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ラトーヤ・ジャクソンごく最近の様子

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BOA Steakhouseでお食事をコメディアンのエディ・グリフィンと…
どこの BOA だろう? サンタモニカかな、ウエストハリウッドかな?

ラトーヤはとても芸能界は交友範囲が広いので、彼女がいろんなこと知っているかもしれませんね、特にマイケルのこと…
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独裁者ジョーゼフラトーヤ自伝第一章よりその3

latoya blog1
(マイケルがドイツで表彰された時のラトーヤ画像)

この時の記事はコチラ

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その3



父ジョーゼフは、子どもたちは常に自分のものであり、その子どもたちを支え、守ってやれるのは自分だけである、と感じていたかったに違いない。


父は、日中はインランド・スチール社の製鋼工場でクレーンを動かしていたが、実は本職のミュージシャンになるのが夢だった。ジャズから黒人のリズム・アンド・ブルースまで、好みは大変広かったが、R&Bは、エレクトリック・ブルース発祥の地、シカゴ周辺の生活から自然発生的に生まれた音楽である。


1950年代の初め、ジョーゼフは兄弟でファルコンズ(“ユーア・ソウ・ファイン”で有名なファルコンズではない)というR&Bのバンドを組み、週末毎に近くの大学やナイトクラブで演奏した。


父たちがプロのミュージシャンとして続けていたら、あるいは前途洋々だったかもしれないが、それは誰にもわからない。50年代には、あたしたち子どもが一年に一人ずつ生まれてきていたのだから、父は結局は、バンドをやめなくてはならなかったのである。


しかし、父は音楽を愛することまでは決してやめなかった。今でも素晴らしい歌手だし、20年ほど楽器など手にしたことはないようだが、弾かせれば一流のブルースギタリストである。


あたしたちきょうだいは、時におふざけ半分で、自分たちの才能はどこからきたのだろう、などと言い合ったりすることがある。


歌は母ゆずりだと、これはみんな納得するのだが、踊りの才能となると誰にも説明が付かない。父ゆずりではないことは確かで、母も子どもでも諭すように「あなた、リズムが合ってないわよ」といつも言っていた。


それは事実で、父は音楽に合わせて指を鳴らしたり、手を打ったりするのだが、そのリズムははずれてしまうのである。


あたしが生まれて初めて病院からわが家へ連れて行かれたとき、ジャクソン家はすでに四人の子どもたちがいた。モーリン・レイレット(リービー)、ジグマンド・エッコー(ジャッキー)、トリアノ・アダリル(ティト)、ジャーメイン・ラジュアン(ジャーメイン)である。


変わった名前への母の好みは、ラトーヤ・イバン・ジャクソンというあたしの名が最後だった。(ラトーヤは母の造語で、実にいい名だと母は強調している)


その後生まれた四人は、まあまあ普通の名をつけてもらった。マーロン・ディビッド、マイケル・ジョーゼフ(あたしたちはいつもマイクと呼んでいる)、スティーブン・ランダル(ランディ)、それにジャネット・ダミタ・ジョーである。


十人目の子ブランドンはマーロンと双生児だったが、生まれて間もなく死んでしまった。母は子どもたちを自分の命とも思っていたが、父はどうひいき目にみても母とは違っていた。生まれた子を抱くために、病院にさえ来ようとしなかったのである。


ゲイリー市にあったわが家は、小さくて、家具もない質素な平家だった。寝室は二部屋しかなく、一つを男の子たちが、一つを両親が使った。小部屋(アルコープ)のついた居間にはあたしとリービーが寝たが、その他に浴室、食堂、台所、そして狭いながら庭があった。


簡素で何の特徴もない家だったが、あたしたちは快適に暮らし、貧乏だとも恵まれない生活だとも感じなかった。


モータウン・レコード社は、後年、“ジャクソン・ファミリー伝説”というのを考え出したけれど、それは間違いで、あたしたちが住んでいたところは黒人居住地区のスラム街、ゲットーではなかった。


ゲイリーは北部製鋼産業の都市で、戦後のにわか景気で南部からの沢山の黒人が流れ込んできた。


市当局は、あたしたちが住んでいた地区のように、清潔で快適な住環境がご自慢だった。あたしたちの学校友だちの父兄には、弁護士や教師、それにブルーカラー族の肉体労働者がいたのである。


それなのに、父ジョーゼフは、あたしたちが他人の子どもたちと交わることを許さなかった。両親は、あたしたちの将来は教育と勤勉、そして厳しい躾にかかっていると信じ込んでいた。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその4続く


