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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第六章その1プリンスからの求愛

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫

フォー・ユー


その1

80年代の初めのことをときどき振り返ってみるが、特にこれと言った出来事はなかったな、と改めて思う。たぶん来る年も来る年も、家庭生活に変化がなかったからだろう。


若い女性が思い悩みそうな友情とかロマンスとかいった問題も、あたしには無縁だった。


母はあたしたちみんなをとても愛してくれたけれど、今にして思えば、それが本当の愛だったかどうかは疑わしい。


男性と交際したり恋愛する喜びを、一度も味わったことのないあたしが、母には心配ではなかったのだろうか。


いつの日か、白いウエディングドレスをまとい、教会の通路を歩く娘の姿を見たいという、母親なら誰でもが抱く願いを、母は持っていなかったのだろうか。


母親になることは人生最高の喜びをもたらすものだとよく言われるが、母は、あたしが子どもを生むことは望んでいなかったのだろうか。


家でも王国会館でも、デートやセックスについては厳格な清教徒的な考え方が賞揚(しょうよう)されていたので、あたしもこの2つについてはかなり頑なな態度をとった。


デートは結婚を前提としてのみ許されるものだし、結婚を伴わないセックスは罪悪だと信じ込んでいた。ごく最近まであたしはそうだと信じ続けていた。


一度も手にしたことがないものは、手に入らなかったことを悔やみようがないとは言われるが、あたしのこれまでの人生で、できなかったから悲しいと思ったことは何もなかった。


20歳代になるまで、男の人のことは本当にあまり考えなかった。もしあたしが結婚して家を出たら、母を死なせることになるとわかっていたからだろう。


それに誰かが心から好意を示してくれたりしても、あたしはいつもそれに気づくことさえなかったほどだった。


兄弟がたくさんいる中で育ったあたしは、友だちとしての男性は好きだったけれど、男女間の言葉にならない機微にはまるっきりうとかった。

Prince11

プリンスの〈ソフト・アンド・ウェット〉が発売されて間もないころ、当のプリンスがローラースケートパーティで、恥ずかしそうにあたしに自己紹介してきた。

「ハーイ」と声をかけられ、
「ハーイ」と、あたしは何気なく答えた。

「ぼくプリンスです」
「ええ、知ってるわ」彼の大きな褐色の目、柔らかそうな口髭、それに縮れのないストレートな黒髪は間違えようがなかった。


あたしはスケートをはこうとして腰をかけていたが、彼はそのあたしの高さにやっと届く背丈だった。


「ぼくきみに夢中なんだ。わかってほしい、この気持ちを」彼は情熱的にささやいた。
「まあ」

あたしは、いつもそうやって女の子を口説いているのか、と思ったが、
「きみの写真でも何でも、全部持っているんだ。きみのことなら何でも好きなんだ」

と言われて初めて、彼が声をかけてきた本心がわかった。
だが彼の声はしだいに小さくなり、言葉を使い果たしてしまったようだった。


「まあ、素敵だこと」
たいていの女の子なら、ここでキスするか、ピシャっと平手打ちするかのどちらかだろうが、あたしは立ち上がって、「じゃ、今晩楽しんでね」と元気のいい言葉を残し、逃げるように滑っていってしまった。

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プリンスの愛の告白にうまく対応できずにいた純情なラトーヤだったのか…
エホバの証人の信仰心は揺るぎないものなんでしょうか、でも堅いですね。

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第六章その2へ続く 

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第六章その2ジェット機帰宅の兄弟

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫

georgemichael02.jpg

その2


「まあ、素敵だこと」
たいていの女の子なら、ここでキスするか、ピシャっと平手打ちするかのどちらかだろうが、あたしは立ち上がって、「じゃ、今晩楽しんでね」と元気のいい言葉を残し、逃げるように滑っていってしまった。


1980年の秋、兄弟たちは自作の第二アルバム〈トライアンフ〉を発売した。売り上げでは〈ディスティニー〉をしのぎ、〈ラブリー・ワン〉〈ハートブレイク・ホテル〉という2大ヒット曲の記録を更新した。


アルバムの中の〈キャン・ユー・フィール・イット〉は幻想的で素晴らしいビデオになったが、あたしには、この種のものとしては極めて独創性に富む作品に思える。


(アルバムはコレ)

トライアンフ(紙ジャケット仕様)


曲の内容は…
1. キャン・ユー・フィール・イット
2. マイ・ラブリー・ワン
3. ユア・ウェイズ
4. エブリバディ
5. ハートブレイク・ホテル
6. 時は誰も待たない
7. ウォーク・ライト・ナウ
8. ギブ・イット・アップ
9. ワンダリング・フー
10. ハートブレイク・ホテル (シングル・ヴァージョン) (ボーナストラック)
11. ウォーク・ライト・ナウ (ディスコ・ミックス) (ボーナストラック)
12. ウォーク・ライト・ナウ (インストゥルメンタル・ミックス) (ボーナストラック)



このビデオでは、ジャッキー、ティト、マーロン、そしてランディは、天空の星の微粒子が降り注ぐ中で、喜びと知恵とみ教えを雨と散らせている、全能で慈悲深い創造者として登場する。


爆発する太陽から姿を現し、都会のビル群を超えてそびえるように立ち、虹を押し上げ、マイケルが手をひとつ叩くと彗星が生まれるのだが、そんな彼らはまるで神のように見える。


〈キャン・ユー・フィール・イット〉は、兄弟が歌った何曲かと、あとからマイケルが歌った曲と同じように、あたしたちジャクソン一家全員の、世界に対する感じ方や責任感を表現したものだった。


救いの福音、永遠なる神の恵み、そして非暴力主義という3つの概念は、すべてあたしたち一家の信条から生まれたものだ。


兄弟たちは音楽が嫌になったことは一度もなかったけれど、ツアーがしだいに重荷となり、特に子ども連れの場合は大変だった。


1981年など、わずか1日か2日のツアーでも、毎回ジェット機で家に帰っていた。ショーは相変わらずエネルギッシュで観客を興奮さえていたが、舞台の袖からうかがっていると、兄弟のうち2人は時々心ここにあらずといった感じなのがわかった。


