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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その1ゲーリーの家特訓開始

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン訳高橋伯夫


第一章  その1

「みんな、すぐ起きるんだ、さぁ」
闇の中で目を開けると、父の足音が聞こえてきた。兄弟5人で使っている隣の部屋に向かって、その足音が大股に近づいてくる。


あたしといっしょにソファーベッドで寝ている姉のリービーは、ぐっすり眠っているが、あたしはいつもそんな父の大声で目を覚ましてしまう。


もう真夜中過ぎだというのに、父はそんなことにはお構いない。彼の頭の中には、ただ、ジャッキー、ティト―、ジャーメイン、マーロン、そしてマイケルという5人の息子たちを起こし、着替えさせ、パフォーマンスの準備をさせることしかないのだ。


「さぁ、やろうぜ。お前たちを見たいって方々をお連れしたんだ」
壁越しに、寝具がすれる音や、マイケルとマーロンが二段ベッドから、身軽に床に飛び降りる音が聞こえた。


やがて、ティト―とジャーメインが耳障りな音をたててギターのチューニングを始め、アンプのパチパチはじけるような音が家じゅうに響き渡った。


そして、演奏と歌が始まった。リードヴォーカルはジャーメインかマイケルのどちらかで、4人の歌声が鮮やかにハモった。


目は開けなくても、あたしには手に取るようにその情景が想像できた。練習通りの完璧なダンスステップ、居間のソファーから送られる称賛の拍手、そして、眠たくて早くベッドに戻りたいのに、きちんと行儀よくおじぎをしている彼ら…。


ひょっとしたら、5人の中の一人ぐらい、「どうして、こんなこと、ぼくたちにさせるんだろう」と、ちょっぴりぼやいたかもしれない。


いや、でも、そんなことはたぶんなかっただろうと思う。


玄関のドアが閉まり、車がブルンと音をたて、ジャクソン通りの小さなわが家は、再び暗くなり、元の静寂に戻るのだった。


人はよくあたしに質問する。ジャクソン・ファミリーの一員として育ったことを、どう思うかと。


信じられないかもしれないが、ごく普通の家庭と少しも変わらないと思う。情愛に満ちた母がいて、よく働く父がいて、そして子どもたち-------------。人生の大半を、あたしはそう信じて送ってきた。


母は今でもジャクソン家の中心人物であり、小柄な体と物静かな身ごなしには、深い内的な強さが秘められている。


母はキャサリン・スクルージーといい、アラバマ州のラッセル郡で、マーサ・アップショーとプリンス・スクルージーの間に生まれた。


あたしたちはプリンス・スクルージーを「ダディ」と呼び、実際の父のことは子どもらしく「ダッド」や「ポプ」「パパ」ではなく、ファースト・ネームで「ジョーゼフ」と呼んでいた。


祖父はあの快適な設備の寝台車、客車である特別仕様のプルマン車両のポーターだったが、アイロンのきいた制服に身を固めたときの、威厳に満ちたすてきな姿は今もよく覚えている。


ちっちゃな女の子だったころ、あたしはその祖父のベストとズボンのポケットの間にかけられた金鎖から垂れている、これも金の懐中時計に、うっとりと見入ったものだった。


まだ子どものあたしには、もちろん、ポーターというものがどんな仕事をしているのか、実際には何もわからなかった。


でも、“ダディ”はいつも誇らし気に見えるので、大変重要な仕事をしているのだろうと思っていた。


母が、両親や妹のハッティとインディアナ州のイースト・シカゴに移ってきたのは、うんと若いころであった。


母はみんなからケイトと呼ばれたが、幼少期にポリオにかかり、祖父はその治療のため毎日のように母を連れて病院を往復した。


まだポリオの治療法もワクチンもなかった1930年代のことである。母が生き残ったのは実に幸運であった。


プリンスとマーサ、つまり祖父と祖母は間もなく離婚し、のちにそれぞれ再婚したが、母はそんな両親のどちらとも仲が良かった。


母方の祖父母から母が受け継いだもの、それは愛と勇気であった、とあたしは思っている。


母の目は、褐色で、東洋風にちょっと吊り上がったエキゾチックな形をしていた。


頬骨がすっきりとしていて柔らかな、いかにも女らしい容貌で、人が振り返るほど美しかった。


少女時代、母は固定装具(ビールス?ブレース?)をつけたり、松葉杖で歩いたりしていたが、世間ではビールスが伝染すると恐れられていたので、周りの子どもたちは容赦なく母を嘲るのであった。


そんな子どもたちも、母の妹のハッティにつかまったら大変で、必ず仕返しをされた。


ハッティはしとやかな母とは正反対に、すごくお転婆だったのだ。こうした経験は、母の心を深く傷つけたに違いない。母は、当時のことをあまり話したがらないのである。


ポリオのせいで母は自意識過剰となり、男の子に対しても引っ込み思案になった。だから、ジョーゼフ・ジャクソンという校内一のハンサムボーイとの、まさに最初のロマンスに、ひとりひそかに胸を高鳴らせていたのだった。

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その2へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その2

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー 第一章  その2


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章 その2


ポリオのせいで母は自意識過剰となり、男の子に対しても引っ込み思案になった。だから、ジョーゼフ・ジャクソンという校内一のハンサムボーイとの、まさに最初のロマンスに、ひとりひそかに胸を高鳴らせていたのだった。