小さいときから、独裁者のような父に育てられたおかげで、ドラッグやアルコール中毒にならずに済んだのかもしれないですよね。
そして、マイケルキッズだって、「この子たちのようにしつけのきちんとできた子どもはみたことがない」とたくさんの人が言いますものね…

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その2

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー 第一章  その2


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章 その2


ポリオのせいで母は自意識過剰となり、男の子に対しても引っ込み思案になった。だから、ジョーゼフ・ジャクソンという校内一のハンサムボーイとの、まさに最初のロマンスに、ひとりひそかに胸を高鳴らせていたのだった。


やがて1949年、2人は結婚した。実家から東に4~5キロ、同じインディアナ州のゲイリーで新居を持った。ゲイリーはミシガン湖南岸の製鉄都市である。


おかしなことにこの両親がどんなふうに出会い、恋に落ちたのか、二人ともめったに語ってはくれない。


たいていの子どもは、その種の家族物語はうんざりするほど聞かされるものなのに、わが家ではそんなことはなかった。


たとえばマイケルが自伝『ムーン・ウォーク』を書いていた時、マイケルとあたしは、母にそのあたりのことを、話してくれと何回も頼んだものだった。


「お母さんの話、ぼくの本に必要なんだよ」とマイケルは頼み込んだけれど、母はいつも何とか言って話をはぐらかしてしまった。


そんなわけで、あたしばかりでなく、誰にとっても、父ジョーゼフは実に謎多き人物であり続けているのだ。


わかっていることを書くことにしよう。
父はアーカンソーのいなかで、サミュエルとクリスタリー・ジャクソンの間に生まれ、40年代の終わりにイースト・シカゴに移って来た。


父の父は、当時の南部の黒人としては珍しく、際立った成績でミシシッピー州立あるコーン大学を卒業、そのあと高校の教師をつとめていた。


母のクリスタリーは生来の美しさと魅力にあふれた女性で、彼の生徒の一人であった。クリスタリーの母は、浮気っぽい娘も結婚したら落ち着くのではないかと思い、父親ほどにも年齢の離れたサミュエルに嫁がせたのだった。


ジョーゼフは、三男一女の長男であった。そのセクシーな笑顔、きりっとした眉、淡い赤毛とエメラルドグリーンの目は、女の子たちが言う“キャッチ”、つまり「すてきな結婚相手」としての憧れの的であった。


女の子たちがさかんに言い寄ったが、彼は振り向きもしなかった。「あの子は一人でいるのが好きだった。友だちもいなかったし、また、欲しいとも思わなかったのさ」と祖母が言っていたのを覚えている。


サミュエルとクリスタリーは離婚し、それぞれに別人と再婚、そして離婚、さらに二度目の結婚……とめまぐるしいほどだ。


クリスタリーは街を出歩くのが好きで、父は弟たちや妹の世話に追われ、少年時代を犠牲にしている。


以前に叔父から聞いた話だが、自分の母が夫以外の男たちといるのを見て、父は怒りと苦々しさを味わい、そんな母に関する近所の噂話を耳にして、すごくはずかしい思いをしたとのことである。


言うまでもないことだが、育ち盛りの一少年にとっての、理想的な、情愛あふれる環境とは遥かにかけ離れたものであった。


学校を出ると、ジョーゼフは一時プロボクサーとなり、怖いもの知らずのファイターとして地元で評判をとったことがある。


肩幅が広く、背は180センチを超え、力も非常に強かった。子供のころの、父に関する思い出は数えるほどしかないが、そのひとつは、父が四つん這いになり、その背中にわれわれ子どもたちがよじ登った思い出である。


あたしたちが互いにつかまりながらキャッキャッ笑っていると、父は「どうだ、お父さんは家族全部を運べるんだぞ」と自慢したものである。


ささやかな思い出のようだが、この思い出は、父があたしたちにどんな眼差しを注いでいたかを、たくさん語りかけているように思えるのだ。


父ジョーゼフは、子どもたちは常に自分のものであり、その子どもたちを支え、守ってやれるのは自分だけである、と感じていたかったに違いない。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその3へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その1ゲーリーの家特訓開始

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン訳高橋伯夫


第一章  その1

「みんな、すぐ起きるんだ、さぁ」
闇の中で目を開けると、父の足音が聞こえてきた。兄弟5人で使っている隣の部屋に向かって、その足音が大股に近づいてくる。


あたしといっしょにソファーベッドで寝ている姉のリービーは、ぐっすり眠っているが、あたしはいつもそんな父の大声で目を覚ましてしまう。


もう真夜中過ぎだというのに、父はそんなことにはお構いない。彼の頭の中には、ただ、ジャッキー、ティト―、ジャーメイン、マーロン、そしてマイケルという5人の息子たちを起こし、着替えさせ、パフォーマンスの準備をさせることしかないのだ。


