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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その12

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その12


“ママ”の家は清らかで愛に満ちあふれ、まるで魔法の国にでも来たみたいだった。“ママ” と“パパ”は厳格だったが、わが家で味わっていたような、侮辱と残忍さを伴った厳しさではなかった。


テーブルの一つには、祖母が世界中から集めた、金属や木や陶器などでつくられた小さな人形が大事に飾られていた。


とても美しかった。あたしは手をうしろに組み、用心しいしい眺めていたが、マイケルはつい手に取ったり、投げ上げて空で受けたりせずにはおれず、たまに取り落してはお尻を叩かれていた。


ほかに“ママ”は、本物の占い用の水晶球を持っていた。マイケルとあたしは、この家に来る度にいつも覗き込んでは、いつかは世界中を旅行できますようにと願を掛けたものだった。


母が、“エホバの証人のものみの塔“に入ってからは、あたしたちは家でクリスマスを祝ったことがなかった。そこで、祖父と祖母はかわいそうに思い、あたしたちをクリスマスパーティに連れて行ったり、プレゼントやお小遣いをくれたりした。


これは母の宗教上の信仰に反することだったが、母はあたしたちの喜びようを見て許してくれた。


クリスマスのことは別として、“ジョーゼフ以外はみな”エホバの証人“の教えに従い、週に何回か王国会館の集会に参加した。そこで覚えたのは、バイブルは唯一神エホバの福音であり、エホバは唯一の宇宙の主権者であることだった。


ほかの福音伝道のプロテスタント運動に比べて、再臨説と呼ばれるこの教えは非常に厳しいものだ。


信奉者は神の福音を届けるために、“パンフレット”を携えて(たずさえて)家から家へと訪問しなければならない。


“ものみの塔”の信者は、現世は悪魔が支配しているが、最終的には黙示録に示された神と悪魔の戦いで、悪魔どもは亡ぼされる、と信じている。


そのときこそ、“残されし者”と呼ばれる真の信者、選ばれた14万4千人のエホバの証人たちだけが、イエス・キリストとともに神の王国に入るのである。


この信者は煙草を吸わず、誕生日や祝日(ユダヤ人の過ぎ越しの祝いにあたる、年1度の主の御食日(ロード・ミール)は除く)を祝わず、国旗敬礼や投票、軍隊や官公庁への勤務もなかった。


ホモ、人工中絶、博打、その他冒涜的(ぼうとくてき)な言動は罪と考えられ、酒はいいが酔ってはだめ、映画はいいが成人向けはだめ、ダンスはいいがパートナーに触れてはだめ、デートはいいが結婚前提でなければだめ、といった具合だった。


また、交際も同じ“エホバの証人”以外はだめで、こういった孤立主義的な信仰のあり方は、あたしたちを外の世界から隔離させておこうというジョーゼフの思惑と、実にうまい具合に合致したのだった。


母はこの“エホバの証人”への入信を、あたしたち自身で決心させるべきだと信じ、誰にも押しつけたりはしなかった。


あたしとマイケルのほか何人かが、あとで洗礼を受け、人生の大半を深くその教えに委ねてきた。結局はジャクソン家の人間は信仰を棄てたが、その道徳的な教訓はその後も影響を及ぼした。

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(ジョー&キャサリン)


8人の子どもでは、しだいに家計を保つのが苦しくなり、母はデパートのシアーズ・ローバックにレジとしてパートに出た。家族全員が、ジャッキー、ティト―、ジャーメイン、マーロン、そしてマイケルの才能を伸ばすことに懸命で、必要な楽器が手に入るのなら、ぜいたくなんかできなくても、だれも気にする者はいなかった。


最初のころ、近所の子どもたちは、いつも音楽のレッスンのため家に閉じこもっている5人をからかっていたが、やがてその同じ子どもたちが、あたしたちの家の前の芝生に座りこみ、5人の歌や演奏を聴くようになっていた。


父はまるでフットボールのコーチにでもなったように熱心に、兄弟たちの歌や、振りや、表現の仕方について、これ以上はないというところまで、磨きをかけようと練習させた。


また、刺激や励ましを与えようとして、R&Bのスターたち、オーチス・レディング、ジャッキー・ウィルソン、テンプテーションズ、スモーキー・ロビンソン、ミラクルズ、それにマイケルがすぐ覚えてしまったジェームズ・ブラウンのレコードを聞かせたりもした。



1965年頃、家から角を曲がったすぐ近くのローズベルト高校でタレント・コンテストがあり、兄弟たちは、“ジャクソン5”の名で出場、見事第一位を獲得した。


甘く美しいハーモニー、体を揺すりながらテンプテーションズ最新のヒット曲“マイ・ガール”を歌ったそのときのことを、あたしははっきりと覚えている。


家族全員が、その優勝に大喜びしながらもびっくりしていた。だって、他の出場者はほとんど年上の子ばっかりだったのだもの。


ジョーゼフにとって、まさにこれは転機というものだった。



インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその13へ続く

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Going to Go-Go / Away We Go-Go



