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ラトーヤ自伝第七章その1かごの中の鳥ラトーヤ

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


マイケル・ジャクソン リアルカムバック 2006 《THE REAL COMEBACK Japan 2006》


第七章その1

“この生活が終わることはないのだろうか?
8歳の時と同じようにびくびくしながら、こうやって残りの人生を過ごすのだろうか?恐怖にうち震えながら?”

行くあてもなく、仕事のあてもなかったけれど、あたしは家を出た。



母が寝室に入ってきた時、あたしはスーツケースを半分ほど詰め終わったところだった。母は何も言わなかったが、その困惑ぶりと驚きは伝わってきた。


「引越しするわ。家から出て行きます」
母は一瞬あたしを見つめ、それからスーツケースに目を移した。信じられないものを見た目だった。


「家を出ちゃだめ、ラトーヤ、出て行かないで」と、母は懇願するように言った。あたしを脅して思いとどまらせようと、母はこれまで何回となく繰り返してきたことを言った(これからもそうするだろうが)。


「出て行くと危険よ。世間の人たちはお前が誰かも知ってるし、男があとをつけてくるかもしれない。誘拐されることだってあるのよ」


「でも、あたしどうしても出て行きます。もうこれ以上は我慢できないの」と、あたしは身の回りのものを集めながら言った。


廊下を隔てた寝室で聞いていた妹のジャネットが、あたしたちの話に加わった。「ラトーヤ、行かないで!行ってはだめよ!」


あたしは強く首を振り、両手にスーツケースを提げて歩き始めた。ドアまで来ると、突然、ジョーゼフの大きな体が前に立ちはだかった。「鞄を降ろすんだ、早くせんか」父が吠えるように言った。


父に立ち向かうなど、どこからそんな勇気がわいてきたのかはわからないが、あたしは強い口調で言い返した。


「いやだわ、あたし家を出るの!」
「よーし、通れると思うんなら、通ってみろ!」父はすごい目をした。


父がいきなり肩をつかんで、あたしを部屋に押し戻すような乱暴をしなかったら、あたしはきっと出て行こうとしただろう。


それにしても、りっぱに成人したひとりの女性に対し、どうしてこんなことができるのか。これでは、また6歳の頃に戻って、鞭で打たれた方がましかもしれない。


そんなことを考えながら、父に対する自分の無力さを、つくづく感じていた。


「もうお父さんにはついていけない!自分が家族全員の生活をむちゃくちゃにしているのがわからないの?」あたしは悲鳴を上げるように叫んだ。


妹は今にも父の激しい平手打ちが飛んできはせぬかと恐れ、あたしの腕をしっかりつかんで、「つまらないことしないで!ラトーヤ!出て行かないで!」と泣き声を上げた。


「まあまあ、座って気分を落ち着かせなさい。冷静になるのよ」叫びの中で、そんな母のなだめる声が聞こえてきた。


ジョーゼフは事態が収拾されたことに満足し、くるっと向きを変えて部屋を出て行った。


白いカーペットにスーツケースを放り出したまま、あたしはベッドに腰を降ろして激しく泣いた。嗚咽で息がつけないほどだった。


なぜ、なぜみんな、あたしを行かせてはくれなかったの!


「ラトーヤ、お前はこの家の人間なのよ。わかっているでしょう」母は子どもでも諭すように言った。「家を離れることなんてできないのよ、ね?わかった?」

0423latoya5.jpg



心は死んだも同然だわ、とあたしは思った。自由まで、あと一歩だったのに……あのドアから出て行きさえすればよかったのに……。


でも父の力づくの脅し、小さいころから心に植え付けられた母への感情、ジャネットの懇願と、すべてのものが超自然的な力であたしを抑えつけ、引き止めてしまったのだ。


ジャッキーやランディは黙って行かせたのに、その前にはリビーだって行かせているのに、なぜあたしにだけはこの不合理がまかり通るのだろう。


しかし、あたしがどこにどんな理由があって出て行こうと、ちちがあたしを家に置きたいと思えば、どこからでも探し出して、引きずってでも否応なく連れ戻すことはわかりきっていた。うるわしいとは、とても言いかねる光景である。
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何度も家を出ようと試みては失敗し、もがいていたラトーヤ。ジャクソン家の看板は彼女に、重くのしかかったいたのでしょうか。
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ラトーヤ自伝第七章その2へ続く

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ラトーヤ自伝第七章その2ジャクソン家の内部事情

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリ-
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


History


第七章その2

しかし、あたしがどこにどんな理由があって出て行こうと、父があたしを家に置きたいと思えば、どこからでも探し出して、引きずってでも否応なく連れ戻すことはわかりきっていた。うるわしいとは、とても言いかねる光景である。


これがわが家の典型的なやり方なのだが、翌朝、家族の誰もが何事もなかったように振る舞い、昨日の出来事を再び話し合うこともなかった。


それからの数年間、勇気を奮い立たせたり、すっかり絶望的になったりするたびに、いろいろと似たようなことが繰り返されたが、結果はいつも同じであった。


毎回、家出の企てが失敗するたびに、あたしはますます悲しい気持ちになり、自分の余生は本当にヘイブンハーストにしか残っていないのか、と感じられるようになっていった。


今になってあたしは当時を振り返り、わが身を責めている。
ラトーヤ、おバカさんね、どうして家を出なかったの?
必要なものは全部持っていて、失うものなんて何もなかったのに、と。