マネージャーの父が一番下の娘に目をつけたのは、兄弟が最後の出演契約を果たし、短期間ながら一家で休みをとっていたときであった。

My Special Love
(My Special Love)

その年、あたしは新しいアルバム〈マイ・スペシャル・ラブ〉を吹き込んだ。このアルバムを出すことは父の野心的な計画の1つだったので、一切あたしの自由にならず、満足できるものではなかった。


あたしは、2度とこんなことはさせまいと心に誓った。でも、すべてのことが自己のベストの反映であってほしいと思ってはいても、父があたしを管理している限り、そうはいかないことはわかっていた。


ジャネットとあたしは、ファミリー公演の一員として巡業はしなくなったけれど、2人が忙しいことに変わりはなかった。


あたしはヨーロッパでテレビショーに出演し、大勢の芸能人と会った。その中には地位の確立している人もいれば、売り出し中の人もいた。


あたしはあらゆるショーで、ポップデュオ・ワムの1人、ジョージ・マイケルと共演した。


明朝、出演者一同はばらばらに空港に駆けつけ、次の町に飛び立たねばならなかった。みんな眠そうで不機嫌な顔をしているのに、ジョージだけはそうではなかった。


飛行機の中でもジョージはヘッドフォンをつけ、指をはじき鳴らしながら声を張り上げて歌い、座席で踊るように体を揺すっていた。

Boy George and George Michael

彼には、歌手としての情熱や気迫があり余っていたのだ。そして、最高にイカしていた!話し合っているうちに、ジョージは、相棒のアンドリュー・リッジリーのほか、ボイ・ジョージと名乗る歌手といっしょに、ロンドンの大きな家に住んでいると言い始めた。


「ボイ・ジョージ?」
「そうだよ、やつはいつかきっと、人気が出ると思うね」


ジョージがジャクソンズが歌っているような黒人音楽について熱狂的に話すのを聞いて、あたしは素晴らしいと思った。


黒人音楽が彼に大きな影響を与えているのが、はっきりとわかった。事実、自分自身をすべて音楽に打ち込み、常に学ぼうと努力している彼の態度を見て、あたしは自分の兄弟のことを思い出していた。


彼にとっては音楽がすべてだったということが、これでおわかりだろう。



あたしはツアーとレコーディング以外に、父が引き受けていたさまざまな社会活動的な仕事もやっていた。その仕事が自分の経歴に大いに役立つと、あたし自身が考えていようといまいと、父は一切お構いなしだった。


というのも、あたしが父の考えには絶対逆らおうとしないことを知っているからだった。


そんな仕事の中に、アメリカ音楽賞のプレゼンター役があった。

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ジョージ・マイケルとの共演…ロンドンで暮らしているという話にこの時ジョージもアンドリューもボイ・ジョージもゲイだということをラトーヤはしっていたのだろうか~~?


バンド・エイドでも大活躍だった現在のジョージ・マイケルは違うことでメディアを賑わすことが多いんですが…

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第六章その3へ続く
 
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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第六章その3ジャネットとラトーヤ

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


トライアンフ(紙ジャケット仕様)


その3

というのも、あたしが父の考えには絶対逆らおうとしないことを知っているからだった。そんな仕事の中に、アメリカ音楽賞のプレゼンター役があった。


生放送の日、あたしは猛烈な胃痛で気分が悪くなった。ベッドで苦しみもだえている間、両親はじっと突っ立ってどうしたらいいか考えあぐねていた。


父は「あれなら治せるだろう」とぶつぶつ言いながら部屋を出ていき、効き目がごく緩やかな鎮静剤の入った薬瓶を手に戻ってきた。


そこに、自分の部屋からぶらっとジャネットが入ってきた。父は振り向いて、「身支度をして外出の用意だ。ラトーヤが病気なら、お前が代わりをつとめちゃくちゃならないぞ」と言った。


妹はとても元気のいい性格だった。「姉さん、すぐよくなったほうがいいわよ。だってあたし、姉さんの代わりなんかする気ないんだから。さあ、起きて!」とまるで警告でも与えるかのような口調で言った。


父はプラスチック製の小さなビンを渡しながら、「この薬を2時間毎にラトーヤに飲ませるんだぞ、わかったな?」と妹に言いつけた。


やがてリムジンが到着し、妹とあたしはあっという間に会場に向かわされていた。


下準備、リハーサル、そして“待ち”と、時間がだらだら過ぎていった。あたしがかすかな呻き声をあげるたびに、ジャネットはかん高い声で「さあ、また飲む時間よ」と陽気に言っては薬ビンを振りかざした。


たとえどんなに緩やかな薬だとしても、あたしは薬と名のつくものはこれまで1度も飲んだことがなかった。……なんと、やがてあたしは……とても……リラックスした気分になってきていた。


「もう飲みたくないわ、ジャン」あたしはふらふらしながら言った。口がもつれて、モグモグ言っているのが自分でもわかった。


「とても眠いわ、疲れているの……とても、疲れているの……」
「ラトーヤ……」妹はあくまでもあたしをステージに立たせようと決心し、「口を開けなさい」と命令口調で言った。


まもなくあたしは痛みが少しも感じられずなんともなくなってしまった。ライブショーの間、2人は観客席に座っていたが、あたしはビーズで飾った白の長いガウンを着て出番になるのを待っていた。


ジャネットはずっと周囲の状況を説明してくれたが、ホスト役の歌手テディ・ペンダーグラスがあたしに好意を持っていると、そっと耳打ちするように言った。


teddy_pendergrass.jpg
(Teddy" Pendergrass2010年1月13日結腸ガンで死去)


