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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その3ショービズの怖さを知る




インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第三章 その3


ジョーゼフを恐れれば恐れるほど、家を出ていくという子どもの頃には誰でも描く夢など、あたしたちには文字通り想像もつかないことだった。


あたしたちはみな無力感に捉われ、“むこう”の世界は身震いするほど恐ろしく思えたのだ。


家を出ることを許される唯一の方法は、リービーのように結婚することだった。


1971年、17歳のティト―は、高校卒業を待って初恋の相手でただ一人のガールフレンド、ディーディーと結婚する予定だと発表し、家族に衝撃を与えた。


ジャーメイン、マーロン、ジャネットも10代のうちに初めての恋人と結婚しようとした。


オズモンド家のような大人数で厳格な家庭では、早婚の傾向があることにあたしは気がついた。(※2010年3月に自殺した養子のマイケルはマリー・オズモンドの息子。オズモンド家は、厳格なモルモン教信者として知られている)


モータウン・レコード社は、ティト―の結婚が目前に迫ったと知らされても喜びはしなかった。


ジャクソン5の〈帰ってほしいの〉(アイ・ウォント・ユー・バック)が会社初めての数百万枚も売り上げをもたらして以来、経営陣はジョーゼフに対し、息子たちに嫁をとらすなと警告していた。


結婚すればティーンエイジャーでの人気が落ち、会社の決算も大幅に減少すると信じたのだった。


「もしグループの誰かが結婚すれば、ファンはさっさと彼らを持捨てるだろう。また、一人が結婚すればみんなが結婚したくなるだろう」


「そうなると妻になった連中があれこれ口出しするようになり、あっという間にグループは消滅してしまう。過去にもこういうことは見てきたんだ」と彼らは予言した。


兄弟の一人(名前は言いたくない)が結婚する直前のことだが、レコード業界をはじめイチかバチかの業界であればおそらくどこにでも存在するだろうと思われる弊害に、あたしは初めて遭遇した。


賄賂や麻薬その他のスキャンダルについてはきっと耳にされているだろうが、そんなものは実際に存在する弊害の半分にも満たないのだ。

The+Jacksons-Family.jpg


ジョーゼフはある日、心の動揺をはっきり見せながら帰ってきた。父がそんなに気落ちした様子を見せるのは、めったにないことだった。


家族を集め、その父が信じられないような話をしはじめた。ミュージック産業界の有名な実力者が父に近寄り、“ジャクソン5の一人が結婚すればグループの崩壊に繋がるのではと”心痛している“、と話しかけたというのだ。


その大物は「崩壊させてはいけない、わたしたちはそうさせてはいけないんだ」と言い、さらに「わたしはこれを止めさせることができる、よろしいかな?」と不気味な言葉を付け加えたそうだ。


「止められるって、どういうことでしょうか。どうやって止めるとおっしゃるのでしょうか。息子がその娘を愛しているのなら、二人は結婚するでしょう。それは二人の問題で、あなた方には関係ないと思いますが」


「君は結婚はやめさせたいのだね」
「そうですね」ジョーゼフは押し切られそうになった。


「あいつがそんなに熱を上げてなければ…、でも…」


「でも、やめさせたいんだね。そうしないと…」
「娘が姿を消すことだって…あり得るね」


父は信じられないという表情になり、「どうやって姿を消すなんてできるんです?」と尋ねた。


「崖から落ちるか、車ごと墜落すればできるよ」と男は冷たく答え、「誰にもわかりはしない。発見されたとしても、ハンドル操作を誤って道路を外れた、と誰だって思うさ。やろうと思えば、マルホランド街道ですぐにでも起こせる事故だ、簡単なものだよ」と続けた。


さすがのジョーゼフも青くなってしまった。「だめです!そんなことしてはいけません、考えるのも止めてください!」


すると、もう一人の男が両手をすくめるような格好をしながら言った。「いいでしょう、ま、助けてあげることですな」


金のために実際に誰かを殺す人間なんているのだろうか?芸能界では、残念ながらその答えは「イエス」である。
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恐ろしい世界があるのをちゃんと知っていたジャクソン・ファミリーだった。彼らの行く手にはこれから先、何が待っているのだろう…
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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その4へ続く
 