The Temptations Sing Smokey


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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その11


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その11



「これで、勉強しなくちゃならん、とわかっただろう!」父のボクサーのような拳が、あたしの顔や体に何回も突き刺さる。あたしは泣き叫んだが、ついには目が晴れ上がり、開けられなくなってしまった。



「おべんきょうはしているのに、どうして、あたしのことをぶったりするの?」とあたしは思った。もちろん、そんなこと、ひと言だって口に出せるわけはなかった。


突然に怒りを爆発させた父は、おさまるのも突然だった。あたしの腕をぐっと取ると、廊下からバストイレまで引っ張って行き、あたしを語り床の上に乱暴に投げ出して去って行った。


熱い、涙にぬれた頬が、ゴツンと冷たいタイルに当たった。血が流れる脚の上に、重たい本が落ちてきた。


「ここにいろ!これを読むんだ!」
そんな声とともに、ドアがバタンと閉まった。


男の子たちが一人ずつ手洗いに入ってきた。あたしの傍らをそっと歩き、父がまたあたしを、自分を、いやみんなをぶちはしないかと恐れ、ひと言も声をかけなかった。


父はいつも、さらにひどい暴力を振るうかもしれないぞという、無言の脅迫であたしたちを支配していた。


それであたしたちは身動きもできず、間接的にしろ、父と共犯者にされていたのだ。


その夜、あたしは同じ場所に体を丸めて横になり、自分が人の目につかないほどちっぽけな、価値の無い人間のように感じていた。


母は泣き疲れて寝入ってしまったあたしを連れ出し、リービーの横に寝かせる前に、切り傷や打ち身のあとを、そっときれいにしてくれた。


きょうだいたちとあたしは、この恐怖に馴れてしまい、父の怒りの爆発には正当な“理由”があるんだ、と思うようになった。


だから、あたしは父を怒らせる何か大変悪いことをしたに違いない、と信じていた。どうしてそう信じてしまったのか、本当のところはわからなかった。

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父も母も、そういった無計画な罰の与え方について、決して説明はしてくれなかったからだ。子どもとは、自分の両親の行動を通じて、初めて世の中のことを学ぶものだからだ。


だから、親があたしの父のような抑制を失ったり、母のように従順すぎて無防備のままだったりすると、子どもは物事のありのままを見るのではなく、物事とはこうあるべきだ、としか考えられなくなってしまうのだ。

バストイレの床の上で、あたしはもうこれ以上、父にあたしをなぐる理由を与えないようにしよう、と誓った。


多分、あたしは父をうまく御することはできないだろうが、自分を抑えることによって、父の心を和らげることはできるだろう。

これは、多くの虐げられた子どもたちが身に付けた、自己破壊的な“政策”である。あたしはもう二度と、父を怒らせるようなことは決してすまい、と自分の心に約束した。


以来、あたしはクラスの中ではよく発言するようにしたが、家では台所の湯わかしのうしろの片隅で、何事も静かに見守っているようになった。


みんなを喜ばせようとそればかりを懸命に願い、どんなことがあろうと、誰ひとり怒らせまいとしていた。


「ラトーヤは、本当に良く出来た子だよ」と、母はまるであたしには非の打ちどころがないような口ぶりで言ったが、実のところ、あたしはそうするより他に道はないのだ、と思っていた。


ごく限られた程度だが、あたしの計画は功を奏した。尽きることのない精神的な暴力には非力だったが、ジョーゼフは二度とあたしに手を上げることはなかった。


そんなわけで、男の子たちは今でもあたしのことを“甘やかされ”と呼んでいる。しかし、言葉の暴力は、ぶたれるのと同じくらい痛いものだ。


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いや、ぶたれるのはいつかはとまるものだから、それ以上に堪えるのかもしれない。冷静で野卑(やひ=下品で洗練された感じのないこと)な言葉は、投げつけられたあとも長く、いくどとなく脳裏によみがえるものなのだ。


母の両親は、わが家では何か問題を抱えている、と感じ取っていたようだ。なぜなら、あたしたちが“ママ”と呼んでいた祖母のマーサは、いつも特別な配慮を示してくれたからである。


例えば、みんなに通学服を買ってくれたり、リービーのために、素晴らしいパーディドレスを見つけてきてくれたり、である。


ジョーゼフが「今度の週末は、おじいちゃんとおばあちゃんの家にいくぞ」と発表すると、あたしたちはいつも跳び上がって喜んだ。


二人は今もイースト・シカゴに住んでいるが、当時のあたしたちにすれば、どこかほかの世界に出かけるような気分だった。


“ママ”はケーキやパイやショートブレッドなどを焼いてくれたし、祖母の二度目の夫である“パパ”は、自分の経営する店からクッキーやポテトチップスを持ってきて、もてなしてくれた。


“ママ”の家は清らかで愛に満ちあふれ、まるで魔法の国にでも来たみたいだった。

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその12へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その10