「あの人、じっと姉さんを見つめているんだけど、気がつかないの?」
「ジャネット…あたし関心ないわ…ちっとも」


とうとう呼び出しがかかった。妹は声を張り上げ、「オーケー、ラトーヤ、さあステージに上がる時間よ」と促した。


「ステージに?あたし今どこにいるの?」
「アメリカ音楽賞の会場でしょ!」ジャネットはあたしの肩をしっかりつかみ、揺すぶった。「さあ、立って!」


あたしはなんとか表彰台にたどり着き、スピーチをし、予定通り無事に賞を贈呈した。その晩、あたしは赤ん坊のようにぐっすり眠った。


ジャネットとあたしは、ともにイースト・シカゴで育った母と、その妹ハッティとに似ていた。


妹は母の妹に似て、何事にも積極的なおてんば娘だったし、あたしは母似で、気むずかしく潔癖、そして引っ込み思案だった。

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(モハメッド・アリと妻ヴェロニカと)


ジャンは外見を気にしない性格だった。マイケルは少なくとも週に数回は、有名人をヘイブンハーストのわが家に招待していた。



マーロン・ブランド、ソフィア・ローレン、モハメド・アリ、エリザベス・テイラーなどがゲストだった。

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(ソフィア・ローレンと)

いつも家を離れない家事手伝いがいたし、廊下でいつどんな名士に遭遇するかわからなかったので、あたしたちは自分の家なのに、ゆったり寛いだ気分になったことは一度もなかった。

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(マーロン・ブランドと)

だらしのない格好をしたり、バスローブのまま歩き回るといったこともできなかった。あたしたちはいらいらしたが、その分、いつも小奇麗な身なりでいようと努めることにはなった。

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(ジェーン・フォンダと)

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ラトーヤとは正反対のジャネットは、しっかりさっぱりしてて男っぽい感じが女性のファンを獲得してるところかな…
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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第六章その4へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第六章その4鬼軍曹マイケル騙される?

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


ウィズ [DVD]
シドニー・ルメット監督

その4

だらしのない格好をしたり、バスローブのまま歩き回るといったこともできなかった。あたしたちはいらいらしたが、その分、いつも小奇麗な身なりでいようと努めることにはなった。


ところが、ジャネットは平気で野球帽をかぶり、しわくちゃのTシャツを着ただけの姿で、階下に降りてきたことが2度ほどあった。


来客が信じられないといった顔をしてみていると、「ハーイ!」と陽気な声で挨拶し、さっさと出て行ったのだった。マイケルは大いに傷つき、見たこともないほどの激怒ぶりを見せた。


「ちゃんとした服を着てないのなら、降りてくるんじゃないよ、ジャネット!誰が来ているかわからんじゃないか、困っちゃうな。頼むよ」と、マイケルはあとで叱りつけていた。


「こんな家なんかもういや!」ジャネットは不平を言い立てた。
「好きな格好で歩けないじゃない。第一、お手伝いさんが多すぎるのよ。だからいつもきちんとした服を着なくちゃならないんだわ。それに、下に降りて行って好きな格好でいたいと思っても、できないじゃない。気が変になりそうだわ!」

あたしにはジャネットの気持ちがわかるけど、「ジャン、Tシャツは階段までよ」と角がたたないように注意した。


マイケルが「その太くてくさいも(・)も(・)はみっともないぞ!」と大声でからかったので、妹は自分の部屋に駆け込んで乱暴にドアを閉めてしまった。ベッドにいた犬を怒鳴って追い払う声が、ホールにいても聞こえた。



マイケルは申し分のないホスト役で、なんでも完全なところを見せたがる。誰かを招待すると、あたしをわきへ連れていってしつこく尋ねるのだった。


「飲み物は充分あるんだろうね。食べ物は他に何か欲しいと思わないかな。万時オーケーだと思う?」


「マイク、もうお客様にお聞きしたのよ。そしたら何もかも素晴らしいって」
「本当?」
「ええ、本当よ」


しばらくすると、弟の優しさがかえって腹立たしくなってくる。ある日、外出しようと身支度をしていた時、マイクにいたずらしてやろうという気になった。


父の部屋に入り、別の線から弟に電話をかけた。ニューヨークなまりに最高に似せて話をした。「もしもし、マイケルさんですか?」


「そうですけど?」
「こちら、シドニー・ルメットの秘書のものでございますが」
「ああ、はい!」映画〈ウィズ(オズの魔法使い)〉でいっしょに仕事をして以来、この監督を尊敬していたマイケルが、胸をドキドキさせているのがわかった。


「ルメットさんが当地に見えて、あなたに会いたがっているのですが」
「本当ですか?」受話器を横に置く音がして、「ラトーヤ!ラトーヤ!」と叫びながらあたしの部屋に走ってくる音が聞こえた。


あたしは受話器を枕の下に隠した。「ここよ!」
マイケルの頭がひょいっと戸口に入ってきた。「誰からかかってきたと思う?シドニー・ルメットの秘書からだよ!なんでだと思う?」興奮のあまりわれを忘れたマイケルを見て、あたしは今にも吹き出しそうになった。

0820-Wiz production



「シドニー・ルメットがぼくに会いたいんだって!」
「え?ルメットが?」


「そうなんだ。じゃ、戻るよ。秘書が待ってるから」2,3秒後、「もしもし」という息せき切った声が聞こえた。


あたしはニューヨークなまりで言った。「もしもし、マイケルさん、ルメットさんはそちらのお宅でお会いしたいそうです。もうそれほど遠くないところに来ています。お寄りしてもよろしいですか?」


「冗談じゃないんでしょうね、あ、電話切らないでください!」
マイケルはまたジョーゼフの部屋にすっ飛んできた。


「ラトーヤ、どうなったと思う?今こっちにみえるんだってさ。会いたいんだけど……」


弟はいつもチリひとつ落ちていない家を見渡し、「掃除しろよ!」と怒鳴ると電話口に戻って、いつでもどうぞと、“秘書”に言った。


もうお世辞を並べたてるよりほかなかった。
「ルメットさんは、マイケルさんがとても有能だと本当に思ってますの。そしていつも〈ウィズ〉の素晴らしい演技のことを話しています」

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あらら、ラトーヤのいたずら、どうやって白状するんだろう?
わぉ、マイケルの反応はどんな風なんやろう?