やがて1949年、2人は結婚した。実家から東に4~5キロ、同じインディアナ州のゲイリーで新居を持った。ゲイリーはミシガン湖南岸の製鉄都市である。


おかしなことにこの両親がどんなふうに出会い、恋に落ちたのか、二人ともめったに語ってはくれない。


たいていの子どもは、その種の家族物語はうんざりするほど聞かされるものなのに、わが家ではそんなことはなかった。


たとえばマイケルが自伝『ムーン・ウォーク』を書いていた時、マイケルとあたしは、母にそのあたりのことを、話してくれと何回も頼んだものだった。


「お母さんの話、ぼくの本に必要なんだよ」とマイケルは頼み込んだけれど、母はいつも何とか言って話をはぐらかしてしまった。


そんなわけで、あたしばかりでなく、誰にとっても、父ジョーゼフは実に謎多き人物であり続けているのだ。


わかっていることを書くことにしよう。
父はアーカンソーのいなかで、サミュエルとクリスタリー・ジャクソンの間に生まれ、40年代の終わりにイースト・シカゴに移って来た。


父の父は、当時の南部の黒人としては珍しく、際立った成績でミシシッピー州立あるコーン大学を卒業、そのあと高校の教師をつとめていた。


母のクリスタリーは生来の美しさと魅力にあふれた女性で、彼の生徒の一人であった。クリスタリーの母は、浮気っぽい娘も結婚したら落ち着くのではないかと思い、父親ほどにも年齢の離れたサミュエルに嫁がせたのだった。


ジョーゼフは、三男一女の長男であった。そのセクシーな笑顔、きりっとした眉、淡い赤毛とエメラルドグリーンの目は、女の子たちが言う“キャッチ”、つまり「すてきな結婚相手」としての憧れの的であった。


女の子たちがさかんに言い寄ったが、彼は振り向きもしなかった。「あの子は一人でいるのが好きだった。友だちもいなかったし、また、欲しいとも思わなかったのさ」と祖母が言っていたのを覚えている。


サミュエルとクリスタリーは離婚し、それぞれに別人と再婚、そして離婚、さらに二度目の結婚……とめまぐるしいほどだ。


クリスタリーは街を出歩くのが好きで、父は弟たちや妹の世話に追われ、少年時代を犠牲にしている。


以前に叔父から聞いた話だが、自分の母が夫以外の男たちといるのを見て、父は怒りと苦々しさを味わい、そんな母に関する近所の噂話を耳にして、すごくはずかしい思いをしたとのことである。


言うまでもないことだが、育ち盛りの一少年にとっての、理想的な、情愛あふれる環境とは遥かにかけ離れたものであった。


学校を出ると、ジョーゼフは一時プロボクサーとなり、怖いもの知らずのファイターとして地元で評判をとったことがある。


肩幅が広く、背は180センチを超え、力も非常に強かった。子供のころの、父に関する思い出は数えるほどしかないが、そのひとつは、父が四つん這いになり、その背中にわれわれ子どもたちがよじ登った思い出である。


あたしたちが互いにつかまりながらキャッキャッ笑っていると、父は「どうだ、お父さんは家族全部を運べるんだぞ」と自慢したものである。


ささやかな思い出のようだが、この思い出は、父があたしたちにどんな眼差しを注いでいたかを、たくさん語りかけているように思えるのだ。


父ジョーゼフは、子どもたちは常に自分のものであり、その子どもたちを支え、守ってやれるのは自分だけである、と感じていたかったに違いない。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその3へ続く

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独裁者ジョーゼフラトーヤ自伝第一章よりその3

latoya blog1
(マイケルがドイツで表彰された時のラトーヤ画像)

この時の記事はコチラ

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その3



父ジョーゼフは、子どもたちは常に自分のものであり、その子どもたちを支え、守ってやれるのは自分だけである、と感じていたかったに違いない。


父は、日中はインランド・スチール社の製鋼工場でクレーンを動かしていたが、実は本職のミュージシャンになるのが夢だった。ジャズから黒人のリズム・アンド・ブルースまで、好みは大変広かったが、R&Bは、エレクトリック・ブルース発祥の地、シカゴ周辺の生活から自然発生的に生まれた音楽である。


1950年代の初め、ジョーゼフは兄弟でファルコンズ(“ユーア・ソウ・ファイン”で有名なファルコンズではない)というR&Bのバンドを組み、週末毎に近くの大学やナイトクラブで演奏した。


父たちがプロのミュージシャンとして続けていたら、あるいは前途洋々だったかもしれないが、それは誰にもわからない。50年代には、あたしたち子どもが一年に一人ずつ生まれてきていたのだから、父は結局は、バンドをやめなくてはならなかったのである。


しかし、父は音楽を愛することまでは決してやめなかった。今でも素晴らしい歌手だし、20年ほど楽器など手にしたことはないようだが、弾かせれば一流のブルースギタリストである。


あたしたちきょうだいは、時におふざけ半分で、自分たちの才能はどこからきたのだろう、などと言い合ったりすることがある。


歌は母ゆずりだと、これはみんな納得するのだが、踊りの才能となると誰にも説明が付かない。父ゆずりではないことは確かで、母も子どもでも諭すように「あなた、リズムが合ってないわよ」といつも言っていた。