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その10



そして当然のことながら、あたしたちは誰一人として、自衛のために父に反抗する勇気(無鉄砲と言ったほうがいいかしら)を奮い起こす者はいなかった。
ただ、マイケルだけは例外だったけれど。


母はマイケルが生まれて間もないころから、この子は“変わってる”と言っていた。歩き始めも、言葉を覚えるのも早かったし、年にしては大変起用だった。


母は子どもたちのことはなるべく自慢しないようにしていたが、マイケルのことだけは、「天才とまでは言いたくないけど、この子には何か特別のものが備わっているみたいだわ」と認めていた。


キラキラした目をし、いたずらっぽい微笑みを浮かべたマイケルは、まるでエネルギーの固まりのような、疲れ知らずのわんぱく坊主だった。


マイケルには生まれつきリーダー的な素質があったが、威張り散らしたりはしなかった。


毎朝、登校前に、近所の子どもたちがわが家のちっぽけな玄関に集まり、マイケルが現れて、その日みんなでどんな遊びをするのか発表してくれるのを待ち構えていたものだ。


なんでもかんでも「マイケル」「マイケル」で、小さいながらもその世界では、彼はすでに有名人であった。


また、そのころ、マイケルは兄弟の演奏や歌や振り、表現のあり方について、すでにはっきりした意見を持っていた。


プロモーションのための写真を撮るにしても、この6歳の子がみんなに、「オーケー、ジャッキー、ここに立って、そう、こんな感じ。ジャーメインはジャッキーのとなり、でもこんなふうに…」と、小さな可愛い声でポーズをつけ、それがまた細かいところまで実によく目が届くのだ。


母がよくステージ衣装を縫っていたが、例えばパープルのツーピーススーツとか、白いシャツに黒いパンツとかを見せにくると、ジャクソン5のそのいちばん下の子が、「これがいい!」と指さして、大声で決定を下したものだった。そして、それがいつもぴったりであった。

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マイケルは素晴らしく元気で、自信のある子で、あたしたちの中でジョーゼフに反抗していったのはマイケルだけだった。


父は怒るといつもすぐ手を上げたが、ほかの子どもたちは黙って立ち、体を固くしてただぶたれるのを待つだけだった。ところが、マイケルはさっさと逃げ出してしまうのだ。


「つかまえたら、承知せんぞ、コイツ!」とジョーゼフは怒鳴ったが、とてもつかまえられるものではなかった。


マイケルは足が速く、立ち止まってジョーゼフに靴を投げつけたりしても、追いつかれはしなかった。


マイケルは口応えもよくしたが、たとえそれでまたなぐられるようなことになっても、いつも最後にひとしきりまくし立てないと、気がすまないようだった。


あたしたちはびくびくして身をすくめながら、「マイクは優秀なのに、なぜいつも反抗するのをやめないんだろう。あれでは、自分で自分の首を締めているようなものなのにね」と、いつも不思議がった。


でも心の中ではあたしたち男の子も女の子もみんな、ひそかにマイケルの大胆不敵さに感嘆の声を上げていた。


6歳のとき、あたしは一生忘れられないほどの打撃を受けた。優等生だったあたしは、いつも通知表がもらえる日を楽しみにしていた。

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父のジョーゼフが褒めてくれるとしたら、この時ぐらいしかなかったからである。


午後も遅くなったある日、あたしは初めての通知表を手にして帰ってきた。母が仕事で留守だったので、まず父に見せた。


父はバリバリっと封筒を破り、ちらっと成績表を見、先生の批評に目を通した。「ラトーヤはお勉強の成績は優秀ですが、きちんと声を出してお話ができません。あと一年、同じクラスに残ったほうがよいと思われます」と、先生がそんなことを書いておられようとは、あたしには思いもよらないことであった。


ジョーゼフは通知表を置くと、いきなり、平手であたしの頬を打った。そして、「2度と、こんな恥ずかしい思いをさせるんじゃないぞ!」と叫んだ。


それからズボンのベルトをはずした。いつもベルトを、愛用の鞭として使っていたのだ。金属製のバックルとしなやかな小枝のような鞭が、あたしの膚を焼けるようにしびれさせる。


「いや、やめて、おねがい!」と泣き叫んだが、父はあたしの声など耳に入らないようであった。


今でも目を閉じると、あの時の父の顔が瞼に浮かんでくる。怒りに駆られると、いつも形相を変えていたあの顔だ。


目は文字通り怒りに燃えて黄色く光り、額が延びて頭の真ん中くらいまで後退したように見えた。この時ばかりは、まるでゴムマスクなしでモンスターに変身したようだった。


「二度と、こんな恥ずかしい思いをさせるんじゃないぞ!2度とするな!」と怒鳴りながら、父は激しい平手打ちを加えてきた。


「これで、勉強しなくちゃならん、とわかっただろう!」父のボクサーのような拳が、あたしの顔や体に何回も突き刺さる。あたしは泣き叫んだが、ついには目が晴れ上がり、開けられなくなってしまった。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその11へ続く
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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その9

