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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その1

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫




第二章 その1


ゲイリーのわが家で、あたしたちがいちばん気に入っていた玩具は、ビューマスターという双眼鏡を平らにしたような立体ビューアだった。


ボール紙製の枠がある透明で四角なディスクを押し入れ、プラスチックのレバーを引くと場面が変わるというものだ。


カシャッ!とやるたびに、パリ、ニューヨーク、ロンドン、アフリカ、そのほかエキゾチックでカラフルなパノラマが現れ、「おお!」とか「ああ!」とか嘆声をあげながら、マイケルやリビーやあたしたちは、何時間もそれで遊んだものだった。

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(ビューマスターとリール)

中でも、夢のようにステキだったのが、ハリウッドだった。椰子の木やパステルカラーのビルたちが、まるで手招きでもしているように目に映った。


「考えられる?すごい太陽!」とあたし。
「ほんとだ!それにあの海!あんなところに住めたら、とは思わないかい?」とマイケル。


「待ちきれないわ。明日にでも飛んで行きたい」

マイケルが、いかにも彼らしい確信に満ちた口調で言った。

「いつだって夢は見られるよ、ラトーヤ!そして、その夢もほんとになるよ。でも自分でほんとにしなきゃね」


ジャクソン5がモータウンのオーディションを受けて以来、いろいろなことが次々に起こり、早すぎて全部は消化しきれないほどだった。


まず最初に、ベリー・ゴーディがデトロイトにあるヨーロピアンスタイルの豪華な邸宅で彼らを祝う会員制のパーティを開き、そこで演奏を披露するよう招いてくれた。


その三階建の建物には、大理石、フレスコ画、彫像など、兄弟たちがこれまで目にしたこともない備品、調度品が満ちていた。


さらに信じられない思いをしたのは、彼らがレコードを通じて学び、敬愛してきたスターたちが、その“聴衆”の中に大勢姿を見せていたことだ。


そのうえダイアナ・ロスは、ジャッキー、ティト、ジャーメイン、マーロン、そしてマイケルと、一人ひとりの頬にキスまでしてくれたのだ。

1973diana ross michael
(ダイアナ・ロス)

モータウン最大のスターであるダイアナは、シュープリームスから離れて、年末にはソロの道を歩くのだが、ジャクソン5と名前を結びつけるとPR効果上からも賢明で、そのほうが両者とも世間の注目を浴びると会社はわかっていた。


パーティ席上、ジャクソン5に最も熱烈な声援を送ったのは、ほかならぬベリー自身であった。デトロイト出身の作詞作曲家で、ヒットソングを聴きわける神秘的ともいえる鋭い耳の持ち主の彼は、家族から集めたわずか800ドルの資金をもとにアメリカ最大の黒人オーナーの会社を創り上げ、1960年の初めまでには独力で一大富豪になった人物である。


あたしの父と同じく、努力、訓練、忠誠心、それに家族の大切さといったものを信じていた。


そして自分の周囲にいるアーチストやプロデューサー、ライターなどを、単なる従業員ではなく家族同様に考えていた。


家族ぐるみで芸人になっているジャクソン5が、これも家族同様に動いている会社のモータウンと結びついたことは、思えば実に不思議な偶然の一致である。


しかし、彼らが契約を交わした1969年の初めころまでには、同じレコード会社の下にという緊密な気持ちの繋がりは、しだいに淡くなってきていた。


社内に生じた対立、経済的な不公平感、また、芸能人にありがちな個人問題での悩みなどのせいである。


そんな社内の空気だったから、彼らのような若さ、無邪気さ、そしてひたむきな熱気は温かく迎え入れられた。


たぶん彼らは1950年代の終わりから1960年代の初めにかけての出来事を、ベリーに思い出させたのだろう。


その時代、ベリーは、スモーキー・ロビンソンをはじめ、ミラクルズ、マーヴィン・ゲイ、シュープリームス、テンプテーションズ、スティービー・ワンダー、マーサ・リーヴズ、ヴァンデラスほか、数え切れないほどの伝説的なスターを見出し、そして育て上げてきたのだった。



これはあとからわかることだが、ジャクソン5は、今は老いたモータウンの組織から現れる、最後のスターだったのである。


ベリー成功の秘訣は、自分の直感力に熱烈な信頼を抱いて行動し、しかもそれで素晴らしい結果を得たことだった。


ベリーはジャクソン5に個人的にも積極的な興味を持ち、「誓って、きみたちを世界最大級のスターにしてみせる、本にも書かれるようにしてあげる」と言っていた。


また、ヒット曲を3本出すと予言し、それを実現させるべく大構想のラフプランを練ったりもしていた。


まず第一段階は、モータウン本社を移転させようとしているロサンゼルスに、ジャクソン5を連れていくことだった。


彼らは、ビバリーヒルズにあった文字通り隣りどうしのベリーとダイアナの家に、かわるがわる住むことになった。そのとき、父が一緒だったかどうかは、ハッキリ覚えていない。

0412diana ross
(ベリーとダイアナと)

子どもはいつも手の届くところにいるもの、と思い込んでいた母が心配したのは当然で、「あの子たち、何をしているの?今はだれのところにいるんですか?その人たち、いい人かどうか、わかるの?」など、長距離電話で父に尋ねていた。


「大丈夫だよ、あの子たちに悪いことなど、起こるわけがないじゃないか」と父は安心させるように答えていた。


母はそんな言葉を聞くと、しばらくは心配も薄らぐのだが、あたしたち子どもが全員で一つの屋根の下で再び暮らし始めるまで、完全に心が安らぐことはなかった。


今でも、子どもたちが一人でも遠い所に住んでいると思うと、いたたまれなくなるらしい。


インディアナでは、残されたものはみんな、男たちがいなくて大変寂しかった。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その2へ続く