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動画ジャクソン・ファミリー3T&ディーディーもすごい仲良し歌う家族

 ジャクソン家のみながでそろって、素晴らしい雰囲気を醸し出しています。

linkyoutube

 

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その2母キャサリンのあきらめの心



インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第三章 その2


だが、それがこけらおどしに終わることはわかっていた。マイケルが時に反抗したほか、ジョーゼフに少しでも恐怖を与えるなど誰にもできなかったのだ。


父の目から見れば、あたしたちは甘やかされ過ぎた子どもの一群に過ぎなかった。


父は友人や仲間に自分の子どもたちのことを“変な人間”と呼び、あたしたちの新しい生活スタイルを不快に思っているようだった。


そして、「おれがお前たちの年だった頃はな、プール付きの大きな家なんか住んでいなかった。身を粉にして働かなくちゃならなかったんだぞ」とよくお説教をしたものだ。


兄弟たちだってリハーサルやレコーディングその他、過酷なスケジュールに追われているのに、まるで一生懸命に働いてはいないような言い方だった。


それに、それだけ手に入れても幸運だといえるどんな贅沢品でも、自分で稼ぎ出していたのに、ジョーゼフは続けて言った。


「お前たちは毎朝学校まで送ってくれる運転手がいる。おれはな、おれは学校まで15キロ以上も歩いて通わなくちゃならなかったんだ。お前たちの持っている便利な文房具など、おれの若い頃は発明さえされていなかったんだぞ」


やがて父は家を空け始め、夜明けごろに出かけて夜半過ぎまで帰ってこなくなった。


その頃から、あたしたちはやっと全員解放された気分になった。父の行き先はさっぱりつかめなかった。


わずかにわかったのはハリウッドのサンセット大通りにあるモータウン・ビルに、事務所をオープンしたことぐらいだった。事務所が終わった後どこへ行くのか、誰にもわからなかった。


とは言うものの、父という存在そのものは、留守のときでさえ家やあたしたちを威圧し、支配していた。


ジョーゼフのような父親と住んだことがない限り、何が起きるかわからず絶えず神経をぴりぴりさせる暮らしがどんなものか、想像もつかないと思う。


いつ帰ってくるのだろう、機嫌はどうなんだろうとびくびくしているうちに、ガードマンがインターフォンで「ジャクソン様がお着きになりました」と報告する。


あたしたちはどんな時でもしていたことを止め、なんとかして父を避けようと、たいていはあたしたちの部屋のどこかに隠れた。


だが、いつもドアから進んできて、あたしたちを怒鳴りつけながら家中を荒れ狂う父に、ほとんど1日おきにつかまってしまうのだ。


自分の父親のことがわからないと、あたしたちは何回か母と話し合おうとした。それも一度や2度ではなかったが、返事はいつも「わからないほうがいいのよ」とあきらめきったものだった。


「だけど、あたしたちは家にいる父さんが欲しいの」とあたしは言った。「それなのに、どうしてジョーゼフは違うの?どうしてあたしたちといたがらないの?」


「ラトーヤ、このほうがいいのよ。もしジョーゼフが家にいたら、何かと騒ぎが起こるだけなんだから」


「でもお母さん…」
「このほうがいいのよ」母はそっけなく繰り返し、行ってしまった。

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わからないほうがいいと母自身が諦めているような男ジョーゼフと、なぜ母は一緒にいるのか、あたしたちにはどうしても理解できなかった。