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その9


どういう理由があろうと、母は絶対に父の行動を止めたり、声高に反対したりはしなかった。その代わり母は、父の留守の間は家の決まりをすこしゆるやかにし、父の卑劣な言行の埋め合わせをした。


ジョーゼフが仕事に出ているとき、母はあたしたちに外で遊ばせてくれたのである。


ただ、父が帰宅するまでに戻り、誰もこの違反行為を一言も漏らさないというのが条件だった。


あたしは、たいていは母とリービーといっしょに家にいることが多く、お医者さんごっこをしたり、バービー人形と遊んだり、母のお手伝いをしたりしていた。


そろそろ父が帰ってくるころになると、母はあたしを表に出し、男の子たちを探しに行かせた。


あたしは「ティト―!ジャーメイン!マイク!マーロン!みんな早く帰って!」と叫びながら、通りを走っていくのだった。


あたしには、誰かが父のお仕置きに合うなんて、想像するのも嫌だったのである。


毎日、父のビューイックが家の前に停まるのを待つのは、まるで台風の襲来にびくびくしながら備えているような気分だった。


ご機嫌か、怒りの爆発か。それは誰にもわからなかったが、どちらにしろ、あたしたちはびくびくしていた。


このがっちり根を下ろした恐怖感が、いつもあたしたちの表情を暗いものにしていた。


たいていの子どもたちが、無邪気に楽しく過ごしているとき、あたしたちはいつも浮かない顔をしていたのだ。


父に対する不信感は、いきおい他の人々への不信に繋がっていったが、きょうだいどうしや、もちろん母に対してだけは別であった。


あたしたちは、オレを尊敬しろというジョーゼフの言葉に、ただ従うほかなかった。でも、心の中では、父に対する真実の愛情など持てるわけがなかった。


今にして思えばずいぶん悲劇的なことだが、当時は、他の子どもたちもあたしたちと同じ生活をしているものと思い込んでいた。


あたしたちにとって、父親というイメージは冷たくて、意地の悪い存在で、母親とは温かく優しいものであった。

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ほかに判断のすべもなく、そんなものだと思っていた。ごくたまに他の子どもたちの家に遊びに行くことがあっても、そこの父親が帰ってくるとすぐさよならをした。


そんなときマイケルは、びくびくした目をこちらへ向け、「帰らなくちゃ!」といきなり叫ぶのだった。


みんなはあたしたちのことを、さぞかし変だと思ったことだろう。あたしたちが、他の家の父親たちと楽しく過ごせるようになったのは、ずっとずっと成長してからである。


男親が自分の子どもたちを可愛がっているのを初めて目にしたとき、あたしとマイケルは心の底からびっくりした。


家への帰り道、二人は大声で、「ねえねえ、見た?あの人、キスしたり抱き上げたりしていたわね、自分の子どもなのに!…」


「ほんと、気色悪いなあ!」
と、帰り着くまでしゃべり続けずにはおれなかった。


このめったにない愛と冷酷さが相半ばする家庭生活は、きょうだいたちとあたしの間に、並はずれて深い愛と相互理解を生み、そして育てた。


いわゆる“仲良し家族”の中でも、わが家はすごく変わっていたのだ。あたしたちがお互いに心を寄せあったのは、ジョーゼフが共通の敵だったからだ、というのは否定できない。


誰だって、愛する人が辱められたり(はずかしめられたり)、ぶたれたり、品位を汚されたりしているのを見たら、ひどく心を痛めるに違いない。


あたしたちも、みんな、母にならったように思う。つまり、優しい言葉や行動で、ジョーゼフ与えられた痛みをなぐさめ合っていたのだ。


爆発しやすい父の正確に反応して、ジャクソン家の子どもたちは概して物静かで、非常に優しい性格に育った。


お互いに感情を傷つけることを恐れ、子どもとはどんなものか少しでも知っている人には、とても普通とは思えないほどだった。


つい最近まで、あたしたちは大声を上げることさえめったになかった。どうしてもしなければならないときは別として、ボクシングもやらなかったし、遊び半分でさえ、人と争うようなことはしなかった。


どんな子どもにとっても大切なのは、自分が大事にされ、愛されていると感じていることだ。


しかし、あたしたちは、学校に上がるころまでには、父親から自信とか自負心とかいったものは粉みじんにされていた。


そして当然のことながら、あたしたちは誰一人として、自衛のために父に反抗する勇気(無鉄砲と言ったほうがいいかしら)を奮い起こす者はいなかった。


ただ、マイケルだけは例外だったけれど。

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその10へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その8

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その8


もっと悪かったのは、朝、目を覚ますと、観るも恐ろしい怪物が自分のすぐ顔の上におおいかぶさっていたこともあった。


あたしたちがキャーッと叫ぶと、ジョーゼフはパッとマスクをとり、人生、これに勝る楽しみはあろうかというふうに、大笑いに笑いこける。

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毎晩こんなことが続くと、あたしはシーツを頭からしっかりとかぶり、ゆっくりと体を揺すって心を和ませないと眠れないようになってしまった。