まさにモータウンと二人三脚の結束で大成功への階段をかけあがっていくのですね。何度読んでもワクワクしてしまう私です(苦笑)。

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(1973年ダイアナとジャクソン5)

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その2

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第二章 その2


インディアナでは、残されたものはみんな、男たちがいなくて大変寂しかった。あたしにとって彼らは親友同然だったので、特に寂しい思いをした。


電話や手紙が待ち遠しくてならなかった。例えばこんな手紙だ。「ここは本当に素晴らしいところです。みんなで海の見えるところまで行きました。明日、今度は海岸まで行きます。太陽の光がいっぱいで、信じられないくらいです。それに椰子の木!まるで、ビューマスターで見たのとそっくりなんです」
(初めての海のことがライフ誌に掲載されているのはコチラ

0414jackson5 motown0412


ゲイリーのわが家は、まさしく空っぽ同様に思えたのに、今リビーも家を出てしまった。理由は深く知らないが、リビーは家を出て、家族ぐるみで交際していた友人と暮らし始めたのだった。



やがて彼女は、11歳のころから知っていた、“エホバの証人”の信者、ナサニエル・ブラウンと結婚し、布教のためともにケンタッキーへと移っていった。


18歳になったばかりのリビーは、法律でも許される限り早く結婚することで、新しい家族の在り方を教えてくれたのである。


それから20年経った今も、リビーがナサニエルを愛していることは確かだが、結婚とは、リビーにとって黙って耐えてはいられなかった家族情況から逃げ出せる、何よりの手段を提供するものであったのだろう。


でも、あたしたちはみんなわかっている。人は誰でも両親のいる家から離れることはできても、その手の届かないところへは決して行けないものだと。


兄弟たちがロサンゼルスにいる間は、ベリーとダイアナが親代わりになった。電話をかけてくる時は決まって、「ぼくたち、とってもよくしてもらっている」と言っていた。

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ベリーは実の親とはまったく違う、自由を愛するパパだったが、「したいことは何でもしていい。欲しいものは何でもあげよう。食べたいものも、何でも食べていい。ただ、後片付けはきちんとしろよ」と言い聞かせていた。


ダイアナは実の母のような心づかいで彼らを見守ってくれ、夜など、まだ小さいマイケルやマーロンを、ベッドに連れて行ってくれたりもした。


ご想像のとおり、ジョーゼフにとっては、自分の持つ絶対的な権威をすてるなど、決してできないことだった。


モータウンは事実上あらゆる面でアーチストの仕事を管理していたが、ジョーゼフには決して認めることのできない範囲があった。


一方では協力しながら、ジョーゼフはモータウンに、ジャクソン5はベリーの誇るべき新星かもしれないが、彼らは他でもない自分の息子たちであること、自分が代理人のリチャード・アーロンとともに、息子たちのマネージャーであることを忘れさせはしなかった。


モータウンはジャクソン5のサウンドやイメージに磨きをかける必要があると判断し、新しいサウンドを創ることにした。


モータウンを世界的なレベルにまで押し上げたものは、ポップスとソウルを混合させたそのユニークなスタイルだった。


モータウンのタレントに関する限り、そのレコードづくりのダイナミックなやり方から、ステージ衣装のエレガントぶりに至るまで、すべて質の高いコマーシャル基準と、細部にわたるこまやかな配慮が反映されていた。


ベリーが3本のヒット曲を約束した時、彼はソウルとポップス両チャートでのヒットを考えていた。


彼の会社は、誰の胸にもアピールする伝染力の強いサウンドづくりで、“若きアメリカの歌を!”というモットーを貫いてきた。


だが、いま彼が考えているのは、特に黒人にファンを持つ、モータウンの伝統的なリズム&ブルースのサウンドとはまったく異質のものだった。


ベリーのー、“モータウンU”はジャーナリズムでもよく取り上げられていたが、かつて、アーチストたちがすべるような踊り方をはじめテーブルマナーまで学んだそのシステムは、1969年にはもうなくなっていた。

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そのかわりにベリーは、新しいアシスタントとして20代前半の魅力的なブルーネットの女性、スーザン・デパセを起用し、ジャクソン5の教育を一任した。スーザンは、起きている時間はすべてジャクソン5のために費やしているように見えた。


彼女が最初に与えたアドバイスは、「あなたたちは子どもだけど、大人の世界で生きているのよ。このことだけはわかってね」だった。
彼女のマイケルのことを語ったのはスザンヌ・デパセインタビュー

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その3へ続く

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(追悼式の時のベリー・ゴーディとスザンヌ・デ・パッセ)

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その3

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫




第二章 その3


この言葉は、それからの10年間、彼らの少年時代がどのように過ぎていったかを、ずばり要約していると思う。


考えてみると、あんなに若い女性が、どんなに行儀いい兄弟だったとはいえ、元気いっぱいのまだ未熟な5人の男の子たちを、よくぞあんなにうまく操縦できたものだと、ただただ驚いてしまう。


スーザンは、彼らのダンスステップや舞台表現が完璧なものになるよう、あらゆる手助けをした。当時の彼らは、ふた回り以上も年上の芸人たちより、多分、何時間も練習し、舞台にも立っただろう。


でもモータウンでは、わが家でもそうだったように、うまくなろうとすればまだまだ努力しなければならないことが沢山あった。


1969年8月、ダイアナ・ロスは、ビバリーヒルズで最も豪華といわれているディスコのなかの一つだったデイジーで、ジャクソン5を正式にデビューさせた。


電報によって送られた招待文には、


「ジャクソン5がデビューします。わずか8歳(実際は当時10歳)のリードボーカルのマイケル・ジャクソンには、きっとびっくりさせられることでしょう。どうぞ、このモータウンのすばらしい新グループの歌を聴いてください」


