1位になった〈ベンのテーマ〉をネズミに寄せる風変わりな歌だと考えた人が多かったけれど、マイケルにとってはそうではなかった。


たとえばネズミのようなものでも、生き物と名のつくものは何でも好きだった(実際、シャツのポケットにペットの白いハツカネズミを押し込んで、よく夕食の席にやってきたものだ。逃げ出したネズミがあたしのベッドに這い上がってこないように、夜、寝室のドアの下にタオルを詰めたことを今も覚えている)。


同じ1972年にモータウンはジャーメインをソロシンガーとして売り出し、<ザッツ・ハウ・ラブ・ゴーズ〉がまあまあのヒットとなり、続いてシェップ・アンド・ライムライツのカバーバージョンで、しみじみとした味の〈ダディーズ・ホーム〉が“トップ10”に入った。


しかし、その後の兄弟たちのレコードは、現在までのジャクソン5のシングルの中ではヒットチャートの最低だった。
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スザンヌ・デ・パッセはモータウンでの教育係だったけれど、ジャクソン5の方が実はキャリアがあったので教えにくかったんじゃないかな…彼女は当時、マイケルたちのモータウンで生き生きとオーデションのパフォーマンスをしたのを鮮明に覚えていて、別格だったと評していますね。
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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その6ラトーヤとキャサリンの絆

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第三章 その6


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(王国会館)


ダーレスに会うことを禁じられ、あたしはいっそう母と親密になった。母が新しい親友になったのである。


この友情は、たいていの母親が理想とするような関係だった。王国会館へ一緒に行くことはもちろん、朝食用のパイストリー(パイ皮や練り粉菓子)探しやら二人きりになりたいやらで、わざわざ遠回りしながら、母はほとんど毎朝のように学校まで送ってくれた。


母は子どもたち全員に尽くしてくれたけれど、あたしは特別だという気持ちをいつも感じさせた。


あたしを信頼し、あたしたち親子がとてもよく似ていることを、決して忘れさせなかった。
 

あたしが年頃になるにつれ、ジョーゼフは、「ケイト、ラトーヤはぼくたちが初めて会ったころのお前に、そっくりじゃないか。あのほっそりとしたウェストを見ろよ、お前の昔のウェストと同じだね」とよく言ったものだった。母はそんな言葉ににっこりしていた。


あたしが何を着ても、何をしても、母は幸福そうでしかも誇らしげに見えた。そしてそのことがまた、あたしを幸福な気持ちにした。


たいていのティーンエイジャーの女の子と違って、あたしは母と一緒に過ごす時間を楽しみにし、誰かほかの人、ましてや男の子と一緒にいるなんて、想像もできなかった。デートに出かける経験など一度もないまま、花の16歳は過ぎていったのだった。


あたしの素晴らしい家庭教師ファイン夫人は、「ラトーヤ、あなたにはボーイフレンドがいるの?お願い、いるって言って」優しく尋ねながら、男女交際についての点数はいつも評価3を与えていた。


「いいえ、いません、ファイン先生」あたしはちょっと困ってそう答えたのだった。


「あなたにはわからないのよ。それにしても人生最良の時を逃してしまうなんて、振り返ってみてきっと後悔すると思うわ。あなたみたいに可愛い子は、ボーイフレンドを持つべきなのに、本当にかわいそうな人ね」


先生の好意的な質問は、翌年以降も5年間続いたけど、あたしの返事も5年間続いて同じだった。


“エホバの証人”では、異性の信者を“心に思う”ことも罪だった。たとえ男性を見て、“彼ってステキだわ、ほんとうに好きになりそう”などと思っただけでも、あたしはすぐに長老に告白しただろう。


強い罪の意識を感じ、心が乱れるのだ。男の子を好きになることがなぜ悪いのだろう。でも、誰かがあたしに興味をもったとしても、あたしを守っている兄弟たちが多分おどして追っ払ってしまったと思う。


男の子があたしの方をちらちら見ていると、それに気づいたジャーメインは必ず「何を見てるんだ?首っ玉へし折るぞ!」と怒鳴りつけるのだった。


あたしがデートしないのを、母が心配している様子は一度もなかった。かえって喜んでいた。デートしないということは、リビーやティトのように家を出ていく恐れがなかったからだ。


ジャーメインはベリー・ゴーディの娘ヘイゼルと真剣にデートしていたし、マーロンは11歳の時に出会ったニューオリンズ出身のキャロル・アン・パーヤーとペンフレンドになってロマンスを進行させていた。


ジャッキーには女性という女性がみんな熱を上げているみたいだったけど、そんな女性たちの熱が冷めるのも時間の問題だった。


両親はあたしたちが子どもから若い男女に成長していることを認めたがらなかった。


人間本来の性については、話題にするのはタブーだった。母はきまり悪さから、“体のこと”については、一度も説明してくれず、思春期の正常な体の変化があたしには心の傷となった。