しかし、そんなことを持ち出して母を非難したり、母が父のもとを去ったら生活もずいぶん気楽になるだろうに、とは思わなかった。


その時以来ずっと、あたしたちは母を“わが陣営の一人”、つまりジョーゼフの激怒の新しい犠牲者と考えるようになっている。


過去を振り返ってはっきりと疑問に思うのは、独立していい年齢に十分達しながら、なぜあたしたちは家を出なかったのかという点だ。

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確かにお金のことは問題ではなかった。やろうと思えばいつでもできた家出について一度も考えなかったということは、あたしたちがどんなに父の庇護下、支配下にあったかを示している。


ジョーゼフを恐れれば恐れるほど、家を出ていくという子どもの頃には誰でも描く夢など、あたしたちには文字通り想像もつかないことだった。

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子どもたち陣営に母キャサリンも仲間入りしていたのか…しかし、ジョーゼフの15キロ歩いて学校まで行っていたって、ほんと?2時間以上かかる…
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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その3へ続く
 
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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その1「おまえたちはみなつまらん人間だ」



インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第三章 その1

「お前たちはみんなつまらん人間だ」

アメリカでいちばん金持ちで、有名で、そして才能ある黒人ティーンエージャーに向かって、父はよくこう言い聞かせていたけれど、言葉のひとつひとつがいかにも人を侮辱したような口ぶりだった。


「お前たちはみんな“変な人間だよ”」あたしたちは一生を通じ、こんな言葉をほとんど毎日のように聞かされていた。


これはティト―の打ち明け話だが、地方巡業に出ているときなど、自分の子どもたちといっしょにいるのを見られることさえ、ジョーゼフは嫌がっていたそうだ。


「ひどいんだ、ラトーヤ。まるでぼくたちが見えないみたいな扱い方をするんだよ」とティト―は話していた。


父は5人の息子たちを、本当にそれほど軽蔑していたのだろうか。父は、たった一つの生計手段であるジャクソン5への支配力を保つため、息子たちの自負心をわざと打ち砕くという、ひねくれた手段をとったに違いないとあたしは信じている。



だが、子どもたちが大きくなって多少なりとも外の世界に触れるようになると、もう父親の手から逃げ出せるのだということに、父は気づくべきだった。


あたしたちがまだインディアナ州にいて、グループが一躍有名になることもなかったなら、兄弟たちはきっと反抗し、自分たちだけで暮らそうとしたに違いない。


ジョーゼフにも、それを止められる方法はなかったはずだ。ところが、今や事情は全く変わってしまった。


あたしたちが失ってしまったものについて考えると、悲しくなることばかりだ。ティト―はつい最近、自分の学校時代についてこんなことを言った。


「ラトーヤ、学校で友だちのまわりにいると、お父さんがあそこに連れていってくれた、ここに連れていってくれたってみんないつも話してるんだ。ぼくには何も話すことがなかった。そんな機会なんて一度もなかった。ジョーゼフはぼくたちに何もしてくれなかったんだ」


「わかってるわ」あたしは優しく言った。「でも、がんばってね、あたしはあなたたち兄弟が大好きだから」


「ぼくたちだって、ラトーヤが大好きだよ。でも、愛情ってどうしたらもっと深くなれるのかな」


父と同じく釣りの好きなティト―は、「ジョーゼフと釣りに行ったこと、一度もないんだ。いつもいっしょに行きたいって思ってたのにな」と付け加えた。


「父親らしい父親がいなかったなんて恥ずかしいわ」とあたしは答えた。あたしたちには父親の愛が必要だったのに、そんなものを感じたことはめったになかった。


ジョーゼフが示すことができたのは、怒りと嫌悪の感情だけだったように思えた。

jackie jackson
(本名シグムント=ジャッキー)