でも、あの頃は自分の力ではどうすることもできないほどに、愛と恐怖の念で身を引き裂かれる思いだった。


しかし何年も経たないうちに、自分には自分の人生を送る権利があると気づき、ついにはその道を見つけ出すことができたのだった。


あたしの家族にはいろいろ変わったところがあるが、その1つは、両親の行為がたとえどんなにあたしたち子どもを傷つけるものだとしても、“幸福なジャクソン一家”といった和やかな外観に、波紋ひとつ投げかけなかったことだ。


あたしたちはこの“幸福なジャクソン家”という表向きの看板を、世間に対してだけでなく自分自身にも掲げ続けていた。


矛盾していると思われるかもしれないが、父のそのような野蛮な行為や屈辱のさ中にありながら、あたしは今でも家族との美しい多くの思い出を大切に胸に秘めている。

jacksonfamily1.jpg


あたしたちはふざけ合ったり、冗談を言ったりして非常に親密だったし、みんな純粋に心からそう感じていたのだが、それは、実際に家庭内で進行していることを、自分たちで否定する口実になっていた。


家族生活の話を続けよう。
兄弟たちがファミリー・デーと称して、2,3週間ごとに自宅でのジャクソン家恒例の行事を始めたのだった。


たいていはあるテーマが設定され、例えばジャーメインの家など、裏庭にいろいろな娯楽や動物たちやゲームを集め、まるで本物のようなカーニバルをやるといったふうであった。


兄弟姉妹ばかりでなく姪や甥たちとも一緒に過ごせたので、あたしたちはみんなこのファミリー・デーを楽しみにしていた。


おわかりと思うが、兄弟たちは父の残酷な行為への反動のように、それだけ子どもへは深い愛情を注いでいた。


兄弟の1人が初めて父親になったとき、「ラトーヤ、ぼくはジョーゼフがぼくにしたと同じことを、自分の息子にしやしないかととても怖いよ」と、涙を流しながらあたしに話したのを覚えている。


しかし幸いなことに、兄弟たちはそれぞれに、父とはまったく違った態度で子どもに接している。


姪や甥たちはみんな行儀もよく、本当に気分のさっぱりした良い子たちだが、それは叩く代わりに愛情を示し、侮辱ではなく励ましを与えているからなのだ。


時に兄弟の1人が子どもに、「いいかい、パパがお前の年だったころは、そんなことをしたらお父さんに殺されていたよ」と言っているのを耳にしたりすると、あたしの笑顔も思わずこわばったものだった。


ジャッキー、ティト、ジャーメインそしてマーロンも、非常に穏やかで辛抱強い親だから、その息子や娘たちには父親が実際にわが子をたたくなんて信じられないことだった。


「ラトーヤおばさん、パパは小さい時、本当におじいちゃんになぐられていたの?」と、時々姪や甥たちに尋ねられたものだった。


そういうとき、あたしはただうなずくだけにして、すぐ話題を変えた。本当のことを聞かせたら、ジョーゼフおじいちゃんに対して幻滅するだろう、と思ったからではなかった。


孫が生まれると、世のおじいちゃんたちは、それまで仲の悪かった自分の子どもたちとの関係を修復しようという気になるものだ、とほかの家族から聞いたことがある。


悲しいかな、ジャクソン家はそうはいかなかった。
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ジャクソン家はいわば舞台を演じていたのだろうか、カーダシアン家のように?ジャクソン家のリアリティドラマも昨年末確かあったけど、あれも本当は違うのだろうか…
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ラトーヤ自伝第七章その3へ続く
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ラトーヤ自伝第七章その3 1万ドルの贈り物

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


マイケル・ジャクソン VISION【完全生産限定盤】 [DVD]


第七章その3

孫が生まれると、世のおじいちゃんたちは、それまで仲の悪かった自分の子どもたちとの関係を修復しようという気になるものだ、とほかの家族から聞いたことがある。

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悲しいかな、ジャクソン家はそうはいかなかった。
つい最近まで、父は自分の16人の孫の名前すら言えなかったのではないだろうか。


父は赤ん坊だったあたしたちに関心を持とうとしなかったように、自分の孫にもまったく無関心だった。



ところが、兄弟たちときたらこれとは正反対に、赤ん坊とさえ見ればまるで人を押しのけるようにして突進し、抱き上げてはあやす有り様なのだ。


「ぼくに抱かせてくれよ」
「いや、ずいぶん長く抱いたじゃないか」
「見ろよ、なんて可愛いんだ」
「まったくだ、笑顔が何とも言えない」


といったふうに、あたしたちの楽しい思い出のいくつかは、母のことや兄弟姉妹でわけ合ったよき時代でのことが中心になっている。

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ある日、あたしは兄弟に「あなたたちはしょっちゅうヨーロッパに行ってるけど、あたし、お母さんを連れて初めてヨーロッパに出かけるのよ」と、からかうような口調で言った。


その旅は、母と二人だけの特別なものだったが、出発前、マイケルがあたしに1枚の封筒を手渡して、「飛行機が上空まで行ったら、これ、お母さんに渡してよ、オーケー?」と、頬笑みを浮かべながら言った。


何だろう、と思った。離陸するとすぐ、バッグからその封筒を取り出し、「これ、マイクが渡してくれって」と母に手渡した。


「あたしに?」母は驚いて尋ねた。母は子どもたちから立派な贈り物をたくさんされていたが、いつもそのひとつひとつを初めてもらうように喜んで受け取っていた。


このときは、封筒の中に1万ドルの現金と1枚の紙が入っていて、母の大好きな歌の1つ〈ムーン・リバー〉につぎのような歌詞が書き添えられてあった。


“2人の漂流者、いま世界の旅へ…見るものかくも多き世界の旅へ…”。読んでいると、涙がにじんできた。


“どうか、楽しんできてください。しりごみせずに、何でもやってみましょう、ただ、まっしぐらに。お母さんの人生です、楽しんでください。愛するマイケルより”という献辞を読み終わった時、母もあたしもわあわあ泣き始めていた。