と書かれてあった。続いて彼らは、ロサンゼルス・フォーラムでダイアナとシュープリームスの前座をつとめ、10月には人気のテレビバラエティーショー番組〈ハリウッド・パレス〉に出演したが、このときもダイアナがジャクソン5を披露した。


(*ハリウッド・パレスは、1964年に始まったショー番組。主に俳優が出演していた。ディーン・マーティン、フランク・シナトラ、ラクエル・ウェルチ、ジュディ・ガーランドなど。後に1964年6月3日ローリング・ストーンズ、1969年10月14日ジャクソン5が出演したが、翌年2月に番組は終わった。)

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(上左からディーク・リチャーズ、ベリー・ゴーディ、フレディー・ペレン、フォンス・マイゼル)

その月、モータウンはジャクソン5のデビュー曲〈アイ・フォント・ユー・バッグ帰ってほしいの〉を発表した。


初めてこの曲を聴いたとき、あたしはなんてすばらしい歌だろう、もう立派なプロのサウンドだと思ったが、母は失望し、「私の息子たちにはもっと才能があるのに、どうしてあんなふうにしたんだろう、もっと上手に聞かせられるはずなのに」と不満を口にしていた。


母はいっぱしの音楽評論家だったのだ。兄弟たちの仕事をうまく勧めていくという面では父の功績は大いに認めていたが、ステージ衣装のいい悪いからPR写真の質のことまで、母はいつも厳しく目を光らせていた。


彼らにとって何かよくないと思われることがあると、はっきりとそう言い、みんなもその言葉はよく聞いた。


〈アイ・ウォント・ユー・バッグ〉は、初期に出したジャクソン5のヒット曲がほとんどそうだったように、ベリーの最新ブレーン集団が創り出したものだった。


この集団は、作詞家兼プロデューサーのフレディー・ペレン、フォンス・マイゼル、ディーク・リチャーズ、それにベリー自身が加わった4人による正式の別会社組織になっていた。


(*フレディー・ペレンは、「サタデー・ナイト・フィーバー」でグラミー受賞している、ボーイズⅡメンも手掛けて有名、2004年12月に死去)
(*フォンス・マイゼルはたぶんミゼル・ブラザーズと同一か。ミラクルズのアルバム貢献がある)
(*ディーク・リチャーズは、シュープリームス、ボビー・ダーリン、などを手掛けている)


ジャクソン5のその初期のレコードには決まった型があって、ファンキーでイキのいいリズムセクションの、重量感あふれる音の重なりになめらかなストリングスがかぶさり、その真ん中からマイケルのボーカルがくっきりと浮かび上がってくる、というのが特徴だった。


5人の声にもそれぞれ特長があり、スライとファミリーストーンのようなスタイルで、ハモって混声になっても、混声から飛び出してあるフレーズをソロで歌わせてもよかった。


マイケルは高音のリードボーカルで、ジャッキーは天使みたいな裏声(ファルセット)、ジャーメインはちょっとかすれたテナー、ティト―は堂々たる低音、そしてマーロンは若さあふれるテナーだった。


〈帰ってほしいの〉では、特に彼らのきらめくような才能が発揮され、1970年1月には着実にベストワンまで駆け上がった。


まもなく、ジャクソン一家は全員が一緒に住むことになった。8人がまたいっしょになれるなんて、ほんとに素晴らしいことだった。


最初はハリウッドヒルズにある大きな家に落ち着いたが、向かいに俳優のディック・ヴァン・パテンズ一家が住んでいて、あたしたちはすぐいい友達になった。

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(左、フレディー・ペレン)

母は、セックスや麻薬類にルーズなハリウッドの空気のことを気にかけていた。あたしたちが白人の子と仲良くするのにもいい顔はしなかったが、そんな態度はクリスチャンとしてとるべきものではないと思う。


それに、そのあたりは白人専用地区みたいなもので、仲良くしようにも黒人などほとんど住んでいなかった。



インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その4へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その4




インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第二章 その4


それに、そのあたりは白人専用地区みたいなもので、仲良くしようにも黒人などほとんど住んでいなかった。


父も母も、ハリウッドとか芸能界とかいうものは、大体があたしたちを近づけてはいけない“悪所”だと思い込んでいた。


だから、住む場所はまるっきり変わったけど、たとえどんな家に住もうと、わが家の生活はインディアナ時代とまるで変わらず、それからもずっと同じ生活が続くように思えた。


ぶったりいじめたりが日常のことになり、あたしとしては、そんなことは考えないように努めるほかなかった。


ベリー・ゴーディは3枚のシングルを連続ヒットさせると約束していたが、それはジャクソン5のアピール力を過小評価した、というものだった。


彼らは、〈帰ってほしいの〉に続いて、〈ABC〉、〈ザ・ラブ・ユー・セイブ〉(小さな経験)、それに初めてのバラード〈アイル・ビー・ゼア〉と4曲も大ヒットを飛ばし、モータウン空前のベストセラーシングルを記録、わずか10カ月の間に600万枚という、気の遠くなるような数字のレコードが売れたのだった。

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マイケルがその驚異的なソロ活動を開始して以来、そのために、ジャッキー、ティト―、ジャーメイン、マーロン、マイケルと5人によるジャクソン5がどんなに得難く、素晴らしい存在だったか、忘れてしまった人が多いようだ。


『ライフ』誌は「黒人少年の成功」と彼らを称賛し、『ルック』誌は、「レコード界最人気のニューグループ、10時にはもうおやすみ(これは本当!)」の見出しつきで、彼らのプロフィールを紹介していた。


彼らの曲の中には子どもっぽいテーマのものもあり、マイケルがあまりに幼かったこともあって、評論連中は彼らの歌に“バブルガム(子供向け)ソウル”とレッテルを貼っていた。