それは事実で、父は音楽に合わせて指を鳴らしたり、手を打ったりするのだが、そのリズムははずれてしまうのである。


あたしが生まれて初めて病院からわが家へ連れて行かれたとき、ジャクソン家はすでに四人の子どもたちがいた。モーリン・レイレット(リービー)、ジグマンド・エッコー(ジャッキー)、トリアノ・アダリル(ティト)、ジャーメイン・ラジュアン(ジャーメイン)である。


変わった名前への母の好みは、ラトーヤ・イバン・ジャクソンというあたしの名が最後だった。(ラトーヤは母の造語で、実にいい名だと母は強調している)


その後生まれた四人は、まあまあ普通の名をつけてもらった。マーロン・ディビッド、マイケル・ジョーゼフ(あたしたちはいつもマイクと呼んでいる)、スティーブン・ランダル(ランディ)、それにジャネット・ダミタ・ジョーである。


十人目の子ブランドンはマーロンと双生児だったが、生まれて間もなく死んでしまった。母は子どもたちを自分の命とも思っていたが、父はどうひいき目にみても母とは違っていた。生まれた子を抱くために、病院にさえ来ようとしなかったのである。


ゲイリー市にあったわが家は、小さくて、家具もない質素な平家だった。寝室は二部屋しかなく、一つを男の子たちが、一つを両親が使った。小部屋(アルコープ)のついた居間にはあたしとリービーが寝たが、その他に浴室、食堂、台所、そして狭いながら庭があった。


簡素で何の特徴もない家だったが、あたしたちは快適に暮らし、貧乏だとも恵まれない生活だとも感じなかった。


モータウン・レコード社は、後年、“ジャクソン・ファミリー伝説”というのを考え出したけれど、それは間違いで、あたしたちが住んでいたところは黒人居住地区のスラム街、ゲットーではなかった。


ゲイリーは北部製鋼産業の都市で、戦後のにわか景気で南部からの沢山の黒人が流れ込んできた。


市当局は、あたしたちが住んでいた地区のように、清潔で快適な住環境がご自慢だった。あたしたちの学校友だちの父兄には、弁護士や教師、それにブルーカラー族の肉体労働者がいたのである。


それなのに、父ジョーゼフは、あたしたちが他人の子どもたちと交わることを許さなかった。両親は、あたしたちの将来は教育と勤勉、そして厳しい躾にかかっていると信じ込んでいた。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその4続く


小さいときから、独裁者のような父に育てられたおかげで、ドラッグやアルコール中毒にならずに済んだのかもしれないですよね。
そして、マイケルキッズだって、「この子たちのようにしつけのきちんとできた子どもはみたことがない」とたくさんの人が言いますものね…

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その4

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その4


それなのに、父ジョーゼフは、あたしたちが他人の子どもたちと交わることを許さなかった。両親は、あたしたちの将来は教育と勤勉、そして厳しい躾にかかっていると信じ込んでいた。


ほかの親たちは、できるだけのことは家庭でしてやり、あとは、どんな悪影響が待ち受けているかもしれない世の中に送り出し、子どもたちが最善を尽くすのを祈るばかりである。


ところが父は、子どもをそんな運にまかせるようなことはしなかった。父は自分の家庭を世間から遠ざけ、わが家だけを自分たちの世界にしたかったのだ。


まだ未熟な子を守りたいという親の心はよく理解できるが、父ジョーゼフのやり方は極端すぎたと言える。


ジャクソン家の子どもたちは、誰一人として甘やかされたことはなかった。


ウィークデーの朝は、父が仕事に起き、足音高く家中を回って子どもたちを起こす5時に始まった。


あたしたちは寝ぼけ眼でベッドから降り、決められた家の仕事に取りかかった。


「わたしが働いているんだから、子どもたちだって働かなくちゃいかんのだ」と、父はそんな理屈を言っていた。


ひどく天気が悪いときでも、父は男の子たちに命じて表の落ち葉かきや雪かきをさせたり、大して意味のない仕事、たとえば煉瓦を積み重ねたり、くずしたりする仕事を、登校前にさせたりするのだった。

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いちばん年上だったリービーは、第二の母の役目を引き受けて下の子どもたちの面倒を見、残りのあたしたちは交代で食器洗いやアイロンがけ、それに掃除である。


あたしの仕事の一つは、母の料理の手伝いだった。父に言わせると、「おまえは女で、女の居場所は台所だ。だから、コーンブレッドの作り方を習っといたほうがいいんだぞ」となるからだった。


そこで、あたしはマフィンやコーンスティック用の鍋に、オイルを塗ったりしていたわけだった。


でも、子どものころ無理やりに覚えさせられたことなんて、大人になってみるとすっかり忘れているとは、まことに皮肉なものである。


現在のあたしには、たとえ食べなければ死んでしまうと言われたって、コーンブレッドひとつ料理できないだろう。


朝食の後、着換えて歯みがきをすませると、あたしたちは言われるまま背の順に、ちいちゃな階段みたいな形に並んだ。


母は歯のチェック、父はそのあとを自分の部隊を閲兵(えっぺい)する将軍のように歩き、子どもたちの口のなかにスプーン一杯の肝油を含ませてやるのだった。


それから母が、その嫌なひどい味を消すために、リンゴを配ってくれた。なぜだかわからないがあたしは肝油がうまく呑み込めず、いつも「ペッ」と吐きだしたものだが、そうすると父が笑いながらあたしの口を力づくで開け、またスプーンを押し込むのである。