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マイケルの新しい本、聞いたことのないお話があって新鮮です⇒マイケルの贈り物―ファンが綴る感動の日々



インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第六章その5へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第六章その5ラトーヤへの愛

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


アルティメット・コレクション


その5

もうお世辞を並べたてるよりほかなかった。
「ルメットさんは、マイケルさんがとても有能だと本当に思ってますの。そしていつも〈ウィズ〉の素晴らしい演技のことを話しています」


「わあ、うれしいですね。じゃ、用意してますからね、失礼!」
「ママ!シドニー・ルメットがここに来るんだ!」マイケルは叫んだ。


「シドニー・ルメットがここに来るんだ!みんな急げ、ガレージを閉めるんだ!家を掃除しろ!」と、まるで鬼軍曹のように大声で命令を発した。


マイケルは異常に興奮し、洋服を引っ張り出しながら、「だけど、何を着たらいいだろう?髪型はどんなふうにしようか」と尋ねた。


あたしはこの時も、そして弟が尊敬する来客を門のそばで目立つよう待っている時でさえ、調子を合わせた。


とうとう我慢できなくなって、車寄せをぶらぶら出て行き、何気なく尋ねた
「マイク、ここでキャンプでもするつもり?」

sidney lumet
(シドニー・ルメット監督と妻ジェニー)

弟は門に目をやりながら、気が気ではないような様子で、「ラトーヤ、どうも腑に落ちないんだ」と答えた。


「それはそうと、秘書はなんて言ったの?こんなふうに(と、“トーク”をニューヨークなまりで“トウク”と発音して)言ってなかった?」とあたしはすまして聞いた。


マイクは目をくるっと動かした。「うーん……」

「秘書はニューヨークなまりで“ルメットさんはあなたがとても有能だと思ってますの”って言ったの?」
「言ったよ!」

弟はしばらく考え込んで、「待てよ」と疑うような目になった。

「電話を聞いてたんだろう!」
「聞いてなんかいないわ」あたしは無邪気に答えた。


「じゃ、秘書が言ったことをどうして知ってるんだ?」

「あれはあたしだったからよ」


マイケルはぽかんとした。「さあ、わかったでしょ!」笑いこけていたので、あたしは弟が庭のホースを取り上げたのに気づかなかった。


弟はやけになって大声で笑いながら、あたしのスエードのアンサンブルをびしょ濡れにしてしまった。あたしは悲鳴をあげて母に助けを求めた。



マイケルのような弟が持てるなら、たいていの女の子だったら何だってするだろう。あたしの心が乱れている時など、マイケルはわざわざ店まで車を走らせ、雑誌やよくいっしょに観ているビデオなどをどっさり抱えて戻り、いつもなぐさめてくれた。


フランク・シナトラのサイン入り写真をあたしのために見つけてきてくれたり、あたしの好きな著者を自宅に招き、元気づけてくれと、特にあたしのために頼んでくれたりした。

Cary_Grant_in_To_Catch_a_Thief_trailer.jpg

ケーリー・グラントがあたしのアイドルだと知って、ある夜、この伝説的な俳優をディナーに招き、あたしを驚かせた。


これまで名士にはたくさん会っているけれど、なんて感激!グラントさんはあまり長くいなかったけれど、82歳という高齢なのに思っていたとおり愛想がよく洗練されていて、立派だった。ひと言でいえば、完璧な紳士だった。


あたしが居間に入って行くと、ステキな英語で「どうぞゆっくりしていらしてください。おすわりになりませんか?」と言った。


まるであたしの方がお客で、グラントさんがホストみたいだった。あたしにとって記念すべき夜だった。


いちばん変わっていたお客様は、人気ミュージシャンだった。ロサンゼルスに住んでいるとレコード界のゴシップをたくさん耳にするけれど、人柄なんて実際に会ってみなければわからないものだ。

cary grant-2


この人は魔術に首を突っ込み、さかんに練習しているという噂があった。(名前はわからないけれど、他の芸能人にも同じような話を聞いたことがあった)。


“エホバの証人”では、オカルトを信じたりそれに関係したりすることは禁じられている。でも、信者やまじない師になるわけではないし、魔術の存在を認めるだけならいいのではないだろうか。


ディナーはこれといって変わったことはなかった。この人がテーブルを離れようとしたとき、マイケルに包みをかけていない大きなボール箱を手渡した。


あとで弟とジャネット、そしてあたしが母の部屋に運び、マイケルがそっと蓋を開けた。・・・
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ホースで水、この場面結構有名な逸話なんですよね~。私もかけてもらいたい~~!
しかし往年の名優、ケーリー・グラントがジャクソン邸へ来ていたとは!
この、ヒッチコックのお気に入りだったケーリー・グラントは、確か82歳で急逝しました。管理人も大好きです♪

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第六章その6へ続く

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インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー第六章その6マイケルの子供たちへの愛

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


エイズと闘った少年の記録 (心にのこる文学 (7))


その6

ディナーはこれといって変わったことはなかった。この人がテーブルを離れようとしたとき、マイケルに包みをかけていない大きなボール箱を手渡した。あとで弟とジャネット、そしてあたしが母の部屋に運び、マイケルがそっと蓋を開けた。・・・