しかし、ジャクソン5がそのまま活動を続け、マイケルがさらに年をとって声に深みがでれば、当代きってのソウルシンガーのひとりとして誉めそやされていたことだろうし、ジャクソン5も、テンプテーションズやフォートップスほかの、ソウルの大物たちのライバルとして大いに称賛を浴びていたに違いない。


〈帰ってほしいの〉の発売後数週間で、兄弟たちは、1950年代なかばの人気グループ、フランキー・ライモン&ティーンネイジャーズ以来初めての、黒人ティーン(10代前もいたが)アイドルとして世に躍り出た。

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(*フランキー・ライモンは黒人ティーンエイジャーとして優れたアーティストだった。ダイアナ・ロス、スモーキー・ロビンソンなどが影響を受けたと彼の名を挙げている。1968年薬物依存で亡くなった、25歳だった。)


そのジャクソン5出現のおかげで黒人音楽ファンのための雑誌に存在理由(レゾンデートル)が与えられ、早くも何冊かが創刊された。


(*レゾンデートル=フランス語、存在意義の意)
(*黒人音楽雑誌では「Wax Poetics」などがその代表)

何年間も、毎月毎月、何ページにもわたってジャクソン5の記事が扱われ、彼らは何が好きか、嫌いかとか、彼らのピンナップ用カラー写真とか、星占いとか、圧倒的に多い女性読者への、「ジャクソン5に会うとき、どう振る舞えばいいか」についての役に立つ助言とか、時には半分以上がそんな記事で埋められた号もあった。


ビートルズと同じように、ジャクソン5の一人一人にも明確な個性が表れていた。ハンサムでスポーツマンのジャッキー、まじめで物静か、練達(れんたつ)のミュージシャンであるティト―、グループのセックスシンボル、ジャーメイン、可愛らしい弟マーロン、それにカリスマ性を備えた天才児マイケル、といった具合である。


モータウンのオフィスには、ファンレターでふくれ上がった無数の袋や、学校で撮った写真、ぬいぐるみの動物などがあふれかえっていた。


家の電話も朝から晩まで鳴りっぱなしだったが、それらの主はみな、いわゆるジャクソンマニアと呼ばれる人々であった。


彼らが若くしてスターダムにのし上がったことは、マスコミにまたとない題材を提供し、メジャーの全国紙も揃って彼らのことをメイン記事に取り上げた。


彼らが一家族だけによるグループだったので、マスコミはまるでジャクソン一家全員が芸能人であるように見ていた。


リポーターやカメラマンがいつも家に侵入し、なんとかしてジャクソン一家の秘密を解き明かそうと躍起になっていた。


麻薬常習や乱交、10代の犯行などが世に騒がれていたその時代、ジャクソン夫婦の優良児教育法は、アメリカ国民関心の的になっていたのだ。


どの雑誌にも、決まって兄弟たちの礼儀正しさ、きちんとした生活、そして深い家族愛が取り上げられていた。


母はいつも優しく穏やかで、いかにも信心家らしく書かれていた。父は優しい優れた指導者として描かれ、“少年たちの新しい人気を守り立てるべく”とか“がっちりとした手を差し伸べて”とかある記事には書いてあった。確かに暴力を振るう“がっちりとした手”だった。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その5へ続く

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こちらはフランキー・ライモン&ティーンネイジャーズの動画。
ジャクソン5とすごく似ています。



(フランキー・ライモン&ティーンネイジャーズ)

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その5




インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第二章 その5


母はいつも優しく穏やかで、いかにも信心家らしく書かれていた。父は優しい優れた指導者として描かれ、“少年たちの新しい人気を守り立てるべく”とか“がっちりとした手を差し伸べて”とかある記事には書いてあった。確かに暴力を振るう“がっちりとした手”だった。


当時書かれていたことは、少々説明は必要だがだいたいのところは真実だった。


ジャクソン家のサクセスストーリーは、確かに古いタイプのアメリカンドリーム物語には違いなかったが、モータウンはあたしたちの家族に関して、“赤貧から大金持ちへ”スタイルのお伽話をでっち上げた。


その結果、世の人々は、あたしたちが犯罪の多いゲットーか、それよりもっと悪い環境で育ったと信じるようになった。


両親はあたしたちにできるだけいい生活をさせたいと一心に働いていたので、母はよく、「どうしてゲットーに住んでいた、なんて言うんでしょうね。いったいいつ住んでいたって言うの?」と言っていた。


しかし、広報担当の人たちは、あたしたちが貧しい家族の出身であることを強調すれば、ほかの大勢の黒人の子どもたちもきっと勇気づけられると信じていた。


兄弟たちはリポーターが質問しそうな事項への答えを教えられ、インタビューに答える練習までさせられていた。


最初から広報担当のチーフであったボブ・ジョーンズは、「宗教と政治に関する質問はしないでください」とジャーナリストたちに注意していた。


子どもたちに暴力をふるう家族だという事実のほか、あたしたちの家族には隠すべきことなど何もなかった。

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それに、真新しいわが家で幸福そうにポーズをとっているあたしたち10人の姿を見たら、だれが子どもをいじめるといった話など信じただろうか。


ジャッキー、ティト―、マイケルと同じく、あたしも生まれつきの恥ずかしがり屋だった。


それが、兄弟たちの名声から否応なく発する眩しい光の中で、あたしはますます内気になっていった。


カリフォルニアの新しい学校で友だちをつくることが、急に億劫になってきた。


ジャクソン5の姉や妹だからといって、特別の関心を寄せたり、扱い方をしたりすることは、決してしてほしくなかった。今だってそうである。


そして、ただジャクソン5に会いたいがために、さも友だちらしい振りをされるのも嫌いだった。


それで長い間、あたしは自分があのジャクソン家の一人だということは、誰にもひと言だって打ち明けなかった。


しかし、マイケルとマーロンはあたしと同じ学校に通っていたので、なかなかそうもいかなかった。


今でも覚えているが、兄弟の中のどちらかが廊下を通りかかると、あたしと同じクラスの女の子たちはいつも「キャーッ」と叫び、


「ねえねえ、マーロン見た?」
「彼って、すっごーく可愛いい!」
「マイケル、こっち見てくれないかな?」

など騒いだものだった。


あたしは、みんなと一緒に夢中になっているふりはしていたものの、だれかが「あらっ、ジャクソンってあなたの兄弟じゃないの?」と不審そうに尋ねると、「ううん、名前だってわからないわ」と答えたものだった。