乗客はみんな、あたしたちをじろじろ見つめ、スチュワーデスは、何かご用は?としきりに尋ねていた。
(ムーン・リバーと言えば映画「ティファニーで朝食を)の有名な曲ムーン・リバー ~オードリー・ヘプバーン・スクリーン ・テーマ・ベスト


マイケルは母にぜいたくなプレゼントをしたあと、また贈り物をしながら、「お母さんには最高のものをあげたいんだ」といつも言っていた。


家にやってくる宝石商にも、「最高級品を持ってくるように」と命じていた。
トレーの上に並べられた金やダイヤモンド、そのほか宝石類を見て、マイケルとあたしはいつも迷った。


あたしには意見は求めるものの、弟は、結局は自分で選んだ。たいていはシャンデリアのようにキラキラした、大きくて派手なものだった。


その大きなダイヤモンドの入ったけばけばしい指輪などをかざしながら、「お母さん、きっとこれを気に入ってくれるよ」と、大声で言ったものだった。


「マイク、お母さんはそんな指輪好きじゃないわよ。そんなのはね、センスのないお年寄り向きだわ」

「いいさ、ラトーヤ。これがいちばん高くって、高級品だからプレゼントするんだ。それに、こんなのを欲しがっていると思う」


マイケルはあたしの言葉などまるで気にかけないのだ。
「いいえ、欲しがっていないわ」とあたしは言ったが、女としてのあたしの直感はやはり正しかった。


母はそんな宝石類を大事にしていたが、決して身につけようとはしなかった。そして、せっかく贈ってくれたのに気楽に使えない自分に気がとがめる思いをしていたようだった。


「あんまり立派すぎてね、わたしには似合わないんだよ」と、母はあたしに本心を打ち明けていた。


わが家のいちばんのお祝いは「母の日」だった。伝統的な5月第二日曜日ではなく、たいていは母の誕生日の直後にお祝いした。


母のびっくりする顔が見たいので毎年は行わなかったけど、1年1年と前回より盛大になっていった。


そのいちばん盛大な最後の母の日は1984年の春だった。

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んーん、なんて微笑ましい絵になる光景…赤ん坊を抱き上げあやす(スウィート)!
マイケルがフライトしたキャサママへ、1万ドルと手紙の贈り物をしたのは非常に有名になった話ですが、1991年頃は1ドル135円くらいだったでしょうか、ならば135万円くらいですね。すごいですよね!

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ラトーヤ自伝第七章その4へ続く

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ラトーヤ自伝第七章その4ジャクソン家盛大なお誕生日会

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


マイケル・ジャクソン リアルカムバック 2006 《THE REAL COMEBACK Japan 2006》


第七章その4

母のびっくりする顔が見たいので毎年は行わなかったけど、1年1年と前回より盛大になっていった。そのいちばん盛大な最後の母の日は1984年の春だった。


何カ月もかけて準備をしたけど、あたしの担当はビバリーヒルズ一流のレストランであるビストロ・ガーデンに、始まる時間までに母を車に乗せて行くことだった。


計画はすごく細かなところまで練られていて、レストランに行く途中で互いにみんながすれ違わないよう道筋まで決まっていた。


例によってジャーメインが指揮をとり、あたしにこう注意した。『ラトーヤ、こもことは誰にも言いふらすなよ。もしパーティの前にお母さんにわかったら、ケツを蹴っ飛ばしてやるからな』


ジョーゼフは自分にしかできないやり方で、もうすこしで何かも台無しにするところだった。


2人だけでちょっと昼ごはん食べに行きましょう、とあたしが母をその気にさせ、早く身支度をして、とせかしているところに、とっくに会場に行っているはずの父が、「そうそう、オレもそろそろ“あの”レストランに出かけなきゃな」と、わざと何回もさも意味ありげに繰り返すのだった。


しばらくすると父は、「それじゃ行ってくるからな、ケイト。お前もこの前のレストランに行ったらどうだ?」と何食わぬ顔で言った。


「どのレストランですって?」
「お前もこのレストランにいくんじゃないのか?」父はどう見てもあたしたちの計画の邪魔をしようとしていた。


あたしは時計を見ながら、これでは遅れると心配になった。そこへジャーメインから電話が入った。


「まだそこにいるの!みんなもう集まってるんだよ」
「ジャーメイン、お母さん、まだお着替えすんでないのよ」
「なぜ早く着替えるよう急がせないんだよ。何かあったのかい?」


「ジャーメイン、落ち着いて。お母さんに無理は言えないわ。それにジョーゼフが何度も変なことをほのめかすし…。もしかしたら、ひがんでお母さんに言っちゃったかもしれない」


「ジョーゼフのやつ、殺してやるからな!」
「すぐ行くわ、じゃあとで」


父はやっと出かけて行った。あたしは母と車でビストロ・ガーデンへ向かった。店に入ると、その大きな部屋にみんなの叫び声が響いた。
(動画youtubeお誕生日会の様子は←こちら)


katharine jackson birth


「おめでとう!」
「まあ、うれしいこと!信じられないくらい」母は涙をこらえながら言った。その日はほとんど一日中、母はハンカチを目にあて、あたしたちは次々にプレゼントをした。


それぞれが、母をびっくりさせようと心をこめたものだった。子供のあたしたちや孫たちは、それぞれに詩を書いたり、歌を歌ったりスピーチをしたりして、どれほど母を愛しおばあちゃんを愛しているかを見せようとした。