そんなとき父は、そんな子どもの災難に、何だかサディスティックな喜びを感じているに違いないように思えた。思いやりや優しさなんて、ひとかけらも無い人のように目に映った。


学校が終わると、すぐ帰宅することになっていた。クラスの友だちとおしゃべりしたり、家に遊びに行ったりもできなかった。驚かれるかもしれないが、正直言ってつい最近まで、友だちがいなかったことを残念に思ったりはしなかった。


あたしが一人っ子だったとしたら、また話は違っていただろうけど、兄弟は多かったし、周囲ではいつも何かしら起こっていたので、ちっとも寂しいことはなかったのである。


あたしたちは外に出ることを禁じられていたので、ひまがあれば、母の考案したゲームを楽しんだり、母が教えてくれた歌を歌ったりしていた。


”ユー・アー・マイ・サン・シャイン“ ”コットン・フィールド“ ”ダニー・ボーイ“、それにハリー・ベラフォンテの歌など、ずいぶんたくさん教えられたものだ。


母は実に見事な声の持ち主で、いちどは芸能界を目指したこともあったが、脚が悪いことを気にして思いあきらめたらしい。


★★★こんな風に厳しかったから、ジャクソンファミリーは若い時から、ドラッグ、セックス、アルコールにおぼれなかったんでしょうね…


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその5へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その5




インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン訳高橋伯夫


第一章  その5


母は実に見事な声の持ち主で、いちどは芸能界を目指したこともあったが、脚が悪いことを気にして思いあきらめたらしい。


母は、自分の父がカントリー・アンド・ウェスタンが好きだったせいで、ラジオ番組<ザ・グランド・オウル・オプリ>(※下部参照)を聴きながら大きくなった。


だから、母は今でもカントリー・スターのフロイド・クレイマーが大好きである。


そんなことからか、あたしたちは小さいころからハモって歌うのがとても上手だった。それは自然に身についた才能で、父がぶらっと工場から帰ってくるたびに、母は興奮しながらよくいったものだった。


「ジョーゼフ、この子たちったら、信じられないほどすてきなハーモニーで歌えるのよ。それが完璧なの、ほんとにびっくりしちゃう」


たいていの父親だったら、せめて喜んだふりをし、よし、じゃ聞いてみるか、ぐらいは言ってくれたかもしれない。


ところが、父はまるで興味を示さなかった。父はもともと物静かな口数の少ない男で、叱ったりからかったりするとき以外は、まるで子どもなどいないように振る舞っていた。


あたしの記憶では、母はあたしをいつも特別扱いにしてくれていたようだ。お金こそあまりなかったが、母はあたしに美しいドレスを着せ、レースの飾りのついた靴下やピカピカのエナメル靴をはかせたりして、いかにも女の子らしく飾り立てては喜んでいた。


いつだったか、あたしはすごく悲しい気分で学校から帰ってきたことがある。


何人か子どもたちが、あたしのことを“ゴージャス”と呼んだからだった。そんな言葉はそれまで聞いたこともなかったので、からかわれたとばかり思っていた。


辞書で調べてみて意味がわかってから、すっかり気分が良くなったけど……。(luxurious 豪華、快適の意。アメリカでは豪華、ぜいたくをネガティブに意味しない、良い意味)


そんなふうに誰かにからかわれたりしたとき、母はいつも
「気にすることはないのよ。ママもいつも、あなたぐらいの時は同じだったんだから」と言ってはなぐさめてくれた。


母とあたしはいろんな点でよく似ている。感じやすく、潔癖で(もっとも、9人も子どもを生んで少しは母も変わったけど)、学校ではオール5の優等生だった。


母と同じように、あたしも大人になったら看護婦さんになるんだ、と思っていたし、祖父も、「ラトーヤ、お前はほんとにケイトに似ているね」とよく言っていた。


あたしは母を尊敬し、母が大好きだったので、そう言われるととてもうれしかった。あたしの目には、母のすることは間違いなんてないように映っていたのだ。


男兄弟に関して言えば、あたしは世界一ラッキーな女の子だと言っていいだろう。あたしはみんなの友だちであり、何でも打ち明けられるほど信頼されてもいた。


リービーは何歳も年上だったし、ジャネットはうんと年下だった。男兄弟にしたら、あたしが家の中でただ一人の女の子だったのだ。


昔も今も、みな言うことのないジェントルマンで、心やさしく思いやりがあり、あたしのことをまるでプリンセスみたいに扱ってくれた。


最年長のジャッキーは無口で、思慮深く、まじめな性格だった。運動神経は抜群で、十代のころ、家の裏の野球場で、シカゴ・ホワイトソックスにスカウトされたほどである。


チャンスが与えられていたら、間違いなくプロになっていただろうが、高校を卒業するころにはすでに音楽が最上のものになっていた。


それに、家族を見捨てて自分だけ別な道に進むなど、とても考えられなかったのだ。


ティト―は父ゆずりの釣り上った眉毛と、がっしりした体の持ち主で、ジャッキーと同じく物静かで、頭が切れて、機械いじりに夢中になっていた。


まだ小さいころ母のミシンの使い方を覚え、あとになって、母を手伝って、“ジャクソン5”のステージ衣装を縫ったりしていた。


可愛い手づくりのプレゼントをもらい、あたしはいつもびっくりした。「ほら、ラトーヤ、これはきみのだよ」と言いながら、バービー人形の新しい着せ換え衣装を手渡したりしてくれたものだった。