とうとう女の子たちの何人かに、あたしが彼らの姉であることが知れてしまった。


彼女らはすごく腹を立て、ある日の放課後、あたしをひどい目にあわせた。騒ぎが大きくなり、あたしたちはとうとう普通の公立校にはいられなくなって、私立校に転校させられてしまった。


有名人(この場合は5人だけど)と親戚関係にあると、その人がどのくらい偉大で有名なのか、なかなか実感できないものだ。


あたしにとっては、ジャッキーもティト―もジャーメインも、そしてマーロンやマイケルも、ただのごく普通の男の子たちだった。


家の中ではいつもどおりいっしょに歌をうたったり、互いにふざけ合ったりしていた。


彼らのことは大好きだったが、時にはぞっとするほど嫌な連中だと思うこともあった。


そんな気持ちを感じたのは、アメリカ広しといえど、多分あたし一人だけではないだろうか。


1970年の6月、あたしたちは彼らのロサンゼルス・フォーラムでのコンサートを見に行った。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その6へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章 その6


ヤング・マイケル・ジャクソン写真集 1974-1984 【初回限定版】


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(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第二章 その6



1970年の6月、あたしたちは彼らのロサンゼルス・フォーラムでのコンサートを見に行った。


18000人のティーンエイジャーたちと、10代前の子どもたち(中には親と来ているものもいた)が、ジャクソン5に向かって興奮して金切り声をあげていた。


あたしは周りを見回して、「この人たち、みんなあたしの兄弟たちのために?」と信じられない思いとともに彼らに対する深い尊敬と恐れを感じたのだった。


5人がステージを踏んだ瞬間、狂乱の嵐が吹き荒れ始め、いつまでも止まらなかった。


彼らがステージに姿を現したとき、彼らがモータウンでの“磨き”をかけられて以来、あまりにも大きな変貌を遂げているのにびっくりした。


今や彼らは、ちりちりのアフロヘアーに、これまで見たこともないような派手で猛烈なコスチュームを、これ見よがしに身に着けていた。

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ヒラヒラ飾りのついたベスト、ピカピカした色のシャツとベルボトムパンツ、ひざまであるブーツに飾り帯、そしてティト―にはベレー帽という具合である。


例えばテンプテーションズなどとは違い、みんなそれぞれにマッチした舞台衣装を着て一人一人が個性を出していたので、あたしは大いに気に入った。


みんな、最高に素晴らしかった。彼らと大群衆が化学反応を起こし、会場全体に火がついたようだった。


ダンスの動きは速く、激しく、女の子たちの悲鳴から判断するに、すごくセクシーだった。


彼らが腰を突き出し、マイケルが小さなジェームズ・ブラウンのように膝をつくたびに、キャーッという叫び声がいまにも客席をぶち壊さんばかりだった。


失神したりうわごとを言ったりしている女の子を、医療班員が次々とストレッチャーに乗せ、大急ぎで通路を行ったり来たりしていた。


ショーが終わりかけると、何百人もの子どもたちが舞台めがけて突進し、警護員連中は一時パニック状態だった。


しかし警護員は馴れたもので、あっという間に5人を舞台からビルの外に連れ出してリムジンの中に送り込み、ファンの大部分は彼らが去ってしまったことにさえ気づかずいるのだった。


ジャクソン5の急激な人気上昇に乗じて、モータウンは1970年の終わりまで、彼らを全国のアリーナやスタジアムでの巡業に出した。

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(ビル・ブレイとマイケル)

兄弟の安全が気づかわれたので、警護員を強化しなければならず、家族の負担で元警察官のビル・ブレイという人を雇い、警備スタッフの長にした。
(*ビル・ブレイ氏は2005年11月15日亡くなっています、マイケルにとって第二の父であったという、ビル・プレイ氏の記事はこちらへ


コンサートの数日前になると、ビルは現地の町に飛び、会場の警備体制を調べた。


警察とも連絡を取り、街の突っ張り少年や暴走族たちの動き、人種差別的な不安など、兄弟たちに危険が及びそうな事項はすべてチェックした。


ある町など、対立する暴力少年グループが、一方はジャクソン5が好き、一方は嫌いということで、コンサート会場内で撃ち合いの決闘をやると脅迫してきた。


幸いに、コンサートは何事もなく終了したけれど。


しかし、ニューヨーク州バッファロー市でのショーは、兄弟たちが泊っていたホテルの部屋に死の脅迫電話があったため、直前にキャンセルせざるを得なくなった。


警備員たちは、電話をかけてきたのは暴力少年グループに違いない、と信じ込んでいた。


直接ジャクソン5の部屋に電話がかけられるのは、ホテルの建物内からだけだったので、みんな本当に神経がへとへとになった。


何しろ誰にでもルームナンバーはわかったし、電話もかけられたわけだから。


ジョーゼフは家に電話をかけてきて、何が起こっているのかを説明した。「ショーはキャンセルしてね、その子たちをステージに出さないでね、きっとよ」と母は懸命に頼んでいた。