マイケルが歌うと、いつもこの弟と張り合っていたジャーメインが立ちあがって、
「お母さんに“誰よりも”最高の歌を捧げます」と言い〈愛する母へ〉という歌をしみじみと心をこめて歌った。


母はまた涙を流した。それからあと、ジャーメインのこの歌を聞く機会があると、母はいつも涙ぐんでいた。


ランディはスピーチをした。「あまり言うこともありませんが、…」と話し始めると、「じゃ、なんでほかのものを用意してこなかったんだ?」と、ジャーメインが自分の席から笑いながらはやしたてた。


「兄さんのバカ!黙ってろよ」ランディが言い返した。
「さて、お母さん、あなたは本当に素晴らしい方です。あなたに、ほんの小さなプレゼントを用意しました」


というランディは母に箱をひとつ手渡した。その中には、ダイヤをはめ込んだ豪華な3センチ幅のアンティークブレスレットが入っていた。


そこで、あたしたちは母の大好きなカントリー・シンガー、フロイド・クレーマーを登場させた。クレーマーは、母のためにわざわざロサンゼルスまで飛んできたのだ。

floyd cramer
(floyd cramer)

そのクレーマーが歌っている間、母は頭を振りながら、「信じられない!」と何回も感激していた。(※ピアノの魔術師とも呼ばれたフロイド・クレーマーはエルビス・プレスリーのレコーディングでも有名。)


デザートになる前に、母をプレゼントが置いてある表の方へ連れて行った。
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なんて素敵な時間でしょうね。キャサリンママのために皆で愛をこめてお祝いする…あ~素敵なジャクソン・ファミリー!だけどジョー父はどこだろう?
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ラトーヤ自伝第七章その5へ続く

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ラトーヤ自伝第七章その5母キャサリンへロールスロイスのプレゼント

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第七章その5

デザートになる前に、母をプレゼントが置いてある表の方へ連れて行った。
すごい銘柄のブルゴーニュワインを添えた、ベージュのロールスロイスだった。


車には大きなリボンがかけられ、屋根の上で蝶結びになっていた。母はまたうれし泣きした。前回はメルセデスを贈ったので、今回はロールスロイスがいいだろうとみなで考えたのだった。


「今度はね、みんなで“船”を買ってあげるよ」と、ジャーメインは胸を張って言ったけれど、母が船など贈られてどうするか、あたしには想像もできなかった。でも兄弟たちのことだから、いつか本当に船を贈るかもしれない。


またレストランに戻り、あたしは何分か短いスピーチをし、母の目をこちらに向けるようにした。

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「お母さん、この特別な瞬間をあたしたちはみんなで心待ちにしていました。みんながお母さんを愛しているかをお伝えし、お母さんがこれまであたしたちにしてくれたすべてのことに対し、どんなに感謝しているかをお伝えいたします……」


あたしが話している間に、あたしたちが“ダディ”と呼んでいた母の年老いた父が入ってきて、ゆっくりと母の席に近づいてきた。


母が向きを変えて父親を見たとたん、母は「ダディ!」と叫んで泣きだし、抱きついていった。2人ともとても感じやすい人たちだったので、ずっと目をうるませて嬉しそうに語り合っていた。


ジョーゼフは始めから不機嫌で、席に着いたままひげをなで続けていた。そして皮肉っぽく言った。「ケイト、確かにみんなお前のことを愛しているよ」放ったらかしにされたと感じ、おそらくは傷ついた父の思いが、その顔に現れていた。


母の話では、父はときどき、「母の日には、わが家は花でうずまってまるで葬儀場じゃないか。子どもたちはお前を愛しているが、オレのことなんか愛しちゃいないさ」と言っていたそうだ。


家族のだれもが父の誕生日を認めず、お祝いもプレゼントもしたことがない。父に対する辛い悲しい気持ちがそうさせたのだろう。でも、父に申し訳ないという思いはやはり持っている。


ときどき家族そろって出かけることがあると、ジョーゼフは1人でやってきて5分か10分くらい一緒にいると、また黙って1人で帰っていくのだった。


ある年、ジャーメインは兄弟たちを集めて言った。「みんな考えてみろよ、ジョーゼフはのけ者にされているという思いが凄く強いんだ。ぼくたちで何かしてあげなきゃな」


「でも、そんなことしてあげる値打ちなんかない男だよ、本当だよ」誰かが答えた。

「いや、何かやろうじゃないか」ジャッキーが口をはさんだ。長男のジャッキーは家族の中で一番ジョーゼフの虐待を受けているのに、いつも父の味方をした。


ジャッキーのこの発言以来、兄弟はときどき父を食事に連れ出したけれど、母の日とは打って変わって空気は張りつめ、会話もぎこちなかった。


そうした夜のことを、父は父親としての喜びを失って後悔しているからあんなに黙り込んでいるのだ、とでも考えれば慰めにもなったけれど、残念ながら父には後悔している様子などなかった。



1984年の夏、ジャクソンズは、史上最大のコンサート・ツアーを開始した。この演奏旅行は、ジャッキー、ティト、ジャーメイン、マーロン、マイケル、それにランディがいっしょになってレコーディングしたアルバムの名にちなみ、“ビクトリー・ツアー”と名付けられた。


1981年のツアー以来、マイケルの人気は兄弟たちをはるかにしのぐものとなっていた。だから、この世界的に優れたエンターティナーがなぜわざわざグループの一員としてまた公演するのか、いろいろと取り沙汰された。
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確かになんでビクトリー・ツアーはいまさらマイケルとジャクソンズなの?って当時思っていました管理人です…(;一_一)
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ラトーヤ自伝第七章その6へ続く
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ラトーヤ自伝第七章その6マイケルへの死の強迫