おかげで、あたしは今でも、そうしないと寝付けないようになっている。


そのころ、父はまさしくわが家のボスだった。母はめったに口出しはしなかったが、よく頭を振りながら、「ジョーゼフったら、ほんとにクレージーなんだから」と嘆いていた。


わが子が父を恐れるなんて、なんと可哀そだろうと、口には出さなくても母の目はそう語っていた。


しかし、そんな母の考え方や行動が普通ではないとわかったのは、何年もあとのことであった。


母が父の暴力を、すっかりあきらめて受け入れていたのは、母が愛情深い家庭に育ったことを考えるともっとわからなくなってしまう。父が間違っていることを、もちろん母は重々承知していた。


どういう理由があろうと、母は絶対に父の行動を止めたり、声高に反対したりはしなかった。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその9へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その7

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その7

趣味で始めたものが、すぐに仕事に変わっていった。学校が終わると、男の子たちは毎日厳しい練習に励んだ。まず母が指導し、夕食後は父が稽古をつけた。


父は絶対的な完璧性を要求し、めったに褒めず、いつも文句をつけ、よく手を上げた。


“ジャクソン5”として国中でセンセーションを巻き起こすずっと前には、彼らの呼び物は、当時のアイドル、ジャッキー・ウィルソンやジェームズ・ブラウンそっくりの踊り方であった。


居間に鞭を持って立った父の姿は、今も瞼に残っている。誰かがステップを踏み間違えると、バシッ!といくのである。


時には子どもに襲いかかるようにして、その子が息も絶え絶えになり、苦痛で体を折り曲げているのをそのまま、放っておいたりした。


母はそれを見て、「ジョー!こんなことって意味ないわ、もう止めて!この子たちは歌手になんてならなくてもいい!」と叫ぶのだった。


しかし、ジョーゼフは返事一つしなかった。翌朝には学校があることさえ念頭になく、5人組がへとへとになるまでリハーサルを止めなかった。


8時間ぶっ通しで、同じ音符、同じ歌詞、同じステップを、全員が完全に覚え込むまで、何度も何度も繰り返した。


「はい、ステップ・ディップ・ターン!はい、ステップ・ディップ・ターン!はい、ステップ・ディップ・ターン!(踏んで、沈んで、回って)・・・・」と。


8歳のマーロンはステップがなかなか覚えられず、しきりにぶたれていた。


ジョーゼフは、最初はマーロンをグループに入れたがらなかったが、母はかげでは「この子ったら、自分の右足と左足の区別さえつかないんだから…」と言いながらも、マーロンを入れるように言い張った。


そんなことがあったのに、マーロンはダンスをやめず、くたくたになるまで練習に励んでいた。


もちろん、現在では、マーロンは素晴らしい踊り手になっている。


父が最初に生まれた男の子のジャッキーにひたすら暴力をふるったことには、大した理由はなかったとあたしは思う。


あたしはよく母に、なぜジョーゼフはジャッキーを邪険(じゃけん)にするのか、と尋ねたものだった。


母の返事は決まっていた。「わからない、きっと相性が悪かったんでしょ」と、それで万事解決といったふうであった。


ジャクソン兄弟でも、ひときわ才能に恵まれていたこの兄は、子どものころは何度もダンスコンテストで優勝している。


若者に成長してからは、その温かい微笑や知的な褐色の目で、女の子たちに憧れの溜息をつかせたものだった。


ジャッキーは、マイケルと同じくらいのスーパー・スターになれる、生来の才能を持ちあわせていた、とあたしは信じている。


しかし、彼に加えられた精神的、肉体的な絶えざる暴力が、彼の才能を台無しにしてしまったのだ。


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父は自分の手だけでは苦痛を与え足りぬと思ったのか、息子たちにボクシングのグローブをはめさせ、互いに戦わせて喜んでいた。


そのうちに「よーし、ジャッキー、今度はティト―とやってみせろ」と、薄ら笑いを浮かべて言い、選ばれた二人が早く終わらせようと、嫌々ながらパンチを交しているのを、しきりにはやし立てながら観ているジョーゼフであった。


父のもう一つの気晴らしは、あたしたちを怖がらせることだった。あたしが覚えている限りでも、父は夜に子どもたちの部屋の窓にそっと忍び寄り、ガラスを叩いたり、泥棒の真似をして押し入ろうとしたりして、大喜びしていた。


誰かが様子を見に、背伸びして窓をのぞきに行くと、気味の悪いマスクを被った父が飛び出してきて、まるで野獣のように吠えるのだった。


あたしたちが恐怖の悲鳴を上げると、ジョーゼフはそれを見て大笑いするのだ。


それは軽い冗談とか遊び半分とか、ゲームといえるようなものでは決してなかった。いい年をした大の大人が、わざわざ自分の子どもたちをなぜ気を失いかねないほど怖がらせたのか、あたしにはとても理解できない。