二人とも異存はなくショーは中止されたが、何年か経つうちに、兄弟たちはそのような脅迫に屈せず、勇敢に公演するようになった。


決して誇張ではなく、その時の電話は、あたしたち家族に対する何百という似たような脅迫の始まりに過ぎなかった。


あたしたちがこうして今生きていられるのも、警備員さんのおかげというものである。


このような条件下に生活していては、あたしたちが普通の人びとと同じように、“正常な”生活感情を味わえるわけがない。


多くの子どもたちが独立することを学び、世の中に新しく足を踏み入れ始める時期に、あたしたちは囲いの中に閉じ込められていたのだ。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その7へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その7


ヤング・マイケル・ジャクソン写真集 1974-1984 【初回限定版】


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第二章 その7

多くの子どもたちが独立することを学び、世の中に新しく足を踏み入れ始める時期に、あたしたちは囲いの中に閉じ込められていたのだ。


恐怖や孤独感は、いつかはうまくあしらえるようになるだろうが、いつまでも耐えていることはできないものだ。


やがてあたしたち家族全員が、携帯無線を持ちいつも疑わしげな表情をした逞しい警備の男たちに囲まれていないと、旅行ひとつできなくなってしまった。


あたしたちの生活には、自発的な自分だけの行動などおよそなく、このことがマイケルとあたしをいらいらさせた。


「ラトーヤ、あの人たちはぼくたちのすること、全部知ってるんだよ、話だって全部」とマイケルはいらいらしながら言っていた。


「わかってるわ。あの人たちはいつもいっしょなのよね。少しぐらい離れて歩いてくれてもいいのに」


皮肉なことに、拘束的な、閉鎖的な幼年期の厳しいしつけが、行き先が違うだけで決まりきった毎日が続く、楽しみひとつない巡業生活に、兄弟たちを適応させているのかもしれなかった。


彼らは飛行機からホテルの部屋へさっさと直行させられ、リハーサル、ホテルの部屋へ戻る、ショー、夜はまた部屋へ戻る-----で、残された時間さえわずかだった。


悲しいことに、それほど各地を旅行しながら、兄弟たちの現実の世界はほとんど広がらなかった。


休みの日には、外出して冒険することなど億劫だったので、彼らは冬眠する動物のように部屋に閉じこもっていた。


普通の大人なら情緒不安定(キャビン・フィーバー)を起こすところだろうが、5人の場合はどうだったろう。


いくらまくら投げをやったり、家に長距離電話をかけたり、ふざけ合ったり、そのほかいろいろと気晴らしを考え出したりしたところで、限度というものがあっただろう(いちばんお気に入りだったいたずらは、氷水を入れたバケツを半開きのドアの上に置き、それとも知らずに誰かが来てドアを開けると、びしょ濡れになるというものだった)。


退屈のあまり、マイケルはよくルームサービスに電話をかけ、出来ないことはよくわかっている料理を注文したりしていた。


「えーと、コラード・グリーン(キャベツを主な材料としたスープ)に…コーンブレッド…それに、グラック・アイド・ピース(ササゲ豆)をちょっと添えて…」と、まるでメニューでも読んでいるように品目を並べたて、「すぐ持ってきてください」と言って電話を切り、くすくす笑っていた。


ドアをノックする音がないと、また電話して「ぼくのコラード、まだ?」などと言ったものだった。


さて、男性歌手などというものは、部屋に女性を連れ込んで楽しむ、なんてたやすいことだろう。ご承知のように、ジャッキー、ティト―、ジャーメイン、マーロン、それにマイケルは、自分から喜んで言い寄ってくる若い女性を、そうしようと思えば自由に選べる身分だった。


それなのに彼らの周囲には、あの魔術師で脱出の名人だったフーディニだって通り抜けられないような障害物が、モータウンとジョーゼフによって張りめぐらされていた。
(*ハリー・フーディニとは「脱出王」の異名を取った、奇術師)

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(なんか怖いんですけど、この方がハリーフーディニ師)

誰ひとり、警備員の許可なしには彼らには近づけもしなかった。ジャクソン5に一目会おうといろいろ工夫を凝らすファンの手を逃れるため、警備員は互いにコードネームや“ジャクソンノック”というノック法まで考え出した。


兄弟たちの部屋の前に立ってドアをノックしていると、まるで1920年代の禁酒法時代、そっと酒を飲ませてくれる秘密バーの前にでもいるような気持ちになったものだった。


ホテルの廊下に護衛を配置しただけでなく、ジョーゼフは自分の目で一人一人の部屋をのぞき、兄弟たちがいるか、そのほかに誰かいないかをチェックした。


また、父は奇妙な行動もとっている。兄弟たちの部屋に女の子を連れてきて、その眠っているところを見せたりしているのだ(どうしてそんなことをしたのか、理由など考えてみたくもない)。


その後、ジャーメインはマイケルと二人で、女の子をこっそり部屋に入れていたようなことを話していたが、それは事実ではない。


もし二人が本当にそんなことをしていたら、モータウンの重役たちはカンカンになっていただろう。


スキャンダルや子の認知訴訟などは、それが事実であろうが、なかろうが、それ自体が貴重な財産といえる彼らの清潔感あふれるイメージを、損なう恐れがあったのだ。


自由もなく、窮屈な日々を送っていた若きジャクソン5は、一般人にはとうてい理解できない世界の中にいたんですね。

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その8へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その8


ヤング・マイケル・ジャクソン写真集 1974-1984 【初回限定版】


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第二章 その8


スキャンダルや子の認知訴訟などは、それが事実であろうが、なかろうが、それ自体が貴重な財産といえる彼らの清潔感あふれるイメージを、損なう恐れがあったのだ。


だが実際には、会社には心配すべきことなど何もなかった。両親は性について、一度も話してはくれなかったが、あたしたちは結婚を真剣に考えられる相手でなければデートはしないことにしていたくらいだから、性に対する価値観ははっきりと伝わっていた。