中に入っていたのは、いくつかの小さな箱で、それぞれ小枝や乾いた葉っぱ、それにカセットテープといった変わったものが入っていた。


あたしたち3人は箱を眺め、それから互いに顔を見合わせ、“あの噂は本当かも知れない”と考えた。メモとか、変わったプレゼントを説明する者は何もついていなかった。


「テープをかけて!テープを!」ジャネットはせきたてたけれど、マイケルは「ノー」と首を振り、「1つには他人の歌を盗んだと言われたくないんだ。本当に聞きたくないんだ」と説明した。


あたしたちはあとでそのテープを使用人の1人にあげた。彼はそれを聞き、戻ってきて報告した。「歌とおしゃべりでした。全部逆に録音してあります」


マイケルとあたしは、箱とテープの意味について話し合った。あとでアシスタントを通じてわかったことだが、マイケルのどっしりしたラインストン(人造ダイヤ)のついたソックス一足が、このミュージシャンの所有物になっていた。


あの客はマイケルに魔法をかけようとしていたのだろうか。そうとしか思いようがなかった。弟は「姉さんの信仰が厚ければ、たとえ誰かが必死になって魔法をかけようとしても、ききはしないよ」と言った。そうだとわかっていたけれど、いまも考えただけどぞっとする。


ヘイブンハーストであたしたちにもてたお客様は、子どもたちだった。たぶん、あたしたちの育てられ方への反動からだと思うけど、若者といっしょに慈善事業をたくさん行っていることは世間に知られている。


メイク・ア・ウィッシュ財団などの団体を通じて、マイケルに会いたいと子どもが頼んできた。


期待を裏切ったことは一度もなかった。数え切れないほどたくさんいる末期的病気の子どもたちにとっては、マイケル・ジャクソンと会えることは最後の願いだった。


マイケルは子どもたちの家や病院に出かけたり、ヘイブンハーストに招いたりして、好きなだけいっしょにいてあげた。


ホームシアターで観たい映画を見たり、あたしたちのキャンディストアで好きなキャンディを選んだりできるとわかったときの、子どもたちの表情を見るときほどうれしいことはない。


マイケルは、珍しいペットを見せてあげたり、ゲーム室で最新のビデオゲームをしたり、子どもたちが望むもの、子どもたちを楽しませるものは何でもやった。


子どもたちの訪問は多くは公表されなかった。訪問のあとも、大勢の子どもたちと交流が続いていることも公表されなかった。


ガンにかかっていた1人の少年は、ヘイブンハーストから帰ったわずか2日後に亡くなってしまった。

ryan white
(ライアン・ホワイトとマイケル)

子どもの訃報を聞くと、マイケルはいつもすすり泣きを始めた。エイズにかかりながら、この未知の病気と勇敢に闘った少年ライアン・ホワイトをはじめ、1人1人の子を本当に愛していた。


マイケルは、ライアンとその家族をサンタイネツの牧場に何度も連れだした。この子が1990年に亡くなった時は、葬式に参列した。これはめったにないことだった。

(※多数の著名人が参列したライアンの葬儀は「インディアナ州で行われた最大規模の葬儀」と呼ばれたという)

(※ライアン・ホワイト少年の記事はマイケル・ジャクソンの軌跡を綴るブログへ)



訪問客が誰であろうと、マイケルはあたしがそばにいるよう言い張った。あたしはいつもいっしょにいろんなことをやってきたけど、来客の時間になるとマイケルはあたしに、「さあ下に行こうよ、頼む」としつこくせがんだ。


「いいえ、マイク。今度だけは1人で行きなさい」
「頼むよ、ラトーヤ」
「いいわ、あとからね
「今でないとだめだよ」


マイケル・ジャクソンは本当は1人では何もできず、少しでも横から手助けしてあげなければならない人のようだ。


人間にとても興味を持っているけど、恥ずかしがり屋なので会話が途絶えると、座がしらけないようにあたしが代わりにおしゃべりをしたものだ。

yul brynnner king and i
(yul brynner)

ユル・ブリンナーが来たときも、弟はほとんど話さなかったので、礼儀上、〈王様と私〉や子どものことなど、あたしがこの有名俳優を質問攻めにした。
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誰だろう?魔術に凝ってたミュージシャンって…
ライアン・ホワイト君は素晴らしい自伝も遺していますね。
自伝の内容はコチラライアン・ホワイト自伝

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ラトーヤ自伝第六章その7へ続く

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ラトーヤ自伝第六章その7ジャーメインのねたみ

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


フォー・ユー


その7

ユル・ブリンナーが来たときも、弟はほとんど話さなかったので、礼儀上、〈王様と私〉や子どものことなど、あたしがこの有名俳優を質問攻めにした。


きっと少しおかしいと考えた人もいると思う。〈オズの魔法使い〉の撮影中についた癖で、マイケルとあたしはよく同じような服を着ていたが、このことも人は不思議に思ったことだろう。


どうしてだかわからないけれど、1人が「ピンクのセーターと黒いパンツにしよう」と言い出すと、もう1人が「ステキ!そうしましょう。いっしょの服で見物だわ」といつも賛成するのだった。



1983年の初め、史上最高の売り上げ枚数になるだろうと弟が言っていたアルバムが、本当にその通りになろうとしていた。


《スリラー》は約5000万枚(※これは初期の頃の記録、現在はトータルで1億500万枚セールスしている)売れ、ヒットチャートの第1位が2曲《ビリー・ジーン》《ビート・イット》と“トップ10”入り5曲、〈スリラー〉(ウォナ・ビー・スターティング・サムシング〉、〈ヒューマン・ネーチャー〉〈PYTプリティ・ヤング・シング〉それにポール・マッカトニーと吹き込んだ〈サ・ガール・イズ・マイン〉を生み、前例のないことにグラミー賞を8つも獲得した。


しかし、マイケルにとって賞の数よりももっと重要なことは、音楽によって人種差別の壁が打ち砕かれることを〈スリラー〉が証明したことだった。


「あらゆる人種の人が必ずぼくを1個の人間として認め、“これがマイケルだ、彼のレコードが好きだ、皮膚の色なんてどうだっていい“と言ってくれるようになると思う」と予言していたが、それが実現したのである。