もっと悪かったのは、朝、目を覚ますと、観るも恐ろしい怪物が自分のすぐ顔の上におおいかぶさっていたこともあった。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその8へ続く

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著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その6


ある日、起こるべきことが起きた。ティト―が弦を切ってしまったのである。「あー、どうしよう」と全員が泣きべそをかき、パニック状態に陥ってしまった。


「ジョーゼフが知ったら大変だぞ」誰かがぶたれるんだ。わが家では、罰を食らうとなったら一度やそこいらのビンタや、オシリ打ちでは済まなかった。


言いたくはないが、父はひどく暴力的で、ベルトでぶったり、平手打ちしたり、拳固でなぐったりしていたのだ。

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それからの午後のひととき、あたしたちはみんなびくびくしながら、時計ばかりを見守っていた。


ジョーゼフが帰ってくると、母はすぐ父をわきへ連れて行って言った。「子どもたちの一人がね、はずみでギターの弦を切ってしまったの…」


父は足音荒くクローゼットに歩み寄り、愛用のギターを取り出すと、切れた弦を指で触れながら吠えるように言った。


「いったい、どういうことなんだ、これは?」


母が、父の横からとりなすように言った。「ジョー、この子たちには才能があるのよ。それにティト―はギターが上手なの」


「そんなことは聞きたくない!」父の怒鳴り声が部屋中を震わせた。「ジョー、この子たち、ほんとに才能があるのよ。ほんとだったら」


父は思い直し、ギターをぐいっとティト―の手に押し付け、「よーし、何ができるか、やってみろ」と命じた。


ティト―は両の頬に涙を流しながら、おずおずとあるメロディを弾き始めた。と、ジョーゼフの硬かった表情が、ふっとゆるんできた。


妻の言葉は正しかったのだ。ティト―には確かに才能がある。それに、彼にはすぐ、ティト―だけでなく、子供たち全員が素晴らしい才能の持ち主だ、とわかったのだった。


特にマイケルだ。マイケルはまだヨチヨチ歩きのころ、鏡の前でジャーメインの歌や動きの真似をしているところを、母が目にしたことがあったほどだ。


それに、5歳のときには、幼稚園の発表会で「サウンド・オブ・ミュージック」の“クライム・エブリ・マウンテン”を歌い、生まれて初めての全員総立ちの大喝采(だいかっさい)を経験している。


やがて、そのマイケルとマーロン、ジャッキー、ジャーメイン、それにティトーの5人は、地元で演奏や歌を聞かせ始めた。


これは父のおかげだが、父は子どもたちの真剣さを認め、一人一人に新品の楽器一式を買い与えた。


ティトーにはギター、リードボーカルのジャーメインにはベースギター、そしてジャッキーにはマラカス、それにアンプとマイクロホンも揃えた。マーロンとマイケルは歌と踊り担当である。

趣味で始めたものが、すぐに仕事に変わっていった。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその7へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その5




インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン訳高橋伯夫


第一章  その5


母は実に見事な声の持ち主で、いちどは芸能界を目指したこともあったが、脚が悪いことを気にして思いあきらめたらしい。


母は、自分の父がカントリー・アンド・ウェスタンが好きだったせいで、ラジオ番組<ザ・グランド・オウル・オプリ>(※下部参照)を聴きながら大きくなった。


だから、母は今でもカントリー・スターのフロイド・クレイマーが大好きである。


そんなことからか、あたしたちは小さいころからハモって歌うのがとても上手だった。それは自然に身についた才能で、父がぶらっと工場から帰ってくるたびに、母は興奮しながらよくいったものだった。


「ジョーゼフ、この子たちったら、信じられないほどすてきなハーモニーで歌えるのよ。それが完璧なの、ほんとにびっくりしちゃう」


たいていの父親だったら、せめて喜んだふりをし、よし、じゃ聞いてみるか、ぐらいは言ってくれたかもしれない。


ところが、父はまるで興味を示さなかった。父はもともと物静かな口数の少ない男で、叱ったりからかったりするとき以外は、まるで子どもなどいないように振る舞っていた。


あたしの記憶では、母はあたしをいつも特別扱いにしてくれていたようだ。お金こそあまりなかったが、母はあたしに美しいドレスを着せ、レースの飾りのついた靴下やピカピカのエナメル靴をはかせたりして、いかにも女の子らしく飾り立てては喜んでいた。


いつだったか、あたしはすごく悲しい気分で学校から帰ってきたことがある。


何人か子どもたちが、あたしのことを“ゴージャス”と呼んだからだった。そんな言葉はそれまで聞いたこともなかったので、からかわれたとばかり思っていた。


辞書で調べてみて意味がわかってから、すっかり気分が良くなったけど……。(luxurious 豪華、快適の意。アメリカでは豪華、ぜいたくをネガティブに意味しない、良い意味)