1972年に20歳になったジャッキーはまだ家で暮らしていて、相変わらず父の憎しみと残忍さの矢面にさらされていた。


今日(こんにち)までジョーゼフは、どんな場合でも、うまく運ばないことは全部ジャッキーのせいにし、「ジャッキーのやつがやったんだ」とさげすむように言ってきた。


ジャッキーや他の兄弟を人前で平手打ちにすることなど何とも思わず、その場に居合わせた人々にショックと嫌悪感を与えた。


ジョーゼフの暴行はモータウン周辺では周知の秘密だったが、誰一人として反撃する者はいなかった。


一度だけ、ジョーゼフがジャッキーに平手打ちを食らわせようとして止めたとき、この長男が反射的に立ち上がって父を追い、今にもなぐりかかろうとしたことがあった。


「何だ!」と父は吠えるような声を上げ、大股でジャッキーに近づいてきた。「オレに手を上げたのか」と言うなり、父の拳がずしんと顔面にめり込み、ジャッキーは気絶寸前まで殴り続けられた。


「ジョーゼフ!あなた何してるの?」と母は叫んだが、怒り出すととても手に負えるものではない父のことだから、理屈で説教しようとしても無駄だった。


兄弟たちはすぐ全員で母に向かい、「ジョーゼフがいつまでもこんなことを止めないんなら、今度はぼくたちみんなで袋叩きにする!」と迫った。


だが、それがこけらおどしに終わることはわかっていた。マイケルが時に反抗したほか、ジョーゼフに少しでも恐怖を与えるなど誰にもできなかったのだ。

jackson family

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華やかなステージとは裏腹に、父の暴力で心の中は恐怖ですっかり満たされていた日々…この時代の男性にありがちな暴君の支配でした。
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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その2へ続く
 
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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その11




インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第二章 その11


マーロンが弟に対してライバル意識を持つのは避けられないことだったと思うが、母はこのことではいつもマーロンを叱っていた。


あたしたちの中で一番感情の細やかなジャッキーは、「どうしていつもマーロンばっかり叱るの?」と、よく母に尋ねていた。


「それはね、ジャッキー。競争心が強すぎるのはよくないからよ。性格としてよくないの。大きくなるまでに直しておかないと、自分を破壊することになるわ」母はそう答えていたけど、あるいはその通りかもしれない。


いや、それにしても母は何かにつけてマーロンばかり非難していたような気がする。ステージでのダンスについては特にそうだった。


あたしにはさっぱりその理由がわからなかったが、それというのも、批評家たちはよく彼のダンスだけを取り上げて、その滑らかで正確な動きを褒めていたからである。


ある記者などは、兄弟の中でもマーロンがステージの上では最高で、「まるで磨きたてたダイヤモンドのようにキラキラしていた」と書き、これを読んだあたしたちはみな彼のために大喜びしたのだった。


母はマイケルに対するどんな形の嫉妬も生じないように、彼を普通の子どものように扱った。あたしたちもみんなそうだった。


ジャクソン家の内部では、このアメリカ最大のセンセーショナルなティーンアイドルも、ごくありふれた厄介でうるさい弟に過ぎなかった。


いや、ありふれた弟どころではなかった。あたしたちは家の中で時間を過ごすことが多く、チェッカーやチェス、それに単語づくりゲームの“スクランブル”など、いろいろなボードゲームを楽しんでいた。


少なくとも、あたしたちは楽しもうとしていた。ところがそのチェス勝負の最中にマイケルが駆け込んできて、クイーンの駒をひったくったり、盤の上のものを落としたりしては、そこら中にまき散らすのだった。


またマイケルは人が食べているキャンディーバーをたたき落とし、ゲラゲラ笑いながら逃げて行ったりもした。


「マイケル!」と、愛称のマイクではなく、こう呼ぶときは、たいてい彼があたしたちを怒らせた時だった。


例えばジャネットが太っていることや、あたしが並はずれて神経質なこと、丸顔なことなどをからかったりしたときだ。


マイケルはあたしのことを、“ムーン・フェイス”と呼んでいたが、ジャーメインに向かって“ロッキー・ロード”(ごつごつ岩)とバカにして呼ぶよりはマシというものだった。ジャーメインは10代のはじめからニキビに悩んでいたのだ。