ティト―はまもなく模型飛行機や車のプラモデルづくりから卒業し、どんなふうに動くか調べようと、テレビやラジオ、はては洗濯機までバラバラに分解することに熱中しはじめた。


もちろん、父のジョーゼフが家に帰ってくるまでには、それぞれ元通りにしてはあったが。


ジャーメインは4番目の子だったが、どちらかというと家族のリーダー的な存在だった。


人をからかうことが大好きで、食事の最中、あたしのデザートが欲しくなると、いつもその上から「ハーッ」と息を吹きかけるのだった。


あたしが必ず悲鳴を上げ、皿を押しやるとわかっていたからだ。また、よく口いっぱいに食べ物をつめこみ、クチャクチャやりながら「ラトーヤ」と叫び、あたしのほうに口を大きく開けて見せたりするのだった。


ジャーメインは、ただ楽しみたいだけに、いつも何かやらかそうとしていた。他の家の子どもたちに比べると、あたしたちは大人しくて礼儀正しい方だったが、ジャーメインはハキハキと言いたいことを言い、自説を曲げない性格だった。


頑固なところがあり、学校にも行きたくなくて、一日中クローゼットの中に隠れていたこともあった。


3年半の間に生まれたジャーメイン、ティト―、ジャッキーの3人は、そのころいちばん仲が良く、寝室の窓をこっそり抜け出して、バスケットボールをやったり、クローゼットにしまってあるジョーゼフのギターを、そっとのぞき見したりしていた。


これだけは触ったり弾いたりしてはいけないと、厳しく言いつけられていたギターだった。


でも母は、あたしたちがいつも閉じ込められてばかりいるのを可哀相に思い、「わかっているわね、大切に扱うのよ」と注意しながら、時にはそのギターをクローゼットから取り出すことを許してくれた。


3人の中では、ティト―がレコードやラジオで聴く歌によく通じていた、特に上手にギターを弾くことができた。


ある日、起こるべきことが起きた。ティト―が弦を切ってしまったのである。

その6へ続く


(グランド・オール・オプリは、ナッシュヴィルのダウンタウンの、National Life & Accident Insurance Companyという保険会社に新しく作られた第5スタジオでスタートした。[1] 最初のショウの演奏者は当時77歳のフィドル演奏者、アンクル・ジミー・トンプソンだった。アナウンサーは番組のディレクターでもあったジョージ・D・ヘイ、別名「The Solemn Old Judge(ソロモンの老判事)」。彼はこの時30歳でしかも判事ではなかったが、シカゴの通信会社シアーズ・ローバックが所有するラジオ局WLS [2] で1924年4月に開始されたフィドルとスクエアダンスの番組、「National Barn Dance(全米バーン・ダンス)」ですでに人気を博しており、この分野のパイオニアだった。

初期にレギュラー出演していたバンドには、ポッサム・ハンターズ、フルート・ジャー・ドリンカーズ、クルーク・ブラザース&グリー・ジャンパーズなどがいた。彼らは順番に演奏したが、しかしヘイ判事はフルート・ジャー・ドリンカーズがお気に入りで、いつも毎回番組の最後を締める「red hot fiddle playing」のコーナーにもう一度登場させた。ヘイ判事は、開始当初から出演者を田舎風の愛称で呼び、女性にはあごひものついた帽子にエプロン、男性にはオーバーオールにチェック柄のシャツを着せて、農場にいるかのような演出をつけた。Wikipedia

family latoya


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その6

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その6


ある日、起こるべきことが起きた。ティト―が弦を切ってしまったのである。「あー、どうしよう」と全員が泣きべそをかき、パニック状態に陥ってしまった。


「ジョーゼフが知ったら大変だぞ」誰かがぶたれるんだ。わが家では、罰を食らうとなったら一度やそこいらのビンタや、オシリ打ちでは済まなかった。


言いたくはないが、父はひどく暴力的で、ベルトでぶったり、平手打ちしたり、拳固でなぐったりしていたのだ。

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それからの午後のひととき、あたしたちはみんなびくびくしながら、時計ばかりを見守っていた。


ジョーゼフが帰ってくると、母はすぐ父をわきへ連れて行って言った。「子どもたちの一人がね、はずみでギターの弦を切ってしまったの…」


父は足音荒くクローゼットに歩み寄り、愛用のギターを取り出すと、切れた弦を指で触れながら吠えるように言った。


「いったい、どういうことなんだ、これは?」


母が、父の横からとりなすように言った。「ジョー、この子たちには才能があるのよ。それにティト―はギターが上手なの」


「そんなことは聞きたくない!」父の怒鳴り声が部屋中を震わせた。「ジョー、この子たち、ほんとに才能があるのよ。ほんとだったら」


父は思い直し、ギターをぐいっとティト―の手に押し付け、「よーし、何ができるか、やってみろ」と命じた。


ティト―は両の頬に涙を流しながら、おずおずとあるメロディを弾き始めた。と、ジョーゼフの硬かった表情が、ふっとゆるんできた。


妻の言葉は正しかったのだ。ティト―には確かに才能がある。それに、彼にはすぐ、ティト―だけでなく、子供たち全員が素晴らしい才能の持ち主だ、とわかったのだった。


特にマイケルだ。マイケルはまだヨチヨチ歩きのころ、鏡の前でジャーメインの歌や動きの真似をしているところを、母が目にしたことがあったほどだ。


それに、5歳のときには、幼稚園の発表会で「サウンド・オブ・ミュージック」の“クライム・エブリ・マウンテン”を歌い、生まれて初めての全員総立ちの大喝采(だいかっさい)を経験している。