そんなふうに誰かにからかわれたりしたとき、母はいつも
「気にすることはないのよ。ママもいつも、あなたぐらいの時は同じだったんだから」と言ってはなぐさめてくれた。


母とあたしはいろんな点でよく似ている。感じやすく、潔癖で(もっとも、9人も子どもを生んで少しは母も変わったけど)、学校ではオール5の優等生だった。


母と同じように、あたしも大人になったら看護婦さんになるんだ、と思っていたし、祖父も、「ラトーヤ、お前はほんとにケイトに似ているね」とよく言っていた。


あたしは母を尊敬し、母が大好きだったので、そう言われるととてもうれしかった。あたしの目には、母のすることは間違いなんてないように映っていたのだ。


男兄弟に関して言えば、あたしは世界一ラッキーな女の子だと言っていいだろう。あたしはみんなの友だちであり、何でも打ち明けられるほど信頼されてもいた。


リービーは何歳も年上だったし、ジャネットはうんと年下だった。男兄弟にしたら、あたしが家の中でただ一人の女の子だったのだ。


昔も今も、みな言うことのないジェントルマンで、心やさしく思いやりがあり、あたしのことをまるでプリンセスみたいに扱ってくれた。


最年長のジャッキーは無口で、思慮深く、まじめな性格だった。運動神経は抜群で、十代のころ、家の裏の野球場で、シカゴ・ホワイトソックスにスカウトされたほどである。


チャンスが与えられていたら、間違いなくプロになっていただろうが、高校を卒業するころにはすでに音楽が最上のものになっていた。


それに、家族を見捨てて自分だけ別な道に進むなど、とても考えられなかったのだ。


ティト―は父ゆずりの釣り上った眉毛と、がっしりした体の持ち主で、ジャッキーと同じく物静かで、頭が切れて、機械いじりに夢中になっていた。


まだ小さいころ母のミシンの使い方を覚え、あとになって、母を手伝って、“ジャクソン5”のステージ衣装を縫ったりしていた。


可愛い手づくりのプレゼントをもらい、あたしはいつもびっくりした。「ほら、ラトーヤ、これはきみのだよ」と言いながら、バービー人形の新しい着せ換え衣装を手渡したりしてくれたものだった。


ティト―はまもなく模型飛行機や車のプラモデルづくりから卒業し、どんなふうに動くか調べようと、テレビやラジオ、はては洗濯機までバラバラに分解することに熱中しはじめた。


もちろん、父のジョーゼフが家に帰ってくるまでには、それぞれ元通りにしてはあったが。


ジャーメインは4番目の子だったが、どちらかというと家族のリーダー的な存在だった。


人をからかうことが大好きで、食事の最中、あたしのデザートが欲しくなると、いつもその上から「ハーッ」と息を吹きかけるのだった。


あたしが必ず悲鳴を上げ、皿を押しやるとわかっていたからだ。また、よく口いっぱいに食べ物をつめこみ、クチャクチャやりながら「ラトーヤ」と叫び、あたしのほうに口を大きく開けて見せたりするのだった。


ジャーメインは、ただ楽しみたいだけに、いつも何かやらかそうとしていた。他の家の子どもたちに比べると、あたしたちは大人しくて礼儀正しい方だったが、ジャーメインはハキハキと言いたいことを言い、自説を曲げない性格だった。


頑固なところがあり、学校にも行きたくなくて、一日中クローゼットの中に隠れていたこともあった。


3年半の間に生まれたジャーメイン、ティト―、ジャッキーの3人は、そのころいちばん仲が良く、寝室の窓をこっそり抜け出して、バスケットボールをやったり、クローゼットにしまってあるジョーゼフのギターを、そっとのぞき見したりしていた。


これだけは触ったり弾いたりしてはいけないと、厳しく言いつけられていたギターだった。


でも母は、あたしたちがいつも閉じ込められてばかりいるのを可哀相に思い、「わかっているわね、大切に扱うのよ」と注意しながら、時にはそのギターをクローゼットから取り出すことを許してくれた。


3人の中では、ティト―がレコードやラジオで聴く歌によく通じていた、特に上手にギターを弾くことができた。


ある日、起こるべきことが起きた。ティト―が弦を切ってしまったのである。

その6へ続く


(グランド・オール・オプリは、ナッシュヴィルのダウンタウンの、National Life & Accident Insurance Companyという保険会社に新しく作られた第5スタジオでスタートした。[1] 最初のショウの演奏者は当時77歳のフィドル演奏者、アンクル・ジミー・トンプソンだった。アナウンサーは番組のディレクターでもあったジョージ・D・ヘイ、別名「The Solemn Old Judge(ソロモンの老判事)」。彼はこの時30歳でしかも判事ではなかったが、シカゴの通信会社シアーズ・ローバックが所有するラジオ局WLS [2] で1924年4月に開始されたフィドルとスクエアダンスの番組、「National Barn Dance(全米バーン・ダンス)」ですでに人気を博しており、この分野のパイオニアだった。