〈ビリー・ジーン〉と〈ビート・イット〉用の目もくらむようなビデオは、ミュージック・ビデオ専門の有力ケーブルテレビ“MTV”から、事実上黒人アーティストを締め出していた白人と黒人の境界線を飛び越し、あらゆる世代の黒人タレントに道を開いてくれた。


その春、モータウン25周年テレビ特別番組のために行ったマイケルの〈ビリー・ジーン〉の公演は、音楽市場重大な出来事の1つになった。


スパンコールのついた黒いジャケット(もともとあたしが母に買ってあげたものなのに!)を着て、ステージを端から端までムーンウォークで歩いたマイケルは、恐らく世界が絶対に目覚めることのない不思議な魔法をかけたのだ。


その夜、マイケルはすっかり有頂天になって家に帰ってきた。当然のことだけど、誰がどうしたこうしたといったゴシップ、特にシュープリームスが復活したのにダイアナ・ロスとメアリー・ウィルソンがステージでちょっと口喧嘩したことなど、話したくてうずうずしている様子だった。


モータウンがマイケルに、ジャクソンズの他のメンバーと〈モータウン25・家スタディ・トゥディ・フォーエバー〉に出演する話を持ちかけてきた時、マイケルは最初断ったけれど、それは会社やベリー・ゴーディに敵意を抱いていたからではなかった。


1970年代半ばにシリーズで放送されたCBSのミュージカル・コメディ〈ザ・ジャクソンズ〉以来、マイケルはテレビというものに熱意を失っていた。

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テレビ出演の夜を、人々はマイケルがグループに復帰した日と思いがちだが、戻ってきたのはジャーメインだった。


マイケルはソロ・アーティストとして大喝采を浴びていたけれど、専門的にはいまも相変わらずジャクソンズの5人の1人である。


ジャーメインが弟を妬んでいたことは言いたくないが、マイケルが新しいアルバムを苦労して作っている間、必ずしも協力的ではなかった。家族会議ではすねてこう言っている。


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「マイケルはずっと〈スリラー〉にかかりっきりで、時間を無駄にし、何かやろうとしない。音楽産業は不振で、すべてが下降気味だ。おまけにこのアルバムはくだらない歌の寄せ集めだ」


「そんな言い方はよして」と、あたしは抗議した。「素晴らしいアルバムよ。世界中でヒット・アルバムの1枚になるってマイクは言ってるわ。信用できないの?」


「ああ、マイクはいつも夢を見ているんだ。ピーター・パン物語のようにな」ジャーメインは見下すように手を振り、「みんながマイクの肩を持つ。ラトーヤはマイクとにかわみたいにくっついている」と続けた。

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ときどき兄はこんな口調になると、あたしの肩をつかんで椅子に押し倒し、「さあ、話を聞け」と命令するのだった。

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結束の固いジャクソン兄弟ですが、その中でジャーメインは自己顕示欲がわりと強そうな感じがしますね。しかし、ルックスも歌もかなりのものですから、そりゃそうも思いたくなるかもしれませんね。
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ラトーヤ自伝第六章その8へ続く

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ラトーヤ自伝第六章その8ジャーメインのエゴ

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


モータウン・ハンドブック


第六章その8

ときどき兄はこんな口調になると、あたしの肩をつかんで椅子に押し倒し、「さあ、話を聞け」と命令するのだった。


〈スリラー〉の売り上げが急上昇し、天文学的な数字になって成功したとき、ジャーメイン以外のジャクソンズはみんなマイケルのために大喜びしたけど、そんなマイケルのせいで、ジャーメインがその年は暗い気分でいたのもわかる気がする。


〈スリラー〉の売り上げのすごさを説明すると、1983年に大活躍した6グループ(ポリス、デュラン・デュラン、デビッド・ボウイ、クワイエット・ライオット、カルチャー・クラブ、ローリング・ストーンズ)のその年の売り上げ枚数集計し、それを2倍にしてもまだマイケルには及ばない、ということになる。


あたしたちはみんな、マイケルとジャーメインのふたりとも愛していたので、ジャーメインが新聞にマイケルは“白人”になろうとしているなどと、悪意のあるコメントを出しているのを読んで胸が痛んだ。


どうしてジャーメインはこんなことが言えるのだろう。ところがその次には、自分はマイケルを妬んでなんかいないし、第一、その成功は家族全員で“分け合う”ものなのだ、といったコメントを出すのだった。


ジャーメインは心からそう思っていたかもしれないが、マイケルの成功は彼一人の努力で得られたものだった。でも、誰一人としてジャーメインにその間違いを教える勇気はなかった。


面白いことに、ジャーメインはマイケルの信用を落とすようなことをしていながら、6人の兄弟全員の復活を目指して盛んに働きかけていた。

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1983年、ジャーメインはソロの大スターにしてやるというベリー・ゴーディの約束を果たされないまま、モータウンを去った。


ジャーメインは養父の会社に残ると決めて以来、この8年間にアルバム8枚とシングル1曲を発表した。


そのうち”トップ10“入りしたのは、1980年のアルバム〈レッツ・ゲット・シリアス〉の中のタイトル曲(モータウンにいたもう一人のティーン・エイジャースター、スティービー・ワンダーによる共同制作)だけだった。
(曲が入っているのはコレベスト80’S 100


挫折感を抱いたジャーメインは、おくればせながらジョーゼフたちが何年も前に出した結論に達した。要するに、アーティストをヒットチャート上位に押し上げる力が、モータウンにはもうなかったのだ。