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第七章その6

1981年のツアー以来、マイケルの人気は兄弟たちをはるかにしのぐものとなっていた。だから、この世界的に優れたエンターティナーがなぜわざわざグループの一員としてまた公演するのか、いろいろと取り沙汰された。


まるでチャリティショーのように思われもした。でも真相は、ジョーゼフ、母、そして兄弟たちがマイケルにプレッシャーをかけ、無理矢理にグループに加えさせたものだった。


確かにマイケルは1人だけで素晴らしい才能のあるスターだったが、ジャクソン・ファミリーに囲まれていたほうがもっと素晴らしいと、父はいつも公然と主張していた。


仕事の上でも個人的にも、マイケルがジョーゼフに距離をおけばおくほど、ジョーゼフは何かにとりつかれたようにマイケルをグループに再加入させようとした。


この“再結合”ツアーを仕掛けたジョーゼフの動機は、純粋に感情的なものからきていたのではなかった。


兄弟たちの仕事はもう思うままに取り仕切れないということで、ジョーゼフが苦痛を覚えていたことは確かである。

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ところが、突然、マネージャーとしてのジョーゼフに対する過去の争いごとや不満はみんな帳消しにして、父は母と共に純益の15パーセントを受け取る共同プロモーターとして復帰することになった。


もっと驚いたことに、あの母がファミリー・ビジネスにおける一勢力として、支配権を持つかもしれない実力者としての姿を現したのだった。


前年の秋に発表されたその瞬間から、ビクトリー・ツアーは誰にとっても頭痛の種だった。ジョーゼフが命令を出せば、誰もが黙って言われるままに動き、事が運ばれた遠い昔とは時代が違っていた。


父とワイスナ―とデマンを辞めさせて以来、兄弟たちはそれぞれにマネージャーとアドバイザーを持ち、何をするにも簡単にはいかなくなったからである。

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マイケルにはフランコ・ディレオとジョン・ブランカがついていた。ほかの兄弟たちと父母にも、それぞれ代理人が控えていた。


それにプロモーター、コーディネーター、アドバイザー志願者、そのほかの取り巻き連中がまるで雑草のように生まれてきて、少しでも有利な地位を手に入れようと家族に付きまとっていた。


そういった人たちの大部分は、あたしたちが会議を開いて話し合い、過半数で決定するやり方に不満を持っていた。


失敗の第一は、何事も派手なボクシングの興行主、ドン・キングをツアーの運営に当たらせると、母とジョーゼフが決定したことだった。


あたしたちは何人かの経験が深くて名も知れたコンサート・プロモーターに面接していたのだが、どういうわけか父はこの仕事にはキングがぴったりだと、兄弟たちのほとんどを説得してしまった。


この自称世界最大のプロモーターは何回もジャクソン家を訪れ、自画自賛の退屈な長話をした。「わたしは…」「わたしは…」と自慢話ばかり延々と繰り返した。


キングが訪問してくると、マイケルとあたしはファミリー劇場最後列に並んで座り、キングの電気ショックにでもあったように逆立った髪型やキラキラする指輪などを見つめ、「どうも信用できないな、ああ、どうしよう」と胸の中につぶやくのだった。

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「今やあなた方は、黒人をプロモーターにしなきゃなりません」堂々とした風采のキングは、子供でも叱りつけるような大声を出した。


「何百万ドル、何千万ドルと稼ぎながら、それをなぜ白人に渡さねばならんのです!」キングの目には金ばかりが映り、もっと大きな問題が見えていなかった。


つまり、これ程のツアーになれば、誰もが肝をつぶすほど大変な裏方業務があるのである。人種とか金とかいった問題ではなく、兄弟たち、特にマイケルの身の安全を守るだけでも大変な苦労なのである。


《スリラー》以来、マイケルは数え切れないほどの死の脅迫を受けており、最初からツアーに反対していた理由のひとつはこの脅迫という問題にあった。

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ドン・キングはマイク・タイソンのプロモーターとして有名ですね、彼の手腕は音楽プロモーターとしてはどうだったんでしょう?ボブ・アラムとならぶ2代ボクシングプロモーターではありますけど…髪はいつしか逆立つようになったらしい…??
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対立するジャクソンファミリーラトーヤ自伝第七章よりその7

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第七章その7
《スリラー》以来、マイケルは数え切れないほどの死の脅迫を受けており、最初からツアーに反対していた理由のひとつはこの脅迫という問題にあった。


「ラトーヤ、ぼく、すごく怖いんだ。脅迫は何度も受けたことがあるけど、今度の場合は違うんだ」と、マイケルは本心を打ち明けた。

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(ショーン・レノンとヨーコ・オノ)

ジョン・レノンの息子、ショーン・オノ・レノンはよくヘイブンハーストに遊びに来たものだが、1980年、妄想に駆られたファンの手で暗殺されたジョンのことは、有名人なら誰だって特に忘れられないだろう。


これに似た運命の亡霊が、いつもマイケルの心を悩ませていたのを、あたしは知っていたのだ。

sean ono lenonon

ファンの安全も気がかりだった。兄弟たちのコンサートを観に来るファンはだいたいが規律を守ってくれたけれど、群衆というものは潜在的に危険をはらんでいるものだ。


1979年、警備体制に根本的な手抜かりがあって、シンシナチのWHOコンサート会場の外で11人のファンが踏み倒されて窒息死したことがある。


今回のツアーは低年齢層の子どもが押し寄せる率が異常なほど高く、特別に安全性への配慮が必要だった。


もう1つの問題は定員オーバーであった。例えばカンザスシティのスタジアムでは、公式の収容能力は45000人だったけれど、スタジアム従業員の友人家族や親類、それにツアー関係者を含めると60000人近くに膨れ上がっていた。このような超満員の会場で惨事が起こらなかったのは奇蹟と言っていい。