10歳を少し過ぎたころだったか、あたしは胸がふくらんでくるのに悩み、どうしようもないことなのに何とかしてとめようと、手で胸を押さえながら家の周りを歩くなど、無駄な努力をしていた。


思春期は、マイケルにとっても恥ずかしいものだとわかってきた。150センチほどだった身長も急に180センチ近くまで伸び、かわいい坊やがまるで一晩のうちにひょうろひょろのティーンエイジャーになったようだった。

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ラトーヤのナイトのような存在だった頼りがいのある兄たち、あ~うらやましい限り♪一般的には母と娘ってどんな時、距離を置いていくんだろう…やはり娘の結婚なんだろうか。母と娘の関係が良すぎると性問題はややこしくなるかもしれない…
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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その7へ続く
 
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ラトーヤ・ジャクソンロシアMuzテレビアワードで歌うアースソング

ロシアMuzテレビアワード受賞時のラトーヤのアースソング

ロシアの人気歌手、一緒に歌うディマビラン、バレリア、ロマックなどの姿が見えました。
キエフでも受賞し、ラトーヤは出席していましたね。

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動画はコチラ


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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その5エホバの証人に批判され始める




インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第三章 その5


だからあたしは、ポップミュージックはあまり聴かなかった。たとえ兄弟たちのレコードでも、聴かなかった。今でもまだ、兄弟のヒット曲70曲の全部を知っているわけではない。


そして、もっぱら信者仲間とだけ交際していたせいだと思うが、マイケルとあたし、ランディ、そして後からはマーロンも通った私立高校で、あたしたち二人にはほとんど友だちができなかった。


ちなみに、この高校にはマーロン・ブランドの子どもをはじめ、名士の子弟が大勢在籍していた。


しかし、“エホバの証人”の信者とは親しくなった。ダーレスはあたしにとって初めての、そして家族以外でただ一人の友人で、ともに過ごす時間をとても大事にしていた。


彼女は学校でマイケルを特別扱いしない数少ない女生徒の一人で、弟を単なる一生徒として扱ってくれ、マイケルは心から感謝していた。


昼食時は毎日、3人はいっしょに聖書を精読した。彼女は王国会館でもあたしたちといっしょになった。


その集会で、ダーレスは勇敢にも長老の一人に議論を申し込んだ。彼女は無邪気を装って、「わたしは救われ、両親が救われないというのはなぜですか。両親は“エホバの証人”の信者ではないかもしれないけれど、申し分のない人たちです」と質問した。


長老の返答は型通りのものだった。自分の見解の支えとなる聖書を引用しただけで、ダーレスが提示した問題への教えにはなっていなかった。


そこで彼女は、自分の気持ちと疑問点を詳しく説明した手紙を書いたが、これが他の長老たちの激怒を招いた。


ある日、リービーの夫でやはり長老のナサニエルがあたしをそっと呼び、「ラトーヤ、2度とダーレスに話しかけてはならないよ、これからずっと」と命じた。


「でも、なぜ?」
「除名されてしまったのだよ」つまり、その日を機に彼女を遠ざけるため、”エホバの証人“から放り出したのだった。


「あたしの親友なのに!」と、あたしは抗議した。「どうしてこんなことができるの?」あまりにもひどい仕打ちなので腹が立ち、また心を傷つけられもしたが、ぐっと感情を押さえた。


その後はマイケルもあたしも、ダーレスとの関わりを断った。だが彼女を失った寂しさは深く、あたしたちは初めて教義のいくつかをひそかに考え直すようになった。



そして除名の脅かしにも沈黙することなく、疑問点は勇気をもって明らかにしなくてはいけない、と思った。


長老には、服装や行動につつしみのない者を叱り、注意する義務がある。芸能人で、しかも大勢の人々のアイドルであるマイケルは、長髪やら、広いひらひらしたベルボトム(すその広いズボン)をはいているやらで、いつも非難の的になっていた。


弟ははっきりした色、とりわけ赤が大好きだったので、ある長老の批判を浴びる結果を招いた。


「君が着ている色は派手すぎるね。それが目を引くことになっているんだ。茶色とか黒に決めるべきだね」そんなことで、信者の中にはあたしたちとのつきあいをいっさい断る人もでてきた。