だから、兄弟たちが10代の後半までほとんどデートなどしなかったとしても、たいして驚くにはあたらないだろう。


ジャッキーには、18歳の時実際にガールフレンドがいたが、会えるのはわが家でだけ、それも1時間だけであった。


8時になると、ジョーゼフはその娘を追い払うようにして帰らせていた。ジャッキーとティト―がデートした何人かの女の子たちに、父はいい顔を見せなかった。


一人は黒人でないからといって嫌い、ほかの娘たちはみんな金目当てだ、と思っていた。


ジョーゼフが疑念を向けていたのは、金目当ての女の子たちだけではなかった。


父と母は、外部の人間はみなあまり信用していなかったが、それにはそれなりの理由があった。


数多くの若い芸能人が悲劇的な転落を遂げるのは、その指導監督にあたる人びとの先見性の無さである。


あたしの知っている例を挙げれば、ある人気グループのマネージャーは、管理がし易いということで麻薬を教えた。


また、適切な指導や教育が与えられず、同じ年齢の子どもたちよりはるかに知能が遅れているグループ、という例もある。


ある10代のグループをディナーに招待した時、前もってマネージャーから電話があり、ハンバーガーとホットドックのような手で食べられる料理をお願いします、大事なクライアントである彼らに恥をかかせたくないのです。と頼んできた。


銀のナイフやフォークなど、使い方さえ知らなかったのだ。こういった子どもたちが芸能人という仕事を辞めたとき、彼らを待ち受けているのは何だろう。


考えただけで残念な気がする。あとになってこういうことを考えてみると、大切な人格形成期にモータウンや、父があたしたちを守ってくれた積極的な姿勢は、きちんと評価するべきだという気になる。


芸能界に足を入れた不運なほかの子どもたちに比べると、ジャクソン5はその境遇下では最高の教育を受けていた。


ローズ・ファインという家庭教師がつけられ、巡業やテレビのリハーサルや録画録音など、仕事のある場所ではいつも一緒だった。


70年代の半ばだったが、あとになってランディとジャネットとあたしがコンサートにジョイントするようになると、彼女はあたしたちにも教えてくれた。みんな学年が違っていたので、一人一人についてそれぞれに授業の下調べをしていた。


毎朝、食事が終わるとあたしたちは先生の部屋に集まった。ファイン先生は本当に聖母マリアのような女性で、あたしたちがきちんと朝食をとったかどうか、いつも尋ねるのだった。


すると、たいていはジャーメインかランディが授業をサボるこの絶好の機会をすかさず捉えて、「ファイン先生、ぼくまだ朝ご飯を食べてないんです。ルーム・サービルで何か注文していいですか」と、さもしおらしそうに言いだすのだった。


「もちろんよ」と、先生の返事は、いつも決まっていたが、あたしたちほかの者はあきれたり、またかと思ったりして目玉をグリグリさせたものだった。


ファイン先生には、おなかを空かせた子どもに無理やり勉強させることなど、想像もできなかった。授業を受けている間、先生は机の周りを歩き、肩越しにのぞき込んでは質問に答えたりしていた。彼女はあたしたち全員にとって第二の母的存在となり、マイケルなどは毎年母の日になると、誰かが花を送ったかどうか確かめるほどになっている。



インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その9へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その9




インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第二章 その9


彼女はあたしたち全員にとって第二の母的存在となり、マイケルなどは毎年母の日になると、誰かが花を送ったかどうか確かめるほどになっている。

わずか1年の間にジャクソン5は4枚のアルバムを出し、その中の3枚はそれぞれ100万枚以上も売れ、何十回ものテレビショーに出演、近年にない新しい黒人グループの大スターになっていた。


自分たちやジョーゼフが心に描いていた、果てもなくとっぴな夢を遥かに超え、それを現実のものにしていた。1971年、5枚目のシングル〈ママズ・パール(ママの真珠)〉が2位になって間もなく、あたしたち家族は、ビバリーヒルズに引っ越した。

Frank-Sinatra.jpg
(Frank sinatra)


近くにはフランク・シナトラのほか、マイケルにとって最高のアイドルであり、のちに自著の『ムーン・ウォーク』を捧げたフレッド・アステアが住んでいた。


伝説的なダンサーとしてしかその名前を知らず、当時72歳のその人が、ある日マイケルに会いたいと言ってきた。


Fred-Astaire-Dance-2Kings.jpg
(Fred Astaire)


弟はろくに口もきけないくらいだった。アステア氏は、「よくジョギングしているところを見かけるよ」と言っていたそうだ。


マイケルはまるでふわふわ浮いたように帰ってきた。スターがすぐ近くに住んでいることで落ち着かない気分だったが、それからしばらく経つうちにまったく普通のことになってきた。
フレッド・アステアのマイケル賛辞の記事

ダイアナ・ロスに会うことは、あたしにとってまるで女王様にでも拝謁(はいえつ)しているような気分だった。


テレビの中のシュープリームスに見入りながら育ったあたしは、ダイアナこそはシックという言葉の化身だと思っていた。


初めて彼女がわが家に来たとき、その美しさが信じられないほどだったが、そのきゃしゃな体にもびっくりした。


同じように、マイケルが初めてスモーキー・ロビンソンに会った時のことを後で話してくれたが、彼の手について「ラトーヤ、本当に柔らかかったよ。信じられないほどだった」と驚いていた。


あたしたちは、男性の手というものはみな父の手のように堅いものだと思い込んでいたのだ。


考えてみると、人のたいして重要でもない小さな部分のことをしっかり覚えているなんて、まことにおかしな話である。


ビバリーヒルズの家は素晴らしく、プールやリハーサル用の大きな練習場もあった。しかし、丘の方から下りてくるガラガラ蛇が敷地の中にいっぱいいた。


ある日など、そのガラガラ蛇がプールサイドにいたマイケルに忍び寄ってきた。あわやというとき、運よくお客の一人が弟をプールへ突き落とし、それで命拾いしたようなものだった。