「今回のツアーの仕事をうまく処理できる有能なプロモーターと契約すべきだ」マイケルは主張したが、その忠告は聞き入れられなかった。


「そんなことは問題じゃない」とジョーゼフが言った。「キングには金があるし、このツアーをやりたがっている。オレはうまくいくと思うよ。金を払うんなら、黒人のプロモーターにこそ払うべきだよ」


「それに、マイケルとラトーヤは、いつもグルだからな」と、ジャーメインが父のあとに、いつもと同じような言葉を意地悪くつけ加えた。


「でも兄さんにはわかってない」とあたしは口を挟んだ。「いろんなことが間違った方向に進むことだってあるのよ。だから、いちばんいい人を選ぶべきだと思う。他にも立派な黒人のプロモーターがいるわ」


「ドン・キングはコンサートプロモーターでさえないんだ」マイケルが指摘した。

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(ショーン・レノン)

1974年このかた、キングは記念するに足る大試合の興行はいくつか手がけているが、コンサートは初めてであることは事実だった。


「キングは音楽のことを知らない。群衆のこともわかっていない。彼はボクシングのことは知っているけど、この二つは全く別物なんだよ」


ジョーゼフはマイケルとあたしを睨みつけながら、苛立たしそうに言った。「別物だからどうだというんだ。プロモーターはプロモーターだよ。キングは会場をいっぱいにできる、それで充分だ」


どのマネージャーも弁護士も、みんな家族全員に勧告したことは言うまでもない。ディレオとブランカは次の点を指摘した。


キングはかつて賭博のノミ屋をやっていたこと、殺人罪で服役したこと、また、プロモーターとしていつも金銭上の不正が疑われていることなどである。マイケルはこれを聞いてショックを受けた。


「だからキングにこのツアーには関わってほしくないんだ」マイケルはあくまで主張したが、やはりムダであった。


他の意見が通った時、マイケルはこう宣言した。「オーケー、ドン・キングがプロモーターになれても、ぼくはこのツアーから銅貨1つだってもらわないぞ。全部慈善事業に寄付するんだ」


弟マイケルが避けたかったのは、ドン・キングと関わりたくなかったためだけではない。ジョーゼフとも関わりたくなかった。


芸能界の仕事に見せていたジョーゼフの洞察力や勘は、もうすっかり衰えていたのだ。


今回のツアーは訴訟で苦しめられるのではないか、とマイケルとあたしは予測した。そしてその矢先にもう法律関係の文書が飛び交うようになった。


いろんなことが混乱し、ジャーメインは会計士にツアー計画が進んでいるのかどうか問い合わせたことさえあった。


多くの人間が関わりすぎ、権力争いになっているとティトやジャッキーはこぼした。このツアーを正式に発表するために、ニューヨークのタバン・オン・ザ・グリーン・レストランで兄弟たちは記者会見を行った。


このときはドン・キングがほとんど1人でしゃべっていた。しゃべらなかったのは、ドン・キングの記録映画を上映した15分間だけだった。


その後マイケルは、キングがマイケルの代弁をしたり、代理人になったりしてはならないことを決めた。法的な文書をキングに提示した。キングは非常に悔しがった。
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マイケルはこのドン・キングには従わない方向へと意思表示していき、さらなるファミリーの不協和音を際立たせて…さてどうなっていくのでしょう
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ラトーヤ自伝第七章その8へ続く

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ジャクソン家深まる溝ラトーヤ自伝第七章よりその8

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第七章その8

その後マイケルは、キングがマイケルの代弁をしたり、代理人になったりしてはならないことを決めた。法的な文書をキングに提示した。キングは非常に悔しがった。

victory tour


マイケルはツアーに参加はしたけれど、芸術的に意見の合わないことは、いくらキングやジョーゼフがやらせようとしても、決してやらなかった。最初、このビクトリー・ツアーにはリビー、ジャネットそれにあたしが加わるはずだった。


あたしたち姉妹3人はそれぞれに、ツアーの前かツアー中、またはツアーが終わってからレコードを出す予定になっていた。


当時、ジャネットとあたしのマネージャーだった父は、このツアーを宣伝の絶好の機会だと考え、オープニングン未3人が1曲か2曲歌えるようにしてくれ、とマイケルに頼んだ。


はじめマイケルはいいと言っていたけれど、そのうちに考えを変えてしまった。「ぼくはこのツアーをオズモンド・ブラザーズまがいのものにしたくないんだ」と説得され、あたしは納得した。

osmond brothers
(Osmond Brothersオズモンド・ブラザーズ)

あたしたちはみんなで仕事をするのは好きだったけれど、ラスベガスでの公演のように9人全員で舞台に上がるショーになってしまうこともよくわかっていた。


ドニー・オズモンドはよくあたしたちを訪ねてくれたが、そのときマイケルはいつもこう注意していた。「健康そのもので、良い子良い子ばかりのオズモンド・ブラザーズというアーティストとして扱われたいと思っても、お客さんは“彼は良い子グループの1人だった”としか覚えていないからね」


1989年にドニ―がヒット曲〈ソールジャー・オブ・ラブ〉でカムバックし、かつてのイメージを克服できた時あたしは喜んだけれど、それまでにずいぶん時間がかかっている。