初期にレギュラー出演していたバンドには、ポッサム・ハンターズ、フルート・ジャー・ドリンカーズ、クルーク・ブラザース&グリー・ジャンパーズなどがいた。彼らは順番に演奏したが、しかしヘイ判事はフルート・ジャー・ドリンカーズがお気に入りで、いつも毎回番組の最後を締める「red hot fiddle playing」のコーナーにもう一度登場させた。ヘイ判事は、開始当初から出演者を田舎風の愛称で呼び、女性にはあごひものついた帽子にエプロン、男性にはオーバーオールにチェック柄のシャツを着せて、農場にいるかのような演出をつけた。Wikipedia

family latoya


ラトーヤ ウクライナ、キエフでマイケルへの賞を受け取る

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ラトーヤはマイケルの代わりに、ウクライナ、キエフのマイケル・ジャクソンの大ファンの人からの賞を受け取りました。

ラトーヤ53歳!?この可愛らしさとほっそりとした体形はまさに、マイケルの姉!

素晴らしいですよね~こんないかしてる53歳もいてないです~。

動画受賞時こちら

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その4

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その4


それなのに、父ジョーゼフは、あたしたちが他人の子どもたちと交わることを許さなかった。両親は、あたしたちの将来は教育と勤勉、そして厳しい躾にかかっていると信じ込んでいた。


ほかの親たちは、できるだけのことは家庭でしてやり、あとは、どんな悪影響が待ち受けているかもしれない世の中に送り出し、子どもたちが最善を尽くすのを祈るばかりである。


ところが父は、子どもをそんな運にまかせるようなことはしなかった。父は自分の家庭を世間から遠ざけ、わが家だけを自分たちの世界にしたかったのだ。


まだ未熟な子を守りたいという親の心はよく理解できるが、父ジョーゼフのやり方は極端すぎたと言える。


ジャクソン家の子どもたちは、誰一人として甘やかされたことはなかった。


ウィークデーの朝は、父が仕事に起き、足音高く家中を回って子どもたちを起こす5時に始まった。


あたしたちは寝ぼけ眼でベッドから降り、決められた家の仕事に取りかかった。


「わたしが働いているんだから、子どもたちだって働かなくちゃいかんのだ」と、父はそんな理屈を言っていた。


ひどく天気が悪いときでも、父は男の子たちに命じて表の落ち葉かきや雪かきをさせたり、大して意味のない仕事、たとえば煉瓦を積み重ねたり、くずしたりする仕事を、登校前にさせたりするのだった。

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いちばん年上だったリービーは、第二の母の役目を引き受けて下の子どもたちの面倒を見、残りのあたしたちは交代で食器洗いやアイロンがけ、それに掃除である。


あたしの仕事の一つは、母の料理の手伝いだった。父に言わせると、「おまえは女で、女の居場所は台所だ。だから、コーンブレッドの作り方を習っといたほうがいいんだぞ」となるからだった。


そこで、あたしはマフィンやコーンスティック用の鍋に、オイルを塗ったりしていたわけだった。


でも、子どものころ無理やりに覚えさせられたことなんて、大人になってみるとすっかり忘れているとは、まことに皮肉なものである。


現在のあたしには、たとえ食べなければ死んでしまうと言われたって、コーンブレッドひとつ料理できないだろう。


朝食の後、着換えて歯みがきをすませると、あたしたちは言われるまま背の順に、ちいちゃな階段みたいな形に並んだ。


母は歯のチェック、父はそのあとを自分の部隊を閲兵(えっぺい)する将軍のように歩き、子どもたちの口のなかにスプーン一杯の肝油を含ませてやるのだった。


それから母が、その嫌なひどい味を消すために、リンゴを配ってくれた。なぜだかわからないがあたしは肝油がうまく呑み込めず、いつも「ペッ」と吐きだしたものだが、そうすると父が笑いながらあたしの口を力づくで開け、またスプーンを押し込むのである。


そんなとき父は、そんな子どもの災難に、何だかサディスティックな喜びを感じているに違いないように思えた。思いやりや優しさなんて、ひとかけらも無い人のように目に映った。


学校が終わると、すぐ帰宅することになっていた。クラスの友だちとおしゃべりしたり、家に遊びに行ったりもできなかった。驚かれるかもしれないが、正直言ってつい最近まで、友だちがいなかったことを残念に思ったりはしなかった。


あたしが一人っ子だったとしたら、また話は違っていただろうけど、兄弟は多かったし、周囲ではいつも何かしら起こっていたので、ちっとも寂しいことはなかったのである。


あたしたちは外に出ることを禁じられていたので、ひまがあれば、母の考案したゲームを楽しんだり、母が教えてくれた歌を歌ったりしていた。


”ユー・アー・マイ・サン・シャイン“ ”コットン・フィールド“ ”ダニー・ボーイ“、それにハリー・ベラフォンテの歌など、ずいぶんたくさん教えられたものだ。


母は実に見事な声の持ち主で、いちどは芸能界を目指したこともあったが、脚が悪いことを気にして思いあきらめたらしい。


★★★こんな風に厳しかったから、ジャクソンファミリーは若い時から、ドラッグ、セックス、アルコールにおぼれなかったんでしょうね…


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその5へ続く

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