やがて、そのマイケルとマーロン、ジャッキー、ジャーメイン、それにティトーの5人は、地元で演奏や歌を聞かせ始めた。


これは父のおかげだが、父は子どもたちの真剣さを認め、一人一人に新品の楽器一式を買い与えた。


ティトーにはギター、リードボーカルのジャーメインにはベースギター、そしてジャッキーにはマラカス、それにアンプとマイクロホンも揃えた。マーロンとマイケルは歌と踊り担当である。

趣味で始めたものが、すぐに仕事に変わっていった。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその7へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その7

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その7

趣味で始めたものが、すぐに仕事に変わっていった。学校が終わると、男の子たちは毎日厳しい練習に励んだ。まず母が指導し、夕食後は父が稽古をつけた。


父は絶対的な完璧性を要求し、めったに褒めず、いつも文句をつけ、よく手を上げた。


“ジャクソン5”として国中でセンセーションを巻き起こすずっと前には、彼らの呼び物は、当時のアイドル、ジャッキー・ウィルソンやジェームズ・ブラウンそっくりの踊り方であった。


居間に鞭を持って立った父の姿は、今も瞼に残っている。誰かがステップを踏み間違えると、バシッ!といくのである。


時には子どもに襲いかかるようにして、その子が息も絶え絶えになり、苦痛で体を折り曲げているのをそのまま、放っておいたりした。


母はそれを見て、「ジョー!こんなことって意味ないわ、もう止めて!この子たちは歌手になんてならなくてもいい!」と叫ぶのだった。


しかし、ジョーゼフは返事一つしなかった。翌朝には学校があることさえ念頭になく、5人組がへとへとになるまでリハーサルを止めなかった。


8時間ぶっ通しで、同じ音符、同じ歌詞、同じステップを、全員が完全に覚え込むまで、何度も何度も繰り返した。


「はい、ステップ・ディップ・ターン!はい、ステップ・ディップ・ターン!はい、ステップ・ディップ・ターン!(踏んで、沈んで、回って)・・・・」と。


8歳のマーロンはステップがなかなか覚えられず、しきりにぶたれていた。


ジョーゼフは、最初はマーロンをグループに入れたがらなかったが、母はかげでは「この子ったら、自分の右足と左足の区別さえつかないんだから…」と言いながらも、マーロンを入れるように言い張った。


そんなことがあったのに、マーロンはダンスをやめず、くたくたになるまで練習に励んでいた。


もちろん、現在では、マーロンは素晴らしい踊り手になっている。


父が最初に生まれた男の子のジャッキーにひたすら暴力をふるったことには、大した理由はなかったとあたしは思う。


あたしはよく母に、なぜジョーゼフはジャッキーを邪険(じゃけん)にするのか、と尋ねたものだった。


母の返事は決まっていた。「わからない、きっと相性が悪かったんでしょ」と、それで万事解決といったふうであった。


ジャクソン兄弟でも、ひときわ才能に恵まれていたこの兄は、子どものころは何度もダンスコンテストで優勝している。


若者に成長してからは、その温かい微笑や知的な褐色の目で、女の子たちに憧れの溜息をつかせたものだった。


ジャッキーは、マイケルと同じくらいのスーパー・スターになれる、生来の才能を持ちあわせていた、とあたしは信じている。


しかし、彼に加えられた精神的、肉体的な絶えざる暴力が、彼の才能を台無しにしてしまったのだ。


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父は自分の手だけでは苦痛を与え足りぬと思ったのか、息子たちにボクシングのグローブをはめさせ、互いに戦わせて喜んでいた。


そのうちに「よーし、ジャッキー、今度はティト―とやってみせろ」と、薄ら笑いを浮かべて言い、選ばれた二人が早く終わらせようと、嫌々ながらパンチを交しているのを、しきりにはやし立てながら観ているジョーゼフであった。


父のもう一つの気晴らしは、あたしたちを怖がらせることだった。あたしが覚えている限りでも、父は夜に子どもたちの部屋の窓にそっと忍び寄り、ガラスを叩いたり、泥棒の真似をして押し入ろうとしたりして、大喜びしていた。


誰かが様子を見に、背伸びして窓をのぞきに行くと、気味の悪いマスクを被った父が飛び出してきて、まるで野獣のように吠えるのだった。


あたしたちが恐怖の悲鳴を上げると、ジョーゼフはそれを見て大笑いするのだ。


それは軽い冗談とか遊び半分とか、ゲームといえるようなものでは決してなかった。いい年をした大の大人が、わざわざ自分の子どもたちをなぜ気を失いかねないほど怖がらせたのか、あたしにはとても理解できない。


もっと悪かったのは、朝、目を覚ますと、観るも恐ろしい怪物が自分のすぐ顔の上におおいかぶさっていたこともあった。


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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その8