多くの人々が、信仰の道は厳しすぎると思っているけど、あたしたちにはその道のほかに比べてみるものは何もなかった。


本当に知っていることといえば、家族と学校、それに王国会館だけで、その3か所とも服従を要求し、自由な表現を許さないところだった。


しかし、マイケルとあたしが大人になればなるほど、社会の中で二人にぴったりの場所はどこだろうと、ますます考えるようになった。


信者でない人々は、あたしたちを家庭に守られた世間知らずの堅物(かたぶつ)と見ていたけれど、確かにそうだったのだろう。


でも少なくとも宗教の世界だけは、そんなあたしたちを受け入れてくれたのである。


ダーレスに会うことを禁じられ、あたしはいっそう母と親密になった。
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エホバの証人活動に疑問を抱くようになったラトーヤ、結果的に彼女を理解してくれる人は母キャサリン、マイケルだけとなっていましたね
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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その4マイケル布教活動中犬に噛まれる




インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第三章 その4


金のために実際に誰かを殺す人間なんているのだろうか?芸能界では、残念ながらその答えは「イエス」である。


兄たちはデートをしていたが、あたしは異性になどまるで関心がなかった。一つには、マイケルとあたしは“エホバの証人”の信仰に熱心だったからだ。


このころになると、きょうだいたちのほとんどは基本的に信仰を捨ててしまい、週に5日、あたしたち二人と母だけが家で聖書を真剣に読み、王国会館の集会に出席していた(ランディがいつもいっしょに行きたがっていたが、身支度に時間がかかりすぎて間に合わなかったようだ)。

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(エホバの証人の理想とする世界)

マイケルとあたしは、毎朝ロサンゼルス周辺の家々のドアをノックし、エホバの神のお言葉を広めながら信仰の証しを立てた。


マイケルはこの何年か後、〈スリラー〉を出した頃にだぶだぶのゴムのスーツを買ったが有名になるにつれて、彼と見破られないようにそれに似たスーツを着て変装しなければならなくなった。


大人はマイケルの変装にだまされたけど、ほとんどの子どもは何秒か経つとすぐに見抜いてしまった。


ノックに応じてくれた人には、弟は誰にでも元気に「おはようございます」と挨拶したものだった。


「世界の現状やあたしたち全体が直面している問題に、どう対処できるか、お話したいのです。ほんの少しお時間をいただけますか?」


この見知らぬ訪問者に対する反応はさまざまだったが、戸口にたった子どもたちは必ず、「あの人、マイケル・ジャクソンだよ!」と指差しながら興奮して叫ぶのだった。


「お前、ばかなこと言うんじゃないよ」親はそう答えるのだが、「だって、そうなんだもん!ほら!ほら!」と、子どもは大きく開いた目でマイケルをじっと見つめながら、あくまでも言い張るのである。


マイケルはそんな子どもの目を、必死になって避けていた。


こんなとき親は「おバカちゃんねえ、マイケル・ジャクソンがここで何をする」のよと言い、“子どもってこんなものですからね”といった表情でちらりとこちらを見るのだった。


こういうことが何度あったかしれないが、子どもたちはマイケルを“ハーメルンの笛吹き”のように見ていたようで、彼の変装をたちまち見破ったのに、親の方はまったくわからなかったとは、あたしにはいつも驚きであった。


不思議なことに、弟とあたしは誰かがマイケルと気づき、危害を加えたり誘拐の恐れがあったりする見知らぬ家を訪問して回り、平気で中に入り込んでいた(警備の者が車でつけてはいたが)。


しかし、これは信仰の教義だったので、あたしたちは実践していたのだ。たとえ「番犬に注意」の張り紙がしてあっても、家の人に会うため努力をする義務が負わされていた。


もっとも、用心のため、必ず門をがたがた鳴らしたり何か別な音をたてたりして、実際に犬がいるかどうかを確かめてはいた。

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一度マイケルが、一人で布教に歩いていた時、例のだぶだぶスーツを着てある中庭に入って行ったところ、隅の方からすごく大きくて獰猛な顔つきの雑種犬が突進してきた。


犬は歯をむき出して唸り弟の足首に噛みついた。弟は通りに逃げ出し『ものみの塔』や『目覚めよ!』のパンフレットとコピーは空に舞い上がった。


後ろを振り向きながら、助けを求めて悲鳴をあげ、重いコスチュームを一枚一枚脱ぎ捨てているマイケルの姿は、さぞ面白い眺めだっただろう。


子どもの頃、家の周囲をジョーゼフより速く走るのに慣れていたマイケルは、ついに犬を振り切り、疲れ果てて家の方に小走りで帰っていった。


あたしは信仰を信じる道を選んだことで、その決まりも受け入れた。例えば“エホバの証人”では、歌詞が性ばかり目を向けている音楽は聴くことを禁じられている。


だからあたしは、ポップミュージックはあまり聴かなかった。たとえ兄弟たちのレコードでも、聴かなかった。今でもまだ、兄弟のヒット曲70曲の全部を知っているわけではない。

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マイケルが犬に追いかけられる!怖かったでしょうね(苦笑)
こちらも興味深い~カレン・フェイのエホバの証人の記事

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