「ロッキー・ロードや~い」
「マイケル、やめろ」
「ロッキー・ロード、ロッキー・ロード」

マイケルは兄から逃げながら叫んだ。
「自分のニキビ面、よく見ろや~い」

母はいつも中に入り、「マイク、ジャーメインの顔のことでからかうのはやめなさい。人のことをバカにしていると、いつかはお前だって見苦しい顔になるんだから」と叱りつけていた。


作り笑いをする子がいると、「そんな顔をしていたら、そのままの表情で固まってしまうぞ」と親はよく言うものだが、母の言葉はそのバリエーションだった。


マイケルはしおらしく聞いているふりをしていたが、肝心の目がいたずらっぽく光っていた。


さも心から申し訳なさそうに、「わかった、ごめんなさい」と謝ったかと思うと、最後に、「ね、ロッキー・ロード!」とつけ加え、床に倒れ込んで腹を押さえながら笑い転げるのだった。


当時を振り返ってみると、マイケルは非常に外向的で、いつも自分より年上のミュージシャンが周囲にいたせいか、恋愛ごっこを楽しむようなところがあった。


若いきれいな女性とすれ違うと、「うわー、あの娘(あのこ)いいオシリしてるねぇ」と言ったり、スカートをのぞいたりしてくすくす笑いながら、「ね、ラトーヤ、あの子のパンティ、何色だと思う?」と尋ねたりしていた。


「マイケルったら!」と言いながら、あたしは驚きもしなかった。こんなことはもう珍しくもなくなっていたのだ。


現在のすっかり成人になったマイケル・ジャクソンのイメージからは、想像することさえ難しいのではないだろうか?あたしだって、時にはそう思う。当時と今とでは、あたしにもふたりはまったくの別人に見える。

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ジャクソン5がいかに素晴らしい金の鉱脈の持ち主か、モータウンが実感するのにそう時間はかからなかった。

何百万枚というレコード売り上げのほかに、コンサートからの収益、販売促進計画による利益、ランチボックスのようなグッズに写真や名前をつけるライセンス料などもあった。


そのうえ、1971年に初めて放映された土曜日の朝のテレビまんがシリーズもあった。


まんが番組〈ザ・ビートルズ〉のように、その〈ザ・ジャクソン・ファイブ〉というまんがでも、兄弟たちの音楽は使われていたが、声は俳優が吹き込んでいた。


成功がもたらしたものは数多くあったが、マイケルとマーロンはこの番組がお気に入りで、アニメ化された自分が画面に跳び回るのを一心に見守っていた。


わずか2年の間に、あたしたちの生活はすっかり変わってしまった!ガードマンが固めたガードの奥に住み、まんがになった自分の姿をテレビで見たり、一人だけでは外出もできなかったりする----------


これが兄弟たちの人生だった。外の世界のことはごくわずかしか知らず、その世界も遥か遠くに飛び去りつつあった。


インディアナ州の家にいた頃は、ジョーゼフと母が二人だけで、あたしたちを“外”から切り離す壁を築き上げていた。


今では、とどまるところを知らないジャクソン5の成功が、その壁をさらに強化し、さらに高くしているのだ。


ヘイブンハーストのあたりを散策していると、インディアナではどんな生活をしていたのだろうと、じっと精神を集中しなければ思い出せないほどだ。


でも、浮かんでくるのは現在のことだけで、あとはすべて記憶の彼方へと消え去っている。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第三章その1へ続く
 
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◆当時のアニメシリーズ動画◆

動画ジャクソン5Can You Feel It太陽フレアが♪




ほんとに完成された名曲である、と私のお気に入りの曲でございます~~

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その10



インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第二章 その10


この広々とした屋敷には、離れになったゲストハウス、劇場、使用人部屋、プール、きれいに刈り込まれた庭、バスケット用とバトミントン用のコートなどがあった。


時が経つにつれて、あたしたちはいろいろな改良を加えていった。例えばレコーディングスタジオ。これは目先の利く父が、モータウンでスタジオ代を払わなくても、息子たちに作曲やレコーディングができるようにと付け加えたものだ。