「さぁ、やろうぜ。お前たちを見たいって方々をお連れしたんだ」
壁越しに、寝具がすれる音や、マイケルとマーロンが二段ベッドから、身軽に床に飛び降りる音が聞こえた。


やがて、ティト―とジャーメインが耳障りな音をたててギターのチューニングを始め、アンプのパチパチはじけるような音が家じゅうに響き渡った。


そして、演奏と歌が始まった。リードヴォーカルはジャーメインかマイケルのどちらかで、4人の歌声が鮮やかにハモった。


目は開けなくても、あたしには手に取るようにその情景が想像できた。練習通りの完璧なダンスステップ、居間のソファーから送られる称賛の拍手、そして、眠たくて早くベッドに戻りたいのに、きちんと行儀よくおじぎをしている彼ら…。


ひょっとしたら、5人の中の一人ぐらい、「どうして、こんなこと、ぼくたちにさせるんだろう」と、ちょっぴりぼやいたかもしれない。


いや、でも、そんなことはたぶんなかっただろうと思う。


玄関のドアが閉まり、車がブルンと音をたて、ジャクソン通りの小さなわが家は、再び暗くなり、元の静寂に戻るのだった。


人はよくあたしに質問する。ジャクソン・ファミリーの一員として育ったことを、どう思うかと。


信じられないかもしれないが、ごく普通の家庭と少しも変わらないと思う。情愛に満ちた母がいて、よく働く父がいて、そして子どもたち-------------。人生の大半を、あたしはそう信じて送ってきた。


母は今でもジャクソン家の中心人物であり、小柄な体と物静かな身ごなしには、深い内的な強さが秘められている。


母はキャサリン・スクルージーといい、アラバマ州のラッセル郡で、マーサ・アップショーとプリンス・スクルージーの間に生まれた。


あたしたちはプリンス・スクルージーを「ダディ」と呼び、実際の父のことは子どもらしく「ダッド」や「ポプ」「パパ」ではなく、ファースト・ネームで「ジョーゼフ」と呼んでいた。


祖父はあの快適な設備の寝台車、客車である特別仕様のプルマン車両のポーターだったが、アイロンのきいた制服に身を固めたときの、威厳に満ちたすてきな姿は今もよく覚えている。


ちっちゃな女の子だったころ、あたしはその祖父のベストとズボンのポケットの間にかけられた金鎖から垂れている、これも金の懐中時計に、うっとりと見入ったものだった。


まだ子どものあたしには、もちろん、ポーターというものがどんな仕事をしているのか、実際には何もわからなかった。


でも、“ダディ”はいつも誇らし気に見えるので、大変重要な仕事をしているのだろうと思っていた。


母が、両親や妹のハッティとインディアナ州のイースト・シカゴに移ってきたのは、うんと若いころであった。


母はみんなからケイトと呼ばれたが、幼少期にポリオにかかり、祖父はその治療のため毎日のように母を連れて病院を往復した。


まだポリオの治療法もワクチンもなかった1930年代のことである。母が生き残ったのは実に幸運であった。


プリンスとマーサ、つまり祖父と祖母は間もなく離婚し、のちにそれぞれ再婚したが、母はそんな両親のどちらとも仲が良かった。


母方の祖父母から母が受け継いだもの、それは愛と勇気であった、とあたしは思っている。


母の目は、褐色で、東洋風にちょっと吊り上がったエキゾチックな形をしていた。


頬骨がすっきりとしていて柔らかな、いかにも女らしい容貌で、人が振り返るほど美しかった。


少女時代、母は固定装具(ビールス?ブレース?)をつけたり、松葉杖で歩いたりしていたが、世間ではビールスが伝染すると恐れられていたので、周りの子どもたちは容赦なく母を嘲るのであった。


そんな子どもたちも、母の妹のハッティにつかまったら大変で、必ず仕返しをされた。


ハッティはしとやかな母とは正反対に、すごくお転婆だったのだ。こうした経験は、母の心を深く傷つけたに違いない。母は、当時のことをあまり話したがらないのである。


ポリオのせいで母は自意識過剰となり、男の子に対しても引っ込み思案になった。だから、ジョーゼフ・ジャクソンという校内一のハンサムボーイとの、まさに最初のロマンスに、ひとりひそかに胸を高鳴らせていたのだった。

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その2へ続く

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マイケル、ラトーヤ、ジャネットインタビュー??