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その8


もっと悪かったのは、朝、目を覚ますと、観るも恐ろしい怪物が自分のすぐ顔の上におおいかぶさっていたこともあった。


あたしたちがキャーッと叫ぶと、ジョーゼフはパッとマスクをとり、人生、これに勝る楽しみはあろうかというふうに、大笑いに笑いこける。

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毎晩こんなことが続くと、あたしはシーツを頭からしっかりとかぶり、ゆっくりと体を揺すって心を和ませないと眠れないようになってしまった。


おかげで、あたしは今でも、そうしないと寝付けないようになっている。


そのころ、父はまさしくわが家のボスだった。母はめったに口出しはしなかったが、よく頭を振りながら、「ジョーゼフったら、ほんとにクレージーなんだから」と嘆いていた。


わが子が父を恐れるなんて、なんと可哀そだろうと、口には出さなくても母の目はそう語っていた。


しかし、そんな母の考え方や行動が普通ではないとわかったのは、何年もあとのことであった。


母が父の暴力を、すっかりあきらめて受け入れていたのは、母が愛情深い家庭に育ったことを考えるともっとわからなくなってしまう。父が間違っていることを、もちろん母は重々承知していた。


どういう理由があろうと、母は絶対に父の行動を止めたり、声高に反対したりはしなかった。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその9へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その9

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その9


どういう理由があろうと、母は絶対に父の行動を止めたり、声高に反対したりはしなかった。その代わり母は、父の留守の間は家の決まりをすこしゆるやかにし、父の卑劣な言行の埋め合わせをした。


ジョーゼフが仕事に出ているとき、母はあたしたちに外で遊ばせてくれたのである。


ただ、父が帰宅するまでに戻り、誰もこの違反行為を一言も漏らさないというのが条件だった。


あたしは、たいていは母とリービーといっしょに家にいることが多く、お医者さんごっこをしたり、バービー人形と遊んだり、母のお手伝いをしたりしていた。


そろそろ父が帰ってくるころになると、母はあたしを表に出し、男の子たちを探しに行かせた。


あたしは「ティト―!ジャーメイン!マイク!マーロン!みんな早く帰って!」と叫びながら、通りを走っていくのだった。


あたしには、誰かが父のお仕置きに合うなんて、想像するのも嫌だったのである。


毎日、父のビューイックが家の前に停まるのを待つのは、まるで台風の襲来にびくびくしながら備えているような気分だった。


ご機嫌か、怒りの爆発か。それは誰にもわからなかったが、どちらにしろ、あたしたちはびくびくしていた。


このがっちり根を下ろした恐怖感が、いつもあたしたちの表情を暗いものにしていた。


たいていの子どもたちが、無邪気に楽しく過ごしているとき、あたしたちはいつも浮かない顔をしていたのだ。


父に対する不信感は、いきおい他の人々への不信に繋がっていったが、きょうだいどうしや、もちろん母に対してだけは別であった。


あたしたちは、オレを尊敬しろというジョーゼフの言葉に、ただ従うほかなかった。でも、心の中では、父に対する真実の愛情など持てるわけがなかった。


今にして思えばずいぶん悲劇的なことだが、当時は、他の子どもたちもあたしたちと同じ生活をしているものと思い込んでいた。


あたしたちにとって、父親というイメージは冷たくて、意地の悪い存在で、母親とは温かく優しいものであった。

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ほかに判断のすべもなく、そんなものだと思っていた。ごくたまに他の子どもたちの家に遊びに行くことがあっても、そこの父親が帰ってくるとすぐさよならをした。


そんなときマイケルは、びくびくした目をこちらへ向け、「帰らなくちゃ!」といきなり叫ぶのだった。


みんなはあたしたちのことを、さぞかし変だと思ったことだろう。あたしたちが、他の家の父親たちと楽しく過ごせるようになったのは、ずっとずっと成長してからである。


男親が自分の子どもたちを可愛がっているのを初めて目にしたとき、あたしとマイケルは心の底からびっくりした。


家への帰り道、二人は大声で、「ねえねえ、見た?あの人、キスしたり抱き上げたりしていたわね、自分の子どもなのに!…」


「ほんと、気色悪いなあ!」
と、帰り着くまでしゃべり続けずにはおれなかった。


このめったにない愛と冷酷さが相半ばする家庭生活は、きょうだいたちとあたしの間に、並はずれて深い愛と相互理解を生み、そして育てた。


いわゆる“仲良し家族”の中でも、わが家はすごく変わっていたのだ。あたしたちがお互いに心を寄せあったのは、ジョーゼフが共通の敵だったからだ、というのは否定できない。


誰だって、愛する人が辱められたり(はずかしめられたり)、ぶたれたり、品位を汚されたりしているのを見たら、ひどく心を痛めるに違いない。


あたしたちも、みんな、母にならったように思う。つまり、優しい言葉や行動で、ジョーゼフ与えられた痛みをなぐさめ合っていたのだ。


爆発しやすい父の正確に反応して、ジャクソン家の子どもたちは概して物静かで、非常に優しい性格に育った。


お互いに感情を傷つけることを恐れ、子どもとはどんなものか少しでも知っている人には、とても普通とは思えないほどだった。


つい最近まで、あたしたちは大声を上げることさえめったになかった。どうしてもしなければならないときは別として、ボクシングもやらなかったし、遊び半分でさえ、人と争うようなことはしなかった。