まさにマイケルの言った通りだ。アーティストは、観客に与えるイメージをいつも真剣に検討しなければならないのだ。


前に書いたようにマイケルが「ノー」と決めたとき、ジョーゼフはマイケルに妥協を求めた。あたしたち3人のレコードを、休憩時間に何曲か、かけるという案だった。


マイケルはこれも断り、他の兄弟たちも同意見だった。あたしはあまり気にしなかったけれど、妹のジャネットの反応は違っていた。


ひと言つけ加えると、この妹にはなかなか恨みを忘れないようなところがあった。5年ほどあとのことだが、ジャネットのアルバムがヒットし、ジャーメインのソロツアーのときその曲を歌ってほしいと彼が頼んだことがあった。


ジャーメインと兄弟たちの1989年のアルバム〈2300ジャクソン・ストリート〉があまりヒットしなかったのを知っていたジャネットは、ジャーメインの厚かましさが信じられなかった。

「ジャーメインにはずっとヒット曲がなかったのに、オープニングにあたしに歌ってほしいんですって!」とジャネットはあたしにこぼした。


「それで、彼になんて言ったの?」
妹は意地悪そうに笑って、「何て言ったと思う?ラトーヤ。ビクトリー・ツアーのこと覚えてるでしょう。“妹たちには1曲も歌わせない”“休憩時間中も妹たちのレコードは流さない”って言ってたの、覚えてるわね。あたしはそう簡単に忘れるほうじゃないの。それでジャーメインに言ってやったわ、絶対に歌いませんって」
この本のコメントを求められた時、ジャネットはこの部分の記述を「うそっぱちよ、そんなの!」と否定していましたね。さて本当はどうなんでしょう~~?)

ビクトリー・ツアーは、兄弟たちの間にも苦々しい思いをさせた。みんな集まってショーの構成を話し合っているとき、ジャーメインがマイケルを非難したことがあった。


victory tour 2

マイケルとしてはジャーメインのソロについて自分の考えを言っただけと思っていたのに、“マイケルは兄の自分を指図しようとした”と言うのである。


マイケルは観客の喜ばせ方が非常に上手く、ジャーメインの歌がもっと喜ばれるようにと心から望んで意見を言ったのだった。


ジャーメインのほうはそうとはとらず、「マイケルのやつ、ぼくを悪く見せたいんだ」とあたしに本心を打ち明けた。

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ジャーメインはジャクソン家の中では特に自意識過剰なタイプなのかな?それにマイケルに嫉妬してる?
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ラトーヤ自伝第七章その9へ続く

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ビクトリー・ツアー不吉な予感ラトーヤ自伝第七章よりその9

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


第七章その9

ジャーメインのほうはそうとはとらず、「マイケルのやつ、ぼくを悪く見せたいんだ」とあたしに本心を打ち明けた。


「そんなことはないわ、それは違うわよ」
「いや違ってない。きみはマイケルを知らないんだ。あいつは危険な男だぞ」ジャーメインは低い太い声で言い張った。


「ジャーメイン、マイケルはあなたやグループ全体のことを考えているだけよ。彼は陰険なことなんかしてないわ。マイケルはただ全員が素晴らしく見えるよう、願っているだけよ」


予想した通り、マイケルが提案した曲はどのショーでもすごい喝采を浴びた。ところがジャーメインは衣装1つにも競争心を燃やし、「ステージに立つと、ぼくの衣装が一番良かったな」と自慢していた。


「このツアーが終わったら、今度はソロ・ツアーだ。もっとたくさんお客さんを集めてやるぞ」


“どんな理由があってジャーメインはこんな風に考えるんだろう”あたしは不思議に思った。最新の彼のレコードを聴いても、彼が自分で思っているほどそう簡単にことが運ぶとは感じられなかった。


でも、それがジャーメインなのだ。確かにマイケルからは謙虚さというものを学ぶ必要があるようだ。


そのマイケルのほうは、新しいアルバムを出そうとする度にあたしにその曲を聞かせては、「どう思う?気に入った?」と心配していた。


これとは対照的に、ジャーメインは「はい、ごほうび」と、さも満足そうに新しいレコードを手渡し、部屋の中を気取って歩き回りながら、「大ヒットになるぞ!まっすぐトップだ!見てろよ!」と得意そうに叫ぶのだった。

wanna be startin somethin


夏に予定されたツアーの開始日が近づくにつれ、報道関係者の間では舞台裏のいざこざや陰謀の話で持ちきりになった。マスコミが自分の家族をいろいろ話題にするのを、何年間も個人的に愚痴を母は、どうにかしなければと決心した。


母は最初の記者会見を自宅の門前で行い、自分の胸中を語るとともに、自分の傍らに立っているドン・キングとジョーゼフが、依然としてツアーを取り仕切っていることを改めて強調した。


実に奇妙な話だが、この時の記者たちの目には、彼女こそが実はツアーの統率者だと映っていたのだった。


ジェット誌とのインタビューで、母は黒人プロモーターを起用することも約束し、ショーに反対していたアル・シャープトン牧師をなだめた。
アル・シャープトン牧師の記事はこちら


シャープトンはニューヨーク出身の、当時あまり知られていない黒人運動家(アジテーター扇動者と呼ぶ人もいる)で、ジャクソンズ・ショーをボイコットすると脅していた。


あとでマイケルは個人で記者会見を行い、批判されていたチケットの販売方針の変更を発表した。


最初チケットは、4人一組に限り30ドルとされていたのだ。ツアーのスタートが迫るにつれ、誰もが明らかに強いストレスを受けていた。


兄弟たちを取り巻く嵐の渦の中で、すべてのことが完全に進むよう全員が猛烈な働きぶりを見せた。


ティトはバンド・リハーサルを行い、マイケル、ジャッキー、マーロンは振り付け、ランディはサウンドの担当、マーロンは照明の監督、また、マイケルはセットデザインと全体的なコンセプト作り、ジャーメイン、ティト、ジャッキーは大量の人集めに奔走した。