このスタジオの隣りはあたしたちの言う“キャンディ・ストア”でアイスクリームやスナックがわんさと置かれていた。子供時代の夢である。


外回りを見ただけで、このバカでかい家の支出がわが家にとってどんなに莫大なものだったか、いつも思い出された。敷地の境界には高い堀が巡らされていたし、表門にはこれ見よがしに電動ゲートがそびえていた。


詰所には警備員のチームが配置され、監視カメラが地上くまなく目を光らせ、不遜なのぞき見連中を見張っていたのだ。


こんな万全の警備策を講じても、母とジョーゼフは本当に安全だとは信じていなかった。


あたしたちは、インディアナ州にいたころより外出機会がむしろ少なくなっていた。


カリフォルニア州では16歳になれば法律で車の運転が許されたのに、例外はジャーメインだけで、あとの者はずっとあとになるまで運転はさせてもらえなかったのである。


あたしたちを世間から隔離させておきたいという父の執念は、あたしたちの全生活にしつこくつきまとった。


70年代を家に留まされたあたしたちは、もう成人になっているのに専用の電話をひくことさえ許されなかった。


兄たちは、“モータウン・ベイビーズ”というグループと親しくしていたが、それはベリー・ゴーディの子どもやダイアナ・ロスの弟、それに他の会社の重役や芸能人の10代の子どもたちで結成されたグループだった。


マイケル、ランディ、マーロン、ジャネット、それにあたしの5人はいつも家に残されたが、それまで以上に互い結びつきは固くなった。


ときにはクラスの友だちを家に招待しようと思ったが、ジョーゼフが帰ってきたときに友だちがいたらどうしよう、大声で怒鳴っていたりわめいたりしたらどうしよう、誰かを叩いたらどうしよう、友達はそんなあたしたちのことを何と思うだろう-----------などと考え、いつも取り止めてしまうのだった。


ほかの子どもたちの目の前でバツの悪い思いをし、恥をかくのでは?と予想するだけで、心がひどく痛んだ。だからあたしはこれまで友だちは一人も持っていなかったし、このほうがいいのだと自分に信じ込ませるのも簡単だった。


ジャクソン5が40を超える都市を回った1971年夏のツアーが終わると、モータウンは12歳のマイケルの初めてのソロシングルで、ミリオンセラーとなった〈ゴッド・トゥ・ビー・ゼア〉を発売している。

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マイケルが他の兄弟たちの影を薄くしたことは否定のしようがなく、その天子童子ケルビム(てんしどうじ)のような顔は『ローリング・ストーン』他数々の雑誌の表紙を飾った。


普通の家庭だと、こういった一人だけが注目を浴びるようなことは嫉妬やライバル意識を生むものだが、ジャクソン家ではそんなことはなかった。


ティト―、ジャーメイン、特にジャッキーなど、マイケルがどうしてずば抜けて注目を集めるのか、みんなよく理解していた。


自分自身も素晴らしい歌手のジャッキーは、“マイケルが5歳の時からすでに自分たちのグループリーダーになるとはっきりわかっていたよ”、と当然のことのように人に話していた。


兄弟の中で最も音楽に献身的でしかもただひとり正式に音楽の勉強をしたティト―は、自分の在り方に自信を持っていた。

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ジャーメインも同様で、舞台ではソロで歌ったりマイケルとデュエットしたりしていた。


しかし、マーロンはこの再編成騒ぎの中で自分を見失いかけていた。ステージがないとき、彼はふざけ回ったりわざと目立つ行動をとったりしていた。



子どもは誰でもそうだろうが、彼も人から注目されたかっただけだった。ただ問題は、彼がマイケルとよく比較されたことである。


年も接近していたし、それに当時2人がよく似ていたせいもあったかもしれない。


マーロンが弟に対してライバル意識を持つのは避けられないことだったと思うが、母はこのことではいつもマーロンを叱っていた。



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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その9




インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第二章 その9


彼女はあたしたち全員にとって第二の母的存在となり、マイケルなどは毎年母の日になると、誰かが花を送ったかどうか確かめるほどになっている。

わずか1年の間にジャクソン5は4枚のアルバムを出し、その中の3枚はそれぞれ100万枚以上も売れ、何十回ものテレビショーに出演、近年にない新しい黒人グループの大スターになっていた。


自分たちやジョーゼフが心に描いていた、果てもなくとっぴな夢を遥かに超え、それを現実のものにしていた。1971年、5枚目のシングル〈ママズ・パール(ママの真珠)〉が2位になって間もなく、あたしたち家族は、ビバリーヒルズに引っ越した。

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(Frank sinatra)


近くにはフランク・シナトラのほか、マイケルにとって最高のアイドルであり、のちに自著の『ムーン・ウォーク』を捧げたフレッド・アステアが住んでいた。


伝説的なダンサーとしてしかその名前を知らず、当時72歳のその人が、ある日マイケルに会いたいと言ってきた。


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(Fred Astaire)


弟はろくに口もきけないくらいだった。アステア氏は、「よくジョギングしているところを見かけるよ」と言っていたそうだ。


マイケルはまるでふわふわ浮いたように帰ってきた。スターがすぐ近くに住んでいることで落ち着かない気分だったが、それからしばらく経つうちにまったく普通のことになってきた。
フレッド・アステアのマイケル賛辞の記事

ダイアナ・ロスに会うことは、あたしにとってまるで女王様にでも拝謁(はいえつ)しているような気分だった。


テレビの中のシュープリームスに見入りながら育ったあたしは、ダイアナこそはシックという言葉の化身だと思っていた。


初めて彼女がわが家に来たとき、その美しさが信じられないほどだったが、そのきゃしゃな体にもびっくりした。


同じように、マイケルが初めてスモーキー・ロビンソンに会った時のことを後で話してくれたが、彼の手について「ラトーヤ、本当に柔らかかったよ。信じられないほどだった」と驚いていた。


あたしたちは、男性の手というものはみな父の手のように堅いものだと思い込んでいたのだ。


考えてみると、人のたいして重要でもない小さな部分のことをしっかり覚えているなんて、まことにおかしな話である。


ビバリーヒルズの家は素晴らしく、プールやリハーサル用の大きな練習場もあった。しかし、丘の方から下りてくるガラガラ蛇が敷地の中にいっぱいいた。


ある日など、そのガラガラ蛇がプールサイドにいたマイケルに忍び寄ってきた。あわやというとき、運よくお客の一人が弟をプールへ突き落とし、それで命拾いしたようなものだった。


「ほら見なさい。ぜひとも引っ越すべきよ。こんなとこ、これ以上とてもいられない、危険すぎるわ」母は断言するように言った。


母は見かけは大人しく振舞っていたが、なかなか頑固なところがあった。新しい家を探すよう、ジョーゼフには半ば命令的に頼んでいた。


広くて、ビバリーヒルズであればいいという条件だったが、父には父の考えがあり、母の意見は無視された。



エンシノ郊外のサンフェルナンドバレ―に大きな邸宅を買った、と父がぶっきらぼうな口調で知らせたとき、母はがっかりしていた。


でも、それから20年以上たった今、母とジョーゼフはまだそこに住み、ヘイブンハースト大通りの家は家族の本拠地(ファミリー・センター)として残されている。


父がこの屋根の勾配がゆるい、モダンな牧場スタイルの家が気に入ったのは、およそ十万平方キロにわたって植えられたオレンジの木であった。


引っ越してきた頃には6つの寝室があったが、下の方は今までのようにジャネットとあたし、上の方はマイケル、ランディにマーロンと、2人か3人で1つの部屋を使っていた。


この広々とした屋敷には、離れになったゲストハウス、劇場、使用人部屋、プール、きれいに刈り込まれた庭、バスケット用とバトミントン用のコートなどがあった。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その10へ続く