「ほら見なさい。ぜひとも引っ越すべきよ。こんなとこ、これ以上とてもいられない、危険すぎるわ」母は断言するように言った。


母は見かけは大人しく振舞っていたが、なかなか頑固なところがあった。新しい家を探すよう、ジョーゼフには半ば命令的に頼んでいた。


広くて、ビバリーヒルズであればいいという条件だったが、父には父の考えがあり、母の意見は無視された。



エンシノ郊外のサンフェルナンドバレ―に大きな邸宅を買った、と父がぶっきらぼうな口調で知らせたとき、母はがっかりしていた。


でも、それから20年以上たった今、母とジョーゼフはまだそこに住み、ヘイブンハースト大通りの家は家族の本拠地(ファミリー・センター)として残されている。


父がこの屋根の勾配がゆるい、モダンな牧場スタイルの家が気に入ったのは、およそ十万平方キロにわたって植えられたオレンジの木であった。


引っ越してきた頃には6つの寝室があったが、下の方は今までのようにジャネットとあたし、上の方はマイケル、ランディにマーロンと、2人か3人で1つの部屋を使っていた。


この広々とした屋敷には、離れになったゲストハウス、劇場、使用人部屋、プール、きれいに刈り込まれた庭、バスケット用とバトミントン用のコートなどがあった。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その10へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第二章その10



インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第二章 その10


この広々とした屋敷には、離れになったゲストハウス、劇場、使用人部屋、プール、きれいに刈り込まれた庭、バスケット用とバトミントン用のコートなどがあった。


時が経つにつれて、あたしたちはいろいろな改良を加えていった。例えばレコーディングスタジオ。これは目先の利く父が、モータウンでスタジオ代を払わなくても、息子たちに作曲やレコーディングができるようにと付け加えたものだ。


このスタジオの隣りはあたしたちの言う“キャンディ・ストア”でアイスクリームやスナックがわんさと置かれていた。子供時代の夢である。


外回りを見ただけで、このバカでかい家の支出がわが家にとってどんなに莫大なものだったか、いつも思い出された。敷地の境界には高い堀が巡らされていたし、表門にはこれ見よがしに電動ゲートがそびえていた。


詰所には警備員のチームが配置され、監視カメラが地上くまなく目を光らせ、不遜なのぞき見連中を見張っていたのだ。


こんな万全の警備策を講じても、母とジョーゼフは本当に安全だとは信じていなかった。


あたしたちは、インディアナ州にいたころより外出機会がむしろ少なくなっていた。


カリフォルニア州では16歳になれば法律で車の運転が許されたのに、例外はジャーメインだけで、あとの者はずっとあとになるまで運転はさせてもらえなかったのである。


あたしたちを世間から隔離させておきたいという父の執念は、あたしたちの全生活にしつこくつきまとった。


70年代を家に留まされたあたしたちは、もう成人になっているのに専用の電話をひくことさえ許されなかった。


兄たちは、“モータウン・ベイビーズ”というグループと親しくしていたが、それはベリー・ゴーディの子どもやダイアナ・ロスの弟、それに他の会社の重役や芸能人の10代の子どもたちで結成されたグループだった。


マイケル、ランディ、マーロン、ジャネット、それにあたしの5人はいつも家に残されたが、それまで以上に互い結びつきは固くなった。


ときにはクラスの友だちを家に招待しようと思ったが、ジョーゼフが帰ってきたときに友だちがいたらどうしよう、大声で怒鳴っていたりわめいたりしたらどうしよう、誰かを叩いたらどうしよう、友達はそんなあたしたちのことを何と思うだろう-----------などと考え、いつも取り止めてしまうのだった。


ほかの子どもたちの目の前でバツの悪い思いをし、恥をかくのでは?と予想するだけで、心がひどく痛んだ。だからあたしはこれまで友だちは一人も持っていなかったし、このほうがいいのだと自分に信じ込ませるのも簡単だった。


ジャクソン5が40を超える都市を回った1971年夏のツアーが終わると、モータウンは12歳のマイケルの初めてのソロシングルで、ミリオンセラーとなった〈ゴッド・トゥ・ビー・ゼア〉を発売している。

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マイケルが他の兄弟たちの影を薄くしたことは否定のしようがなく、その天子童子ケルビム(てんしどうじ)のような顔は『ローリング・ストーン』他数々の雑誌の表紙を飾った。


普通の家庭だと、こういった一人だけが注目を浴びるようなことは嫉妬やライバル意識を生むものだが、ジャクソン家ではそんなことはなかった。


ティト―、ジャーメイン、特にジャッキーなど、マイケルがどうしてずば抜けて注目を集めるのか、みんなよく理解していた。


自分自身も素晴らしい歌手のジャッキーは、“マイケルが5歳の時からすでに自分たちのグループリーダーになるとはっきりわかっていたよ”、と当然のことのように人に話していた。


兄弟の中で最も音楽に献身的でしかもただひとり正式に音楽の勉強をしたティト―は、自分の在り方に自信を持っていた。

rolling stone2


ジャーメインも同様で、舞台ではソロで歌ったりマイケルとデュエットしたりしていた。


しかし、マーロンはこの再編成騒ぎの中で自分を見失いかけていた。ステージがないとき、彼はふざけ回ったりわざと目立つ行動をとったりしていた。



子どもは誰でもそうだろうが、彼も人から注目されたかっただけだった。ただ問題は、彼がマイケルとよく比較されたことである。


年も接近していたし、それに当時2人がよく似ていたせいもあったかもしれない。


マーロンが弟に対してライバル意識を持つのは避けられないことだったと思うが、母はこのことではいつもマーロンを叱っていた。



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