ジャーメインはベリーとヘイゼルの祝福を得て、アリスタ・レコードと契約した。


〈モータウン25スペシャル〉のため、ジャーメインがマイケルやマーロン、ランディ、ティト、ジャッキーと再び合流した頃は、兄弟たちにとっていちばん幸福な時期だったと思う。再び6人そろって、家で〈アイ・ウォント・ユー・バック〉や〈ザ・ラブ・ユー・セイブ〉〈ネヴァー・キャン・セイ・グッドバイ(カヴァーはトレインチャでネヴァー・キャン・セイ・グッバイ)〉のリハーサルをしているのを眺めていると、じーんとなり、そして胸がわくわくしてきた。


ジャーメインは、各人が自分の歌をレコーディングできるようにする一方で、この結成を長く続けようと提案し、ほぼ全員がとにかく賛成した。


「兄弟は兄弟らしくみんな一緒にいて、ツアーをし、ファミリーとしてカムバックすべきだよ」ジャーメインは家族会議で情に訴えるように説いた。


「だけど、問題は誰にあるかわかるね。頭が空のはるか上のほうにあってお高いんだから」と、マイケルのことをほのめかしながら苦い顔で辛辣(しんらつ)な言葉を吐いた。みんな目を丸くした。どうしてジャーメインはこうなんだろう。


父はジャーメインの考えを心から支持した。6人の子どもがみんなまた一緒になる、昔通りになるのだ。


だけど1つ大きな違いがあった-------------ジョーゼフはもう子どもたちのマネージャー業を積極的にはやらなくなり、2年ほど手を引いていた。


父は息子たちの幼いころからひどい仕事をやらせ、なくてもいい訴訟を招いたり、業界の重要人物と不和になったり、自分の手に余る問題を引き起こした。


兄弟たちは自分を守るためにとうとう父と対決し、これからは名目だけのマネージャーにすると宣告した。


マイケルはマネージャーとしての父のやり方が間違っていることに早くから気づき、いつも愚痴をこぼしていた。

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ジャクソン兄弟が勢ぞろいして、力を合わせていくことをみるのは素晴らしいシーンだったでしょうね。

確かにジャーメインにすれば悔しかったでしょうね、しかしマイケルにくっついていれば、自分もその名声にあやかれるということだったのかな。

マイケルの才能に嫉妬し、認めたくなかったのかな、ジョー父もジャーメインも…

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ラトーヤ自伝第六章その9へ続く

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ラトーヤ自伝第六章その9 マイケルのデマンと父解雇

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


モータウン・ハンドブック


第六章その9

マイケルはマネージャーとしての父のやり方が間違っていることに早くから気づき、いつも愚痴をこぼしていた。


「あーあ、ジョーゼフがやってくる。ぼくのやりたくないことを頼みにくるんだ。ああ、こんなのいやだよ」などと、いつも言っていた。


あたしがオーバーねえと笑うと、「いつかやるぞ、ラトーヤ。冗談じゃない。ラトーヤのマネージャーをやり始めたら、きっとやめてほしいと思うよ。何かやりたいと思っても、それができないんだ。今にぼくの気持ちだってわかるよ」と反論するのだった。いつもその通りだった。


マイケルは、18歳の時から何でも自分でやってきた。父の仲間のフレディ・デマンやロン・ワイスナ―に、「こんなふうにしなきゃだめだよ。聞いているの?オーケー、これとこれを発表して……」などと電話で命令しているのを、偶然よく耳にしたものだった。


弟の物腰はどちらかといえば柔らかいけど、伝説に残るほどの経営手腕を発揮し、いろいろなジャンルの芸能人からよく相談を受けている。


1983年の初め、マイケルたちはジョーゼフとワイスナ―、デマンを正式に解雇した。父はショックを受け、傷つき、手数料が入らなくなるといって怒った。


“みんなを牛耳っている”という言葉が気に入っていたけれど、ジョー・ジャクソンは初めてみんなを牛耳れなくなり、途方に暮れた。


ジャネットとあたしのマネージャーはまだやっていて、あたしたち以外の芸能人も残ってはいたが、まるで無名の人ばっかりだった。もう以前と同じではなかった。


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父が解雇されたという噂が新聞社に届いたとき、父はそんな噂はウソだ、というような反応を示した。


「グループを解散させて儲けようとしている、蛭みたいな奴らがいっぱいいるんだ。そんな奴らがマイケルの耳にいろんなことを吹き込んでいるが、それがどんな連中だかはわかっている。奴らの目当ては金だけだ。ジャクソンズの生まれる昔から芸能界にいるんだ。最後までいるぞ」


そんな父の言葉は広くマスコミに引用された。ジョーゼフはリポーターに、「CBSの会社組織と取引するには白人の助けが必要になる。ワイスナ―とデマンなら役に立つと思った」から契約したと語り、「だけど、パートナーなら当然受ける敬意を払おうとしなかったから、辞めさせたのだ」と付け加えた。


ジョーゼフの人種差別的なコメントに、あたしたちはみなショックを受け、当惑した。マイケルは、「ぼくは人種偏見など持っていない。黒人だから雇うのではなく、有能だから雇うのだ。最適任者であれば、人種も宗教も関係ない」と公式声明を出した。


さらに、「人種差別はぼくのモットーではない。いつの日か、あらゆる人種が一家族として愛し合うようになることを期待している」とつけ加え「どうして父があんなことを言うのかわからない」と、それ以上傷が広がらないように心遣いをした。


ところが実際には、あたしたちはみんな、父ばかりでなく母のことでも事実を知った。恥ずかしいことだけれど、両親とも人種差別的な考え方をしていて、特に、芸能界で才能を発揮しているユダヤ人に対して差別的態度をとっていた。


「この世界では、どこへ行っても何をやっても必ずユダヤ人がいる。我慢ならないわ」と、母はいつも苦々しげに言っていた。


「ユダヤ人はいつもトップにいるし、鼻がばかに大きいね。何でも支配することが好きなんだから、ユダヤ人はみんな嫌いだわ」とながながと不平を言い立てていたが、当のユダヤ人と向かい合っている母の顔は、努めて優しさを装っていた。


皮肉なことに、ジョーゼフが法律やビジネスの面でトラブルを起こした時、母が最初に口にするセリフは決まっていた。


「今すぐユダヤ人のところへ行ったほうがいいわ。この世界ではユダヤ人が支配しているんだから」…


残念なことに、母の考え方がジャネットに乗り移ってしまい、あたしもユダヤ人が嫌いと言って、母の悪意ある非難に賛成するのだった。

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正義感の強いラトーヤ…マイケルそっくりですね。本当にふたりは双子のように考え方もそっくりなんですね。

でも実際、ユダヤ人の手は世界中どこにでも伸びていそうですよね…
ユダヤ人は鼻がばかに大きい…(;一_一)??