同時にアルバム〈ビクトリー〉を梱包したりして、約5カ月間にわたる巡業に備えた。


ツアースタートの前から、いろいろと不吉な前兆があったのだ。まず、エピックレコードがジャーメインの新しく契約したアリスタに対し、ジャーメインとマイケルのデュエット曲〈テル・ミー・アイム・ノット・ドリーミン(トゥー・グッド・トゥ・ビー・トゥルー)〉の発表を禁止した。


ジャーメインはこのシングル盤がヒットチャート1位になると信じていたので、すごく動揺した。


1984年の1年間を通じ、マスコミがビクトリー・ツアーに関して膨大な量の情報を流したことを考えると、ツアーはジャーメインにとってはいい気分転換になった。

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ジャーメインはモータウンを離れジャクソンズ復帰をかけてたし、それはもう必死だったんでしょうか~。このあともジャクソンズの受難は続きます。
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ラトーヤ自伝第七章その10へ続く

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ジャッキーの事故の真相ラトーヤ自伝第七章よりその10

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫



第七章その10

1984年の1年間を通じ、マスコミがビクトリー・ツアーに関して膨大な量の情報を流したことを考えると、ツアーはジャーメインにとってはいい気分転換になった。


続いてジャッキーが足にけがをした。「スポーツ中の事故」とされたが、そうではなかった。

victory tour 35


イーニドの車でフェンスに押さえつけられ、足を骨折するという思いがけない事故だった。ジャッキーは入院し、5ヶ月は松葉杖に頼ることになった。


公演はできなくなったけれど、ツアーの最終日までグループに同行し、不自由な足で舞台に上がって観衆に手を振った。


そして世界で最も誇り高き兄は、あたしといっしょに舞台の袖に立ってステージを観ていた。「いいなあ、あいつら本当にイカすよ、な?ラトーヤ!本当にすごいな」とジャッキーはしきりに感激していた。


7月6日、カンザスシティのアローヘッド・スタジアムでビクトリー・ツアーの幕が上がった。これまで起こっていた問題のことなど、もう考えていられなかった。


マイケルはこれまでになくいいステージを見せた。ライトが落ちてレーザー光線がめまぐるしく走ると、スモークや雷鳴がステージをすっぽりと包みこんだ。


終曲の〈シェーク・ユア・ボディ(ダウン・トゥ・ザ・グランド)〉が高まったあと、次第に夜空の果てに消えていくまで、観衆はまるで催眠術にかかったみたいだった。


ショーはランディの登場から始まった。「さあ、起きるのだ、世界よ!そしてこの王国を見るのだ!」と言う朗々とした歌声の中で、アーサー王に扮したランディががっしりとした石から剣を取り出すと、やがて巨大な階段の上に5人が姿を現す。


その背後は煌々たる白色のライトだ。恐れるものなく、歩調を揃えて階段を下りてくる彼らは、まるで神々のようだ。

victory tour 33



その足音はスタジアムいっぱいに響き渡る。彼らがステージの正面に向かってくると、観衆は興奮してヒュウヒュウと声をあげた。と、熱狂的な〈ワナ・ビー・スターティング・サムシング〉が歌いだされるのだった。


兄弟たちの公演を見るたびに、あたしはいつも驚嘆の声を挙げたけれど、ビクトリー・ツアーもその例外ではなかった。


覚えていてほしいけど、あの人たちはあたしの兄弟なんですよ。


彼らのステージを袖から見ていると、本当に素晴らしくて、他に比べるものがないほどの才能が伝わってくる。


ときどきあたしは、みんながすぐ身近に彼らのショーを見ることができればいいな、と思うことがある。


そんなすごく近いところからだと、歌や走るように早い目の動きやアクションにばかり気を取られていた“目”に、彼らの持つ本当の迫力がはっきり映ってくるのだ。


彼らがくるっとスピンするたびにしゅーっと音がするのがわかり、流れ落ちる汗が彼らのまわりに渦巻いているのがはっきりと見えるだろう。


ステージの上の彼らは、もう単なるエンターテイナーという存在ではない。彼らには生まれついた迫力があり、そのパワーと美しさはとても筆や口では表現できない。


ショーはファンとステージがひとつに溶け合って進んでいった。ファンはマイケルがムーン・ウォークをするたびに絶叫し、レーザー光線が交錯しスモークが焚かれると息をのんだ。


兄弟たちが何か語りかけるたびにキャーキャー叫んだ。まさに熱狂的といってよかった。でも、なんといっても音楽が素晴らしかった。


〈アイ・ウォント・ユー・バック〉や〈ビリー・ジーン〉、〈ラブリー・ワン〉、〈ハートブレイク・ホテル〉、〈スリラー〉、〈ワーキング・デイ・アンド・ナイト〉、それに無伴奏での〈アイル・ビー・ゼア〉、〈ヒューマン・ネイチャー〉、〈シーズ・アウト・オブ・マイ・ライフ〉と、1時間半に及ぶ歌と演奏の間、ファンの叫び声が会場いっぱいに轟いたのだ。


ジャーメインがソロで自分のナンバーを歌った時だけはファンが静かだった、と書いた記者もいたけど、ファンはそれなりにうっとりしていたのだ。


このときのショーは観ていてすごく興奮したけれど、悲しいこともあった。
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ビクトリー・ツアーの壮大さはすべての人をとりこにしましたね。思い出しても管理人はしびれてしまいます。
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ラトーヤ自伝第七章その11へ続く

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