どんな子どもにとっても大切なのは、自分が大事にされ、愛されていると感じていることだ。


しかし、あたしたちは、学校に上がるころまでには、父親から自信とか自負心とかいったものは粉みじんにされていた。


そして当然のことながら、あたしたちは誰一人として、自衛のために父に反抗する勇気(無鉄砲と言ったほうがいいかしら)を奮い起こす者はいなかった。


ただ、マイケルだけは例外だったけれど。

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその10へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第一章その10

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第一章  その10



そして当然のことながら、あたしたちは誰一人として、自衛のために父に反抗する勇気(無鉄砲と言ったほうがいいかしら)を奮い起こす者はいなかった。
ただ、マイケルだけは例外だったけれど。


母はマイケルが生まれて間もないころから、この子は“変わってる”と言っていた。歩き始めも、言葉を覚えるのも早かったし、年にしては大変起用だった。


母は子どもたちのことはなるべく自慢しないようにしていたが、マイケルのことだけは、「天才とまでは言いたくないけど、この子には何か特別のものが備わっているみたいだわ」と認めていた。


キラキラした目をし、いたずらっぽい微笑みを浮かべたマイケルは、まるでエネルギーの固まりのような、疲れ知らずのわんぱく坊主だった。


マイケルには生まれつきリーダー的な素質があったが、威張り散らしたりはしなかった。


毎朝、登校前に、近所の子どもたちがわが家のちっぽけな玄関に集まり、マイケルが現れて、その日みんなでどんな遊びをするのか発表してくれるのを待ち構えていたものだ。


なんでもかんでも「マイケル」「マイケル」で、小さいながらもその世界では、彼はすでに有名人であった。


また、そのころ、マイケルは兄弟の演奏や歌や振り、表現のあり方について、すでにはっきりした意見を持っていた。


プロモーションのための写真を撮るにしても、この6歳の子がみんなに、「オーケー、ジャッキー、ここに立って、そう、こんな感じ。ジャーメインはジャッキーのとなり、でもこんなふうに…」と、小さな可愛い声でポーズをつけ、それがまた細かいところまで実によく目が届くのだ。


母がよくステージ衣装を縫っていたが、例えばパープルのツーピーススーツとか、白いシャツに黒いパンツとかを見せにくると、ジャクソン5のそのいちばん下の子が、「これがいい!」と指さして、大声で決定を下したものだった。そして、それがいつもぴったりであった。

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マイケルは素晴らしく元気で、自信のある子で、あたしたちの中でジョーゼフに反抗していったのはマイケルだけだった。


父は怒るといつもすぐ手を上げたが、ほかの子どもたちは黙って立ち、体を固くしてただぶたれるのを待つだけだった。ところが、マイケルはさっさと逃げ出してしまうのだ。


「つかまえたら、承知せんぞ、コイツ!」とジョーゼフは怒鳴ったが、とてもつかまえられるものではなかった。


マイケルは足が速く、立ち止まってジョーゼフに靴を投げつけたりしても、追いつかれはしなかった。


マイケルは口応えもよくしたが、たとえそれでまたなぐられるようなことになっても、いつも最後にひとしきりまくし立てないと、気がすまないようだった。


あたしたちはびくびくして身をすくめながら、「マイクは優秀なのに、なぜいつも反抗するのをやめないんだろう。あれでは、自分で自分の首を締めているようなものなのにね」と、いつも不思議がった。


でも心の中ではあたしたち男の子も女の子もみんな、ひそかにマイケルの大胆不敵さに感嘆の声を上げていた。


6歳のとき、あたしは一生忘れられないほどの打撃を受けた。優等生だったあたしは、いつも通知表がもらえる日を楽しみにしていた。

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父のジョーゼフが褒めてくれるとしたら、この時ぐらいしかなかったからである。


午後も遅くなったある日、あたしは初めての通知表を手にして帰ってきた。母が仕事で留守だったので、まず父に見せた。


父はバリバリっと封筒を破り、ちらっと成績表を見、先生の批評に目を通した。「ラトーヤはお勉強の成績は優秀ですが、きちんと声を出してお話ができません。あと一年、同じクラスに残ったほうがよいと思われます」と、先生がそんなことを書いておられようとは、あたしには思いもよらないことであった。


ジョーゼフは通知表を置くと、いきなり、平手であたしの頬を打った。そして、「2度と、こんな恥ずかしい思いをさせるんじゃないぞ!」と叫んだ。


それからズボンのベルトをはずした。いつもベルトを、愛用の鞭として使っていたのだ。金属製のバックルとしなやかな小枝のような鞭が、あたしの膚を焼けるようにしびれさせる。


「いや、やめて、おねがい!」と泣き叫んだが、父はあたしの声など耳に入らないようであった。


今でも目を閉じると、あの時の父の顔が瞼に浮かんでくる。怒りに駆られると、いつも形相を変えていたあの顔だ。


目は文字通り怒りに燃えて黄色く光り、額が延びて頭の真ん中くらいまで後退したように見えた。この時ばかりは、まるでゴムマスクなしでモンスターに変身したようだった。


「二度と、こんな恥ずかしい思いをさせるんじゃないぞ!2度とするな!」と怒鳴りながら、父は激しい平手打ちを加えてきた。


「これで、勉強しなくちゃならん、とわかっただろう!」父のボクサーのような拳が、あたしの顔や体に何回も突き刺さる。あたしは泣き叫んだが、ついには目が晴れ上がり、開けられなくなってしまった。


インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリーその11へ続く
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