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ラトーヤ自伝第六章その10へ続く

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ラトーヤ自伝第六章その10 ショービズ業界の裏の裏

インサイド・ザ・ジャクソン・ファミリー
(1991年9月10日)
原題「LA Toya: Growing Up in the Jackson Family」
著者 ラトーヤ・ジャクソン 訳 高橋伯夫


Michael Jackson: Auction


第六章その10

「今すぐユダヤ人のところへ行ったほうがいいわ。この世界ではユダヤ人が支配しているんだから」…残念なことに、母の考え方がジャネットに乗り移ってしまい、あたしもユダヤ人が嫌いと言って、母の悪意ある非難に賛成するのだった。


そのやり方から判断すると、ジャネットはユダヤ人が好きだというふりをして、もらえるものは手に入れ、それから絶交するのがいちばんいいと思っているようだった。


そんな話を特に母の口から聞くと、あたしは胸が悪くなってきた。信心深い女性が、どうしてそんな忌まわしい存在になってしまったのだろう。


誰かが目の前で反ユダヤ的なことを言うと、マイケルとあたしはすぐ咎めた。あたしたちはユダヤ人が圧倒的に多い学校に通い、両親の態度は恥ずべきものだと知った。


「ある人種が他の人種より優れているとか劣っているとか、そんなこと言えないわ。あたしたちはみな同じなのよ」とあたしは主張した。


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(Frank dileo)


「ママ、お願いだからこう考えて」マイケルは哀願するように言った。「ぼくたちは少数民族でしょ、ユダヤ人もそうなんだよ。彼らがどんな扱いを受けているかみてごらんよ。すごく苦労してきたんだ。だけど一致協力し、ものすごい進歩を遂げてきたんだ。なぜ1人種として、ぼくたちに同じことができないんだろう」


けれど、あたしたちのどちらかが、1人の行為からその民族全体を悪いものと決めつけることはできない、と注意しようとすると、母はいつもそれをさえぎった。


「ママにそんなこと言わないで!ユダヤ人はみな同じなのよ。ママはお前たちより長く生きてるのよ。経験だって豊富なの。ママはわかってるわ」とガミガミ言うのだった。


他の兄弟の中にも、同じように母と父の意見にうんざりしている者がいた。「こんな会話は聞き飽きたよ」と1人が言えば、「この家にちょっと寄ると、いつもユダヤ人の話ばっかりだ。吐き気がするよ」ともう一人が言っていた。


母の嫌悪感がどんなに強かったからは、何度か耳にしたこんな言葉を聞けばわかる。


「ヒットラーが一生で犯した間違いが1つあるわ。それはユダヤ人を皆殺しにしなかったことよ。彼はこの地球上に忌々しいユダヤ人をたくさん遺しすぎたわ。だから、ジョーゼフがいつも“アーメン”のあとに、“ユダヤ人に呪いあれ”とつけ加えるほどに増えたんだわ」


子どもたちに対する父の支配力が衰えれば衰えるほど、父と母は外部の人間に疑い深くなった。父はこれまでずっと、仕事には口出しするなと母に言い続け、母もそれに従っていた。


けれど、マイケルの〈スリラー〉のあとは、特に事情が変わってしまった。その一方で、母が悪いと言っているのではない。ふたりには、他の息子たちがどんどん奪われていくように思われたのだろう。


こんなことは音楽業界では簡単に行われているのだ。仕事を進めるために雇われた従業員が、2000ドル、3000ドルとうまく金をくすねることができ、わからないように金銭の“ギフト”をもらい、手数料と称して受け取ったそのリベートを隠すための契約の手直しができる、というのがこの業界なのだ。

大した資産もない男をマイケルが雇ったところ、2,3週間後にはピカピカのBMWを運転していた-----こういう話も決して珍しくなかった。

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(Frank Dileo)

仕事の依頼が次々と押し寄せ、どうにも動きのとれなくなったマイケルは、1984年、フランコ・ディレオをマネージャーに雇った。


けれど、実際にはマイケルが引き続き仕事の管理をしていた。マイケルはディレオをエピック時代から知っていた。


彼は同社の前副社長として、〈スリラー〉の売り込みには欠くことのできない存在だったのだ(同社の重役たちは、このアルバムは失敗するだろうとかげでは言っていた)。

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(Frank Dileo)

ディレオはあたしの言う“ノー”マンで、やり手というよりは調整タイプのマネージャーになった。


というのも、弟が人の頼みを断ることのできない性格だったからだった。額が禿げ上がり、頬が赤ちゃんのようにふっくらし、丸々と太った子男のディレオは、横柄にしようと思えばできたのにマイケルの命令通りに動いていた。


驚くようなことでもないだろうが、ジョーゼフは息子のこの新しいマネージャーが好きではなかった。

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キャサママ、過去に何か苦い経験があって、それがユダヤ人とだったのだろうか…ユダヤ人に対する発言は確かに激しいものが感じられるんですが…

そう、2月のラリー・キング・ライブではブライアン・オックスマンと出演したジョー父は、確かにフランク・ディレオとトーメ・トーメ医師を名指しで非難していましたね。その記事はコチラ→記事ソースラリー・キング・ライブ出演ジョー・ジャクソント


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