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動画1972年パリ・オリンピアライブ

マイケルの14歳頃の歌声です。
紹介しているのが、ジェーン・バーキン!
可愛くて本当にナチュラル感が彼女らしい♪♪




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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その8


ヤング・マイケル・ジャクソン写真集 1974-1984 【初回限定版】


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第二章 その8


スキャンダルや子の認知訴訟などは、それが事実であろうが、なかろうが、それ自体が貴重な財産といえる彼らの清潔感あふれるイメージを、損なう恐れがあったのだ。


だが実際には、会社には心配すべきことなど何もなかった。両親は性について、一度も話してはくれなかったが、あたしたちは結婚を真剣に考えられる相手でなければデートはしないことにしていたくらいだから、性に対する価値観ははっきりと伝わっていた。


だから、兄弟たちが10代の後半までほとんどデートなどしなかったとしても、たいして驚くにはあたらないだろう。


ジャッキーには、18歳の時実際にガールフレンドがいたが、会えるのはわが家でだけ、それも1時間だけであった。


8時になると、ジョーゼフはその娘を追い払うようにして帰らせていた。ジャッキーとティト―がデートした何人かの女の子たちに、父はいい顔を見せなかった。


一人は黒人でないからといって嫌い、ほかの娘たちはみんな金目当てだ、と思っていた。


ジョーゼフが疑念を向けていたのは、金目当ての女の子たちだけではなかった。


父と母は、外部の人間はみなあまり信用していなかったが、それにはそれなりの理由があった。


数多くの若い芸能人が悲劇的な転落を遂げるのは、その指導監督にあたる人びとの先見性の無さである。


あたしの知っている例を挙げれば、ある人気グループのマネージャーは、管理がし易いということで麻薬を教えた。


また、適切な指導や教育が与えられず、同じ年齢の子どもたちよりはるかに知能が遅れているグループ、という例もある。


ある10代のグループをディナーに招待した時、前もってマネージャーから電話があり、ハンバーガーとホットドックのような手で食べられる料理をお願いします、大事なクライアントである彼らに恥をかかせたくないのです。と頼んできた。


銀のナイフやフォークなど、使い方さえ知らなかったのだ。こういった子どもたちが芸能人という仕事を辞めたとき、彼らを待ち受けているのは何だろう。


考えただけで残念な気がする。あとになってこういうことを考えてみると、大切な人格形成期にモータウンや、父があたしたちを守ってくれた積極的な姿勢は、きちんと評価するべきだという気になる。


芸能界に足を入れた不運なほかの子どもたちに比べると、ジャクソン5はその境遇下では最高の教育を受けていた。


ローズ・ファインという家庭教師がつけられ、巡業やテレビのリハーサルや録画録音など、仕事のある場所ではいつも一緒だった。


70年代の半ばだったが、あとになってランディとジャネットとあたしがコンサートにジョイントするようになると、彼女はあたしたちにも教えてくれた。みんな学年が違っていたので、一人一人についてそれぞれに授業の下調べをしていた。


毎朝、食事が終わるとあたしたちは先生の部屋に集まった。ファイン先生は本当に聖母マリアのような女性で、あたしたちがきちんと朝食をとったかどうか、いつも尋ねるのだった。


すると、たいていはジャーメインかランディが授業をサボるこの絶好の機会をすかさず捉えて、「ファイン先生、ぼくまだ朝ご飯を食べてないんです。ルーム・サービルで何か注文していいですか」と、さもしおらしそうに言いだすのだった。


「もちろんよ」と、先生の返事は、いつも決まっていたが、あたしたちほかの者はあきれたり、またかと思ったりして目玉をグリグリさせたものだった。


ファイン先生には、おなかを空かせた子どもに無理やり勉強させることなど、想像もできなかった。授業を受けている間、先生は机の周りを歩き、肩越しにのぞき込んでは質問に答えたりしていた。彼女はあたしたち全員にとって第二の母的存在となり、マイケルなどは毎年母の日になると、誰かが花を送ったかどうか確かめるほどになっている。



インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その9へ続く

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