これはなかなか面白いんです。
ユーチューブへどうぞ

本田美奈子、バブルス、ラトーヤ、マイケル1987年

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1987年、本田美奈子、バブルス、ラトーヤ、マイケルがセッションをした時のもの。

みな、いきいきしていましたね。

インサイド・ザ・ジャクソンファミリー著者ラトーヤ・ジャクソンまえがき2

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン訳高橋伯夫

1より続く

父と母は、一人の例外を除き、子どもたちはみないつかは家を離れていくものだと思い定めていました。例外だった一人、それがあたしでした。


あたしは母のいちばんの友だちでしたし、子どもの中でいちばん物静かで、恥ずかしがり屋で、最も従順な子でした。


そのあたしが家を出たのですから、誰もがビックリしました。あたしは欠陥家族の基本ルールを破ったのです。


つまり、虚偽の生活、破壊ゲームを楽しませる話に別れを告げたのでした。


家族の反応は早く、しかもさまざまでした。はじめのころは、ヘイブンハーストのジャクソン家に帰ってくれと涙ながらの嘆願だったのに、あとでは、あたしのマネージャーや家族づきあいをしていたジャック・ゴードンに対して、暴力的な脅迫をほのめかすに至りました。


1989年、あたしのことが『プレイボーイ』誌の記事になった時は、家庭内に口論のあらしが呼び起こされ、現在もその名残が吹き荒れています。


きょうだいの何人かは、かげからそっと愛情をもって応援してくれましたが、ほかの何人かは、マスコミを通じて悪意に満ちた攻撃を加えてきました。


一人など、あたしが麻薬を常用しているとか何とか、それに似た嘘を並べ立て、あたしを非難しました。もちろん、恥知らずの根も葉もない偽りです。


深く愛し合っている人たちが、どうして互いに傷つけ合わなければならないのか、あたしには想像もつきませんでした。でも、今では分かっています。


善悪は別として、両親の背後に隠れて言い合いするのは、あたしたちのような育てられ方をした子供たちに特有の性質だそうですね。


その後、おどしや中傷などでは、この本の出版を思いとどまらせ、家に引き戻すことができないと知ると、何が何でもあたしが翻意するように仕向けてきました。


成功こそしなかったものの、二度も子供を誘拐されそうになって悩んだあげく、この本の出版があたしや家族にどんな意味を持つのか、もう一度、じっくり考えなおしてみなければならなくなったのです。


そうです、あたしが本の出版を思いあきらめ、両親の心を和らげることができれば、両親はどんなにか喜んだことでしょう。


でも、実社会のことを経験すればするほど、父親が子供たちをおどしたり、母親が罪深い偽りの愛で子供たちを縛り付けたりするのは異状なことだと、ますます実感するようになったのです。


家庭内での親の愛情というものは、ヒットレコードを何枚もだしたとか、いつまでも可愛らしい子どもでいてあげるとかいった、単純でバカげた基準で量ったり、決められたりするものではないでしょう。


3年前に家を出て以来、あたしは何度もきょうだいたちに連絡を取ろうとしました。


皮肉なことに、あたしたちは自分自身の苦痛には目をつむって、虐げられている子どもたちを救う運動に深くかかわっているのです。


一人の、同じ虐げられた子どもとして、これまでに身にしみてわかってきたのは、あたしはジャクソン家の9人の中の一人ではなく、何百万人という子どもたちの一人だということです。


虐待の影響を克服するには、苦痛を伴い、長い努力が必要です。でも、その克服への道は、まず“真実”という第一歩から踏み出さなくてはなりません。


あたしを本から遠ざけようという家族の猛烈な攻撃は、徹底してやろうというあたしの決心をますます強固にするだけでした。


弟のマイケルは、「夢は実現するものだよ」といつも言っていましたが、それと自分に力があってこそ可能というものでしょう。



きょうだいたち、みんなへ-----。
みんなのことは心から本当に愛しています。この本は、書かなくてはならないものだから書きました。あたしたちの子どもたちや、そのまた子どもたちが、あたしたちと同じような苦しみを味わわなくてすむように、という願いからです。


この目的さえ達したら、何もかもが、これまで苦労してきた甲斐があるというものです。こんなことがあったあとは、いつもみんなで話だけはしていて、実際には出来なかったこと、本当の家族になることが可能になるかもしれませんね。これからはただ、実行あるのみだと思っています。

     ラトーヤ
1990年、ロンドンにて

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー著者ラトーヤ・ジャクソンまえがき1

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン訳高橋伯夫


まえがき

あたしが本を書くと世に知れてほぼ3年、あたしの家族からすればどうしても皆さんに読んでほしくない本が、やっと出来上がりました。


この自伝を書き始めたころは、いま皆さんが手にしておられるこの本が、こんな内容のものになろうとは思ってもみませんでした。


ところが、いざ書き始めてみると、これまで知らなかった家族の本当の姿がわかり、その真実を知るにつれて、さまざまな出来事を書かずにはおれなくなってきたのです。


男の子6人と女の子2人、それにあたしを加えた9人が、世間の荒波から守られながら育ったことなど書いたところで、ジャクソン一家の真の姿は描かれないのです。


人びとは、あたしたち一家の名声や財産だけに目がいって、あたしたちが多かれ少なかれ、世間の人々とは違ったよい生活を送っている、と思っています。


でも実際は違います。まだ幼いころも、有名になって生活が変わってからも、あたしたちきょうだいは、尋常一様な生活は送っていないのです。


あたしたちはどこにでもある家族と違って、典型的な欠陥家族でした。確かに愛情や幸福感も味わいましたが、感情に走った肉体上の虐待、気まぐれ、家族を家族と思わない行為などが、そんな思いを押しつぶしていました。


20代の終わり、あたしがついに家を離れたときには、よく言われるように、“篭の鳥”が解放されたような気分でした。家族の集合写真の中から一人抜け出したようにして、家族の姿を初めてはっきり見ることができたのです。


家族全員がわが家の実態を知っているけれど、その事実を自ら進んで認めようとしているのは、どうやらあたし一人だけだとわかりました。


これまでずっと、あたしたち兄弟姉妹のうちの誰一人として、わが家でどんなことが起こっていたか、改めて問題にしようとする者はいませんでした。


どうしてそんなことができたでしょう。わが家でどんなことが起こっていたか、改めて問題にしようとする者はいませんでした。


愛や信頼、人間関係、善悪の区別などについての子供の考え方は、親の言動によって形成されていくものです。

母は、あたしが“ものみの塔”の信仰に入るのを禁じたほどですから、その愛と献身は表面だけのものだったでしょうし、父は怒りのほか感情表現の出来ない人で、愛を装った罪深い行動や、“しつけ”と称する暴力、忠誠という名の盲目的な服従を強いることなどで、あたしたち子どもをがんじがらめにしてしまったのです。


心理学的に言っても、子どものあたしたちは無力です。両親の力があまりにも強大だったので、一人の子が情容赦なくぶたれたり、手ひどいはずかしめを受けたりしているのを、他の8人の子は、敷いて反抗する気持ちもなく、黙って大人しく見守っているよりなかったのです。


はっきりと感じていたわけではないのですが、わが家にはどこか間違っているところがありました。きょうだいのほとんどは、どうしても“謀反”を起こしたくて、さっさと10代結婚し、家を出て行きました。これには両親も賛成でした。というのも、子供たちが家を出て行くのは、今の家庭生活が嫌だからではなく、愛のためだと、自分に思い込ませたかったからでした。


父と母は、一人の例外を除き、子どもたちはみないつかは家を離れていくものと思い定めていました。例外だった一人、それがあたしでした。


あたしは母の一番の友だちでしたし、子どもたちの中でいちばん物静かで、はずかしがり屋で、最も従順な子でした。


そのあたしが家を出たのですから、誰もがびっくりしました。あたしは欠陥家族の基本ルールを破ったのです。つまり、虚偽の生活、破壊ゲームを楽しませる生活に、別れを告げたのでした。


家族の反応は早く、しかもさまざまでした。
まえがき2へ続く…

「インサイド・ザ・ジャクソンファミリー」ラトーヤ・ジャクソンお勧めの書籍

La Toya Growing Up in the Jackson Family



インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン訳高橋伯夫


マイケル・ジャクソンと同じく、ラトーヤ・ジャクソンについても歪められ間違って伝わっているかもしれない…


そして、唯一冊あった「インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー」。
この書籍を見つけ、私は一気に読み終えました。


驚くほど、率直にファミリーやマイケルの、プライベートな内容が書かれていました。期待を裏切り、とてもよい本でした。そして私は、ラトーヤ・ジャクソン、彼女を理解していなかったということが分かりました。


彼女はモチロン、ジャクソン・ファミリーの一員であり、自らもアーティストであり、マイケルの信頼する実姉です。それゆえの苦しみ、苦悩がありありと記されています。


またやはり、この一員ならではの素晴らしい才能が感じられる文筆で(※この書籍は再版されていません)きっとマイケルの意外な一面を発見することになると思います。

私はラトーヤ・ジャクソンが大好きなりました。